新宿ゴールデン街の奥で “話す”をデザインするバー
新宿ゴールデン街の奥まった路地にある小さなバー「グリゼット」。ブラウン色の扉を開けて中に入ると、どこかほっとする空気に包まれます。出迎えてくれるのは、元グラフィックデザイナーのママ・吉田裕子さんです。
「人と話すのって、ライブなんですよ」。そう語る裕子さんは、2010年、30代後半で飲食未経験のまま店を始めました。きっかけは、ゴールデン街でバーを経営していた友人から声をかけられたこと。
「店を閉めることにしたんですが、もし興味があればやってみますか?」
当時はフリーのデザイナーとして働いていましたが、2008年のリーマンショックで仕事が大きく減り、「思い切って違うことをやってみよう」と考えたのだそうです。
ひとりで来るお客さんとの「距離感」を大切に
「お店を始めたばかりのころは、友達しか来なかったし、開店して1年後に東日本大震災があったりして、大変でした。でも、少しずつ知り合いができて、だんだん広がっていったんです」
今ではリピーターが6~7割。年齢は20代後半から60代以上までとさまざまですが、40〜50代が目立つといいます。最近は、外国人のお客さんも増えてきました。
「リピーターのお客さんは、男女問わず、ひとりでふらっと来る人が多いですね。お客さんの話に耳を傾けながら、必要なら会話に入る。そういう距離感を大事にしています。差別的な発言はNGですが、あとは何を話してもOK。私も結構しゃべるほうなので(笑)」
その“聞く”と“話す”のバランス感は、デザインの仕事で培った「構成力」に通じています。会話だけでなく、空間も含めて「店をデザインする」感覚なのです。
“グリゼット”という名前に込めた想い
「グリゼット(Grisette)」という店名にも、裕子さんの想いが込められています。フランス語で「灰色の服を着た女の子たち」を意味し、18〜19世紀のパリでお針子などの仕事に従事した、若い女性労働者を指す言葉です。
「知り合いのフランス文学の先生が“グリゼットっていいんじゃない?”って言ってくれて。レ・ミゼラブルの悲劇的なイメージが知られていますが、“実際はそうでもないんだよ”と教えてもらいました」
元気があって、自立してて、恋愛も仕事もたくましく生きているイメージを「グリゼット」という言葉に感じた、と裕子さんと振り返ります。
「いまの言葉で言えば“ギャル”ですよね。私はこのバーで、女性がひとりでも元気に飲みに来られる空間をつくりたかったから、ぴったりだと思ったんです」
新宿の真ん中にたたずむ小さなアートスペース
そんな“グリゼット精神”は、2階のギャラリースペースにも表れています。「せっかく新宿のど真ん中に場所を持ってるんだから、面白いことをやりたい」と始めた展示は、すでに47回を数えます。
屋根裏部屋のような約3坪のスペースを使って、絵画や彫刻、ビデオアートなど、さまざまなスタイルのアーティストの個展を企画してきました。
「作家さんと話すのも楽しいし、展示がきっかけで新しい人と出会えるのもいいんです。ギャラリーとしてはゆるいけど、ちゃんと作品と向き合える場にはしたいと思っています」
そんなギャラリーの天井や壁は、新築アパートのような真新しい白さが目につきます。2016年にゴールデン街の近隣店舗で発生した火災によって傷つき、リフォームせざるをえなくなったためです。
「あのときは半年ほど店を開けられなくて、大変でした。知り合いのお店でバイトしたりして、なんとかしのぎました」
でも、そのバイト中に出会ったスウェーデンの音楽家といまでも交流があり、来日するたびに、バーに立ち寄ってくれるというのだから、人間の縁とは不思議なものです。
SNS時代だからこそ「ライブで話すのが楽しい」
お酒はスタンダードなラインナップに加え、新潟の友人が作るワインも置いています。カウンターの上の書棚には、出版関係のお客さんから贈られた本がずらり。
こぢんまりとした空間に、ほのかな文化の香りが漂います。
「いまはSNS全盛の時代で、直接会わなくても、いろいろな人とコミュニケーションができるようになりました。でも、だからこそ、リアルで会って、ライブで話すことが楽しいんじゃないかと思います」
震災や火災やコロナ。度重なる困難を乗り越えて、15年間、バーを続けてこられたのは「お客さんと話すのが楽しかったから」と、裕子さんは口にしました。
初めてでも、常連でも、ひとりでも。誰でもスッと受け入れてくれる。そんな空気が「グリゼット」にはあります。
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