大学を中退したのは「回転鮨」が原因だった 「出張鮨職人」のイレギュラー人生

高級鮨店に勤務しつつ、休日に「鮨会」を開いていた2013年ごろの早川太輔さん

出張鮨専門の鮨職人として活動している早川太輔さん(38)。これまでの出張鮨の常識を覆し、安くてうまいとあって、2015年の独立以来、常に予約はいっぱいだ。しかしこの道一筋というわけではなく、情報通信系の企業でサラリーマンとして働いていた時期もある。

そもそも鮨の世界に入ったのは、通っていた大学の前にたまたま回転鮨店があったからだという。早川さんの経歴については前回の記事でも簡単に触れたが、鮨職人としてはかなり異例の道をたどっている。

なぜ、そのルートから「出張鮨職人」という生き方にたどり着いたのか。他人からみると回り道に見えるが、そこには早川さんなりの「筋」がしっかり通っていた。

大学を中退して「鮨の世界」へ

──まず、鮨職人の原点からお聞きしたいのですが、最初から鮨職人になりたかったのですか?

いえいえ、全く思っていませんでした。ただ、僕の実家が定食屋を営んでいたので、小学生のころから店の手伝いをしていました。飲食業は身近な存在だったことは確かですね。高校卒業後は、経営情報系の大学に進学。「これからはパソコンのスキルを身に着けておいたほうがいいかな」というぼんやりとした動機でした。

ただ、大学入学と同時に始めたアルバイトが、その後の僕の人生を決定づけることになりました。大学の目の前に全国チェーン展開している大手回転鮨屋があって、「大学に近いから便利」という理由だけで、その店でアルバイトを始めました。

最初はご多分に漏れず皿洗いから始めたんですが、すぐ軍艦巻きの担当になりました。おもしろいと思っていろいろ練習していたら、半年後には少しずつ握りも任されるようになりました。

そうなるとますます仕事がおもしろくなって、大学2年の夏休みに大学を中退、そのままその店に社員として就職したんです。なので、バイトとして入った回転鮨屋が僕の鮨職人としての原点ですね。

──せっかく入った大学を1年と少しで中退してまで、その回転鮨屋に就職したのはなぜですか?

やっていくうちに単なるバイトじゃなくて鮨職人の1人みたいになったので、そうするのが自然の流れだったんです。自分でも「僕の生きる道はこれだな」と思いましたし。

──鮨職人のどのような点に、それだけの魅力を感じたのですか?

一番はお客さんの目の前で鮨を握って、出して、おいしいという反応がすぐに得られるという点ですね。この自分の仕事に対する反応の「ダイレクト感」が最大の魅力であり、やりがいでした。これは20年経った今も変わっていません。

もちろん鮨を握るという仕事自体もすごくおもしろかったです。鮨はほんの少しの手の動きで味自体が大きく変わるという職人的な点も魅力でした。鮨職人という職業に向いていたってことなんでしょうね。

そのまま懸命に仕事をこなしていたら、4、5年後に副店長になりました。でも、その後すぐ辞めたんです。

──順調に出世していたのになぜですか?

当時24歳だったのですが、店長が退職したとき、「次の店長は当然、副店長である自分だろうな」と思いました。でも会社の規則で店長は25歳以上と決められていたので、店長になれなかったんです。

一番うまく握れて、店のことも一番よく知っている自分じゃなくて、よその店から来た知らない人が店長になるのが我慢ならなかった。大企業あるあるなんですが、それで辞めて、通信系の会社に転職したんです。

通信系の会社で特殊無線技士に

──え、鮨職人の道で生きていこうと決めていたなら、別の鮨屋に入って修行するとかしません? なぜ、飲食業でもない通信系の会社に入ったんですか?

確かに鮨職人として生きていこうという気持ちは揺らいでいなかったんですが、他の仕事も少し経験してみたいという気持ちもあったんです。そもそも大学では、中退するまで経営情報学を学んでいたので、情報・技術系の仕事もおもしろそうだなと。

それで鮨職人と同じ5年くらい、全然違う業界で会社員をやろうと思い、通信情報系の求人を探してKDDI系の会社に入社したんです。

──具体的にはどんな仕事をしていたんですか?

入社したのは、日本全国の携帯電話のアンテナを一括管理している会社です。そのアンテナや通信状況の監視、トラブル発生時の対応・復旧が主な仕事でした。そのため、入社してすぐに「第一種陸上特殊無線技師」という国家資格を取得しました。

──鮨とは全く関係ない仕事ですが、おもしろかったですか?

おもしろかったですよ。特に3年くらい経って、どのアンテナをいつ直すかを自分で管理したり、実際に現場に行って電波を測定したりと、本格的に無線技師の仕事ができるようになってからは、どんどんおもしろさややりがいを感じるようになりました。

──では、その会社に転職してからは一切、鮨とは無縁の生活に?

いえいえ、基本的には鮨の世界に戻ろうと思っていたので、この間も修行は継続していました。休日には鮨居酒屋や回転鮨屋でアルバイトしたり、自分で「鮨会」を開催したり、飲食店とコラボしたりして、友人知人に鮨を振る舞っていたんです。

このとき、仕入れも独学で覚えました。毎回川崎市場に行って、魚屋さんにいろんなことを随分教えてもらいました。魚は見た目よりも「産地と時期」で決まるんです。だから目利きは、魚の状態そのもので見極めるというよりは、産地と時期を覚えるのが重要なんです。

ただ、産地と季節も微妙に変化するので、実際に市場に行くほうが、魚の見た目や魚屋の話から微妙なところまで感じ取れていいんです。

──会社員として働きつつ、このころから出張鮨会をやっていたんですね。

そうなんです。無線技師の仕事もおもしろくてやりがいも感じていて、このまま続けてもいいかなと思ったこともありました。しかし、やっぱり自分が本当にやりたいのは鮨職人のほうだなと。当初の予定通り5年で辞めて、2013年に「細小魚(いさな)」という西麻布の高級鮨店に入ったんです。

個人宅での鮨会にて。そのおいしさと量と安さに誰もが驚く。予約が取りにくいほど人気なのもうなずける

技術を補完するために高級鮨店へ

──なぜ、今度は高級鮨店に?

それまで、プロの鮨職人としては、回転鮨しか経験がありませんでした。回転鮨は、職人が握るといってもシャリはマシンが作ったものが多いし、ネタも半分くらいは冷凍ネタなんですよ。だから、高級店でこれまで経験できなかったことを経験して、ちゃんとした技術を身につけたいと思ったんです。

──入ってみてどうでしたか?

オープニングスタッフとして入ったのですが、最初のころはあまりお客さんが来ず、正直言って暇でした。でもその分、時間がたくさんあって、なおかつ、オーナー店主が腕のいい鮨職人だったので、握り以外の、魚の仕入れや仕込みなどを全部教えてもらいました。握りは店主1人で十分回せたので、僕が握る必要はなかったんです。

──では握りは、どうやって修行したのですか?

店主が握るのをひたすらガン見して覚えました。それと、前職のKDDI系の会社を辞める1年くらい前に「やっぱり辞めると思います」と社長に言ったら、それから辞めるまで毎月いろんな鮨屋に連れていってくれました。そのカウンターで、鮨職人が握る様子をガン見したのも大きいですね。

──すごくいい社長さんですね。それにしても、目で見るだけで握りの技術を習得できるものなんですか?

僕は握りに限らず、基本的に目で見て覚えるんです。そもそも鮨職人ってそんなに手取り足取り教えてくれず、仕込みも最初に「こうするんだよ」って、ぱぱっと見せられて終わりなので、あとは見て覚えました。腕を上げるには「見ること」が一番大事だと思います。回転鮨でバイトしていたときも、ひたすら先輩の職人が握るのをじっと見てました。

──昔の職人の世界の「技術は見て盗め」を地で行く修行法ですね。実際に握りの練習はしなかったんですか?

回転鮨店にバイトで入った最初のころだけ、シャリをラップに包んで持って帰って、職人が握っているシーンを思い出しながら家でこねこねしてました。あとは、月に1度の鮨会を「細小魚」に就職してからもずっと続けていたので、そこで握っていました。

──他に身につけたことは?

経理などの事務作業も全部やっていたので、経営に必要な事務作業を覚えられました。これは今でも、とても役に立っています。

そして細小魚に入って2年くらい経った2015年、必要な技術や知識は一通り習得できたと思ったので、フリーの出張鮨職人として独立したわけです。屋号は「鮨を握る早川」で「鮨川」としました。

野望のために「鮨ベース」を構える

──独立してからは、会社員時代にやっていた「鮨会」のリピーターと口コミでどんどん予約が入って忙しくなり、収入も格段にアップしたというのは前回語っていただいた通りですね。その後の動きは?

独立して4年後の昨年(2019年)5月、杉並区に物件を借り、「鮨ベース」と名付けて「鮨川」の拠点としました。ここではキッチンや大型冷蔵庫を設置して、鮨会のための仕込みをしたり、つまみも作ってます。あとは、鮨の握り方教室や魚捌き教室をやったり、事務作業も行っています。

この「鮨ベース」を作るとき、独立するときよりも強い覚悟や決意がありました。

──具体的にはどのような決意ですか?

「気軽に行ける鮨屋を増やす」という“野望”です。ひと昔前は、5000円~1万円でおいしいお鮨が食べられる、いわゆる「町の鮨店」が必ず駅前に2、3軒あったのですが、今、激減しているんです。この状態を放っておけば回転鮨と高級鮨店しかない世の中になってしまう。そんな未来はつまらないですよね。少なくとも僕は嫌です。

それを変えるため、きっちり仕事ができる鮨職人を育て、増やそうと決意しました。これは今でも究極の目標です。そのための基地として、まず「鮨ベース」を作ったんです。

このタイミングで、それまでも時々手伝ってくれていた池田が鮨川専属の鮨職人となりました。3ヶ月後の8月には、20代の元ホストの加藤を新しく弟子に迎え入れ、3人体制に。12月には「鮨川」を法人化しました。

2019年に開設した「鮨ベース」の前で

──弟子を育成する上でのポリシーは?

鮨を提供するための知識や技術だけじゃなくて、鮨業や漁業、水産業界が抱えている問題なども教えています。そういう意識をもつ職人が増えることも、業界全体の発展のためには重要だと思うんです。例えば、僕はよく売れない魚を買って付加価値をつけて提供しているんですが、そういうことも教えています。

そもそも、鮨職人の育成には「出張鮨」という形態が最適なんです。一般的な鮨屋の場合、1年目の見習いは魚なんてほとんど触らせてもらえません。せいぜい鱗を引いてる程度でしょう。でもうちの場合、1年目から、仕込みから握りまで全部教えて、ある程度まで覚えたら全部1人でやらせるので、とにかく成長が早いんです。実際、加藤も1年目から1人で出張に行って、指名も入り始めています。

今後、そういう弟子をどんどん増やしていく予定です。そして鮨職人として成長したら、独立して料金が5000円~1万円くらいの「町の鮨屋」を出してもらいたい。そんな弟子には独立資金も援助したい、と思っています。

──育成に関して、手応えは感じていますか?

はい。彼らは日々、目に見えて上達しています。お客さんからも、「最近、池田や加藤がよくなった」ってよく言われるんですよ。鮨職人を育てることを目標にしているのでうれしいですよね。この、弟子の成長を実感できることが大きなやりがいになっています。

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山下久猛 (やました・ひさたけ)

1969年愛媛県生まれ。アラフィフ独身のフリーランスライター・編集者にしてDANROの愛読者でもある。某呑み会で編集長に直訴してDANROライターに。人物インタビューを得意としており、雑誌・Webの他、仕事紹介系書籍の執筆や、経営者本の構成も数多く手がけている。趣味は居酒屋巡りと写真撮影とスクーバダイビング。

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