独自スタイルでNYのダンス界を勝ち抜く インストラクター・Chioさん

BDCダンスインストラクターのChio(山田知央)さん(撮影・田中真太郎)
BDCダンスインストラクターのChio(山田知央)さん(撮影・田中真太郎)

世界中から優秀なダンサーが集まる、ダンスの本場ニューヨーク。その中でもダンスを仕事として続けられている人はほんの一握りです。ニューヨークでも最大規模のダンススクールの一つ、BDC(Broadway Dance Center)で、インストラクターを務めているChio(山田知央)さん(45)は、当地で活動する日本人ダンサーからリスペクトを受け続ける存在です。ニューヨークでダンスインストラクターとして生きる道を選んだ理由を聞きました。

教えることはショーと同じ

BDCでクラスを教えるChioさん(中央)(撮影・Jenna Maslechko)

――BDCではどんなクラスを教えているのですか?

Chio:週に6枠で、ジャズファンクのクラスを教えています。ジャズファンクというのは、ジャズダンスをベースに、その上にヒップホップやストリートのグルーブを取り入れたものです。BDCのインストラクターは2001年からやっています。

――ダンスの本場、ニューヨークでは「プレーヤー(演者)」にとっても競争が激しい世界ですが、インストラクターになるのも同様に過酷な競争がありますね。

Chio:最初にクラスを持たせてもらったときは、ニューヨークの中でも知られているダンスの学校でした。すごい先生がたくさんいる上に、差別ではないのですが、生徒から見たら、日本人がストリート系のダンスを教えるのは「えー、大丈夫?」みたいな感じも正直あったと思います。

インストラクターを始めたころに教えていたのは2クラスだけだったので、プレーヤーとしてもオーディションに行って、他のダンスの仕事もしていました。ショーの本場、ニューヨークでは「ダンサー=プレーヤー」という雰囲気はあります。生徒、教えるクラスが増えるうちに、自分はダンサーとして本当に教える仕事をやっていきたいのか、と考えることもありました。ですが、一人一人がお金と時間を使って私と一緒に過ごすことを選んでくれているのだから、彼らを満足させるパフォーマンスをしなくてはいけない。それは、ショーと同じことだと思うようになりました。ダンサーの仕事は、プレーヤーとインストラクターとの間に隔たりはない、と考えられるようになりました。

そもそも、インストラクターは人気商売というか、完全歩合制なので、生徒が来てくれなければ仕事が成り立ちません。それには、独自のスタイルを確立しなければいけないし、常に新しいことをやっていかないと飽きられてしまいます。私は体を動かすのが好きで、ダンスが好きで、気持ちいいと思う動きを見つけて振り付けをします。ほかの先生からは「一人一人をよく見ている」「我慢強い」と言われますが「ダンスが楽しい」という気持ちを、クラスにいる全員で一緒に共有するのが私にとってクラスを教えることだと思っています。その思いは「Chioのクラスを取ると、落ち込んでいた気持ちが晴れる」「生徒一人一人のエネルギーを引き出してくれる」と生徒さんから言ってもらえるので、伝わっていると思っています。

縁とタイミングに感謝

(撮影・田中真太郎)

――インストラクターになった経緯は?

Chio:縁とタイミングです。もともとはダンスと縁のない家庭で育ちました。高校の新入生歓迎会でバトン部のパフォーマンスを見て「これだ」と思って3年間活動しました。本格的にダンスを習い始めたのは高校卒業後です。大学に通いながら、ダンススタジオに週に1、2回通うようになって、さらに先生から誘われて、イベントのステージに出るようになったら、それが楽しくて、どんどんはまっていきました。インストラクター養成コースにも誘われて、大学3年のころにはクラスを教えるようになり、卒業後もダンスを仕事にできて、もっと勉強したいと思ってニューヨークに来ました。

1998年にニューヨークに来て、アルビン・エイリーのダンススクール(The Ailey School)に留学しました。最初は6カ月のプログラムで学んで帰国する予定でした。それが終わるころにNBAニュージャージー・ネッツ(当時)のダンサーのオーディションに受かって、せっかくのいい機会だからと、1シーズン活動しました。それが終わるころにアシスタント・インストラクターをやらせてもらうことになって、これもいい機会だと考えて、やってみることにしました。

一つの転機は、アシスタントをやっていたときのアクシデントです。先生が時間通りに来られなくて、さらにもう一人いたアシスタントの子も来られないとなって、先生から連絡がきて「間に合わないから始められるか」と言われました。かなり強引な状況で、英語もままならない状態でしたが、先生が到着するまでクラスをつなげることができました。そのときに、先生ができると思って任せてくれたことが教える自信になりました。

一度、師事していた先生を怒らせてしまったことがあって、アシスタントをやめたことがあります。そのときは悩んで、日本に帰ろうかと思いました。でも友達から「今帰ったらだめだ」と説得されました。「これまで頑張ってきて、みんなChioのことを知っているのだから、ここで頑張った方がいい」と。そのあとすぐに学校からインストラクターの話をもらいました。

もちろん自分でも頑張ってきましたが、ありがたいことに、いい先生、人との出会いもあり、いいときにチャンスをいただけたんだと思っています。

あと10年は頑張れるかな

(撮影・田中真太郎)

――インストラクターとして続ける難しさはどんなところですか?

Chio:毎週、毎週、新しい振り付けを作って飽きさせない工夫をするのですが、いち早く新しい曲を聞いて、振り付けを考えます。そうすることで生徒にも周りも「新しいことをやっているな」という印象を与えられます。どうしてもアイデアが浮かばないときもありますが、何とかした先に生徒の笑顔と、楽しかったという言葉があるのが分かっていますから、もうやり続けるしかない。

「こんなスタイル初めて」「ほかのところでやっていない」と、それを求めて来てくれる生徒がいて、ほかの先生から「Chioのスタイルは〜」と言われるようになって、初めて自分のスタイルができたのかと思えるようになりました。

――ダンサーは体が資本で、年齢とともに考え、方向性は変わってくると思いますが、今後についてはどういう考えを持っていますか?

Chio:日本でお世話になった先生が、スタジオを経営されていて「そろそろ日本に帰ってきてこちらで教えないか」と声を掛けてくださったりします。今も日本でワークショップを開催すると、生徒さんが来てくれますが、それは私がニューヨークで現役で教えているからだと思っているんです。

初めてニューヨークに来たときに教えていらした先生が、まだ現役で教えていらっしゃるんです。ダンサーは若くても痛みは常に抱えているし、メンテナンスは当然欠かせないものです。でもどれだけメンテしても故障しやすい人がいる一方で、私は丈夫な体に生んでくれた親に感謝しています。大きなけががなく、今も続けられているので、あと10年は頑張れるかなとは思っているんです。

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