吐血が止まらない。独身の「アル中」が救急車で運ばれた(ひとり断酒会 2)

「東京都消防局の者です。先ほどお電話いただいたムロハシさんですよね?」

震える手でスマホを取ると、女性の声が聞こえてきた。すでに救急車が階下に来ているらしく、本人の生存・所在確認の電話のようだ。

僕はよろよろと立ち上がり、込み上げる吐き気をこらえて、血と酒にまみれたパジャマを着替えた。そのくらいの作業はできるのだ。こんなんで救急車を呼んでいいものかという迷いはあったのだが、発汗と震えが収まらず、喉からの血は一向に止まらない。

吐血までの経緯→【第1回】頼れる人がいない「孤独なアル中」はどうやって断酒すればいいのか

そうだスマホと最低限の仕事道具も持っていかねば、とカバンに資料や本やノートを詰め込んでいると、チャイムと同時に返事も待たず、ばたばたと救急隊員が踊り込んできた。

若い。申し訳ないくらい若い。隊長らしき女性と男性ふたりの3人組はいずれも20代だろう。青い救急服に身を包み、凛としたその姿がまぶしい。40代独身アル中という我が身が恥ずかしい。

だが彼らはそんなことは意にも介さず、酒のペットボトルが散乱し異臭漂う地獄部屋に入ってくると、僕の体温や血圧、心拍数や脈拍などのチェックを始める。ひとりはどこかと連絡を取り合い、どうも受け入れ病院を探しているようだ。実にてきぱきとしていた。

「あの、これだけの量を飲んだのですか?」

東京都推奨45リットルごみ袋に満載された酒の空き缶・空きペットを見て、隊長が呟く。

「……いったい、どのくらいの時間で?」

「3日くらいでしょうか」

問答ひとつひとつが情けない。

隊長は病院の場所について部下となにやら相談すると、トイレの扉に手をかけた。「やめて」と思ったが遅く、猟奇殺人の現場のごとく血にまみれた便器を目撃してしまったようで、無言でぱたりと扉を閉めた。

「受け入れる病院が見つかりました。行きましょう。歩けますか」

男性隊員2人に肩を貸してもらい、なんとかマンションの階下に降りると、そこには物々しいストレッチャーが用意されていた。

深夜なのでご近所の皆さんがいないことが幸いだったが、そこに寝かされ固定されて、ガーッと走り出す。狭い路地なので救急車が入ってこられないのである。このまま大通りまで出るのだろう。

僕は夜空を見上げ、ときどき血を吐きながら自らを呪った。

コロナ前は海外取材も多かったのだが、各地で地元の酒を飲み歩いていた

「マロリーワイス症候群」とは?

寄る辺のない人間にとって、消毒薬の匂いはどことなく安心感がある。「ここには頼ってもいい他者がいる」と、少しだけ心強くなる。病院が孤独な老人たちのたまり場となるのは、そんなところにも理由があるのかもしれない。そう思いながら、僕はがらがらとストレッチャーで緊急処置室に運ばれていった。

病院の名前は聞かされたが、どこにあるどんな病院なのかはわからない。隊長が口元に置いてくれたビニール袋に血を吐き出しながら、喉や胃の痛みに耐えるだけで精いっぱいなのだ。

僕の身柄はその隊長から、処置室の看護師に受け渡されると、あっという間に全身に管がつながれた。心電図、点滴、あとはよくわからない装置と接続される。なんという手際の良さなのか。

医師や看護師が何人か入れ代わり立ち代わり、僕を診察したリ問診したりしては慌ただしく去っていく。深夜の新宿某所の病院には、ほかにも搬送されてきた患者がたくさんいるのだ。その中にあって当たり前だが、アル中の優先度は低い。

僕は基本、点滴の交換だけで放っておかれたのだが、それでも看護師たちとの短い会話でいくつかわかったことがある。

「あなたの吐血は、胃と食道の結合部のあたりの粘膜が破れたものです。強いアルコールによって粘膜が裂けて、そこから出血しているようです」

これは後日になって調べたところ、「マロリーワイス症候群」というアル中定番の症状であることがわかった。激しい嘔吐によって粘膜が破れて出血することもあるらしい。その吐血によってけっこうな量の血液が失われており、脱水症状を起こしているため、まずは点滴によって体液をリカバリーするようだ。

「え、それだけ……?」

「裂け目は内視鏡を使った手術をすることもありますが、自然治癒を待つほうがいいでしょう」

つまり治療らしき治療は基本的に点滴だけなのだが、スピードをやや速めて注入しているせいか、少しずつ身体に力が戻ってくるのを感じる。吐き気は収まらず、頻繁なしゃっくりとともに血を吐き続けてはいたが、震えや発汗が止まっただけでも楽になる。

なんだ、治るじゃないか。ほっとすると同時に、お騒がせしてスミマセンと罪悪感も覚える。

場末の飲み屋街もたまらなく好きだが、いちばん安らぐのは部屋での一人飲みだった

「ねえあなた、もうお酒やめな」

もう朝方だろうか。看護師が声をかけてきた。

「いくらか落ち着いたようですね。保険証も確認しましたが、念のため奥さまかご家族の連絡先を教えていただけますか」

「あ、いえ独身なもので……」

「それではご実家か、ご友人か勤め先か、どこか連絡できるところを」

そう聞かれて、はっとした。僕にはこういうときに緊急連絡を頼める人間が誰ひとりいない。

最後に彼女がいたのはいつのことだろう。家族親戚とは疎遠で、仕事はフリーランスだ。まさか記者仲間や取引先の編集者に頼むわけにもいくまい。わずかな友人とも連絡を取ることはめったにない。

僕には「迷惑をかけられる相手」が存在しないのだ。

「まったくいないんですが、それではだめですか?」

「誰かいるでしょう。こちらとしてもそれでは」

症状が悪化したときのためか、緊急搬送されたときは患者の身近な人間に連絡をするのがいちおう決まりのようなのだ。

とはいえ、45年も生きてきて情けないことなのだが、この場に僕を迎えに来てくれるような人はいない。そういった信頼関係をついぞ誰とも築けず、ここまで生きてきてしまった。

そこに強いコンプレックスを感じていることも、アルコールに走った原因のひとつであることは自覚していた。

ネオンを見ると禁酒しているいまもわくわくする

看護師たちはなにやら相談を重ねた末に、申し訳なさそうに告げてきた。

「もう体調もいくらか良くなったようですし、ベッドを空けてもらえませんか。お帰りいただいて大丈夫です」

連絡できる人間もいない孤独なアル中なんぞ厄介払いしたいのか。そう思ったが、すぐ傍らをストレッチャーが慌ただしく走り抜けていく。

「〇〇さあん、大丈夫ですよ。わかりますか!」

「お名前を言ってください! 答えて!」

病気か、事故か。処置室が一気に緊迫した。医師や看護師たちが駆け寄る。焦燥した女性が、ストレッチャーにかじりついている。患者の奥さんだろうか。

「旦那さんすぐに良くなりますから。ね、大丈夫」

看護師がなだめ、待合室のほうに女性をつれていく。ここは戦場なのだ。そして病床は少ない。心配する家族を持たない僕のような人間を、のんびり治療している時間も場所もないのだ。

どれだけ鈍感なのか、やっと気づいた僕は、少量の吐血はあったが身支度を整えた。帰ってまた飲もうっかな。自暴自棄な気持ちが暗雲のように湧いてきた、そのときだった。

「これ」

血を吐くためのビニール袋を手渡してくれたのは、20代後半くらいの女性の看護師だった。彼女は点滴や心電図の装置を片付けながら、不意に言った。

「ねえあなた、もうお酒やめな。一人だけで、いろんなことあるだろうけどさ、いいことないよ」

涙がにじんだ。誰かに言ってもらいたかった言葉だった。

次回につづく

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室橋裕和 (むろはし・ひろかず)

1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発の日本語情報誌に在籍し、10年に渡りタイ及び周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のライター、編集者として活動。「アジアに生きる日本人」「日本に生きるアジア人」をテーマとしている。おもな著書は『ルポ新大久保』(辰巳出版)、『日本の異国』(晶文社)、『おとなの青春旅行』(講談社現代新書)『海外暮らし最強ナビ・アジア編』(辰巳出版)、『バンコクドリーム Gダイアリー編集部青春記』(イーストプレス)など。

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