「チャレンジしない」が人生の哲学 主夫兼出張シェフのストレスフリーな生き方

出張料理人の服部貴さん
出張料理人の服部貴さん

新卒で日本屈指の電機メーカーに入社した服部貴さん(51)は、47歳の時に退職。現在は主夫兼フリーランスの出張料理人として活動しています。働くのは月に4、5回程度。それ以外の日は料理やお酒の研究のため全国各地を周遊しています。そんな誰もがうらやむような生活を手に入れた経緯と今後の展望を語っていただきました。

難病になったのを機に新しい世界へ

――なぜ安定的な大企業を辞めてまでフリーの料理人になったのですか?

服部:直接的なきっかけは、33、4歳の時、国指定の難病に罹患したことです。1カ月の入院中に、この仕事を一生やるのはつらいな、自分が自分でいられることをやりたいと思うようになりました。その時、脳裏に浮かんだのが、子どもの頃好きだった農業や食です。

退院後は薬の効果もあり症状は改善し、上司も仕事の量を減らしてくれたので職場復帰することができました。とはいえ、やはり難病なので完治できる治療法があるわけではなく、体調の波もあるので、毎日がつらかったです。それでも歯を食いしばって働いていたのですが、当時付き合っていた彼女でその後結婚して妻となる女性から「今日もボロボロだね。そんなつらい仕事なら無理せず、一度リセットして本当にやりたいことをやればいいんじゃないかな?」って時折言われるうちに、だんだん「確かにそうかもな」と思い始めました。

それでもなかなか踏ん切りがつかなかったのですが、45歳になった時、妻から「ちょうどいいタイミングだし、もし新しい世界に踏み出すなら応援するよ」と言われたことも背中を押してくれ、当時の会社が設けていたセカンドキャリア制度に応募しました。45歳以上の社員は「最長2年間勤務しなくても給料やボーナスが貰える」、もしくは「割増した退職金をもらって辞める」のどちらかを選べる制度です。それで、2年間休職して料理の専門学校に通うことにしたんです。

うどんを打つ服部さん

――料理の道を選んだのはなぜですか?

服部:実は入社以来、ずっとうどん作りが趣味だったんです。好きな料理で身を立てられればなと思いましたが、うどんしか作れないので、食や料理についてちゃんと学びたいと思いました。さらに、食関係の人脈を増やしたいと思ったので、46歳の時に服部栄養専門学校に入学したというわけです。

――卒業後は?

服部:セカンドキャリア制度の期限である2年間が過ぎた47歳の時、正式に会社を辞めました。その後は大手うどんチェーン店やてんぷら屋で修行したり、香川県に3カ月移住して「さぬきうどん科」といううどんの学校に通ったりしました。また現地のうどん店で修行して感覚を磨き、食関係の繋がりも増えました。

その後、スパイスにもハマってカレーや四川料理の研究に没頭しました。また、48歳頃、スペインに住んでいたことがある妻に、半ば無理矢理スペインに3週間ほど連れて行かれました。これをきっかけにスペイン料理やイベリア料理にもハマりました。元来ハマるとトコトンのめり込む性格で、以降、毎年必ずイベリア半島に行って1カ月ほどレンタカーで全国を回っています。

ポルトガルのレストランにて

ちょうどスペインにハマり始めた頃に、出張シェフを始めました。きっかけは、リクエストが増えてきたからです。それと、出張シェフなら、自分で店を構えるのと違って、毎日じゃなくて仕事を受けた日しか料理を作らなくていいし、自分が好きな人の依頼だけ受ければいいし、固定費はかからないのでいいかなと。

――出張シェフではどんな料理を出しているんですか?

服部:お客さんのリクエストに応じて和洋中、何でも作ります。自信があるのは、しいて言えば和食、中華、イタリアンあたりですかね。これまでの経験で自分が好きになった料理を自分なりの構成でコースにしたり飲み物に合わせたりして作ります。

――出張シェフの料金は?

服部:食材の原価プラスアルファで、赤字にならなきゃいいって感じです。たまになることもありますが。今の自分の料理人としてのレベルでは、そこまでたくさんお金をいただけないし、経験出来ること自体に価値があるので。

――どのくらいの頻度でやってるんですか?

服部:月によって波はありますが平均すると月に4~5回くらいですね。ほかにやりたいことがたくさんあるし、現在は自分のペースでできる範囲内でやりたいので、基本的に自分からやりましょうと持ちかけないし、宣伝・告知・募集もしていません。無理して多く予約を入れないようにしているんです。インプットなくしてアウトプットなしだと思っていますから、とにかく感性の赴くままに行動し吸収しています。

「何をしたってそうそう死ぬことはない」

――出張シェフは月に数回、料金も原価プラスアルファくらいでは、食べていけないですよね。

服部:もちろんです。現在のようにお金のことを考えず、好きなことを追求できているのは、妻のおかげでもありますね。常に神の如く(笑) 感謝しています。ある程度自分自身の蓄えもあるので、ファイナンシャルプランナーの資格も活用しつつポートフォリオをやりくりしてもいます。

――奥さんはもっと稼げとか言わないんですか?

服部:今のところ言いませんね(笑)余計な心配はせず、体と相談しながらマイペースでやればいいよという感じです。自分の体調が悪かった頃を知っているからかな。でもその代わりと言ってはなんですが、私が食事など家事全般を担当しています。料理は大好きなのでお互いストレスはありません。

服部さん作の料理

――そのおかげで奥さんは好きな仕事に打ち込めるんだから理想的なwin-winの関係ですね。

服部:そうなんでしょうね。逆に妻は「無理してチャレンジはしないで」と言うんです。以前、お金を借りて飲食店を開業しようかなと思っていた時期があったのですが、妻に強く止められました。「お金なんて借りたら絶対ダメ。飲食店で成功するって宝くじを当てるよりも難しいよ。失敗した時の痛手が大きすぎる。あなたはそこから返ってこられるエネルギーなんてあるの?」と言われて、確かに私は難病持ちで体調がいつ悪くなるかわからないから「その通りだな」と。

だから「チャレンジしない」が私の人生哲学。これまで積み上げてきたもので、楽しくやりたい。新しい世界を自分で創るんだ、なんて大それた考えじゃなく。でも楽しいことはどんどん突き詰めていくというのが基本的なスタンスです。時には共感できる仲間と繋がっていくこともあるでしょうね。とはいえ、お金も大事なので、もう少しお金になる仕事を増やしていかねばとは思っています。

――そのために実践していることはありますか?

服部:まず、料理以外に自信を持てる分野をもちたい。その一環として、ビールに関する造詣をもっと深めようと思い、昨年からクラフトビールの教室に通ったり、イベントに参加したり、全国、海外のブルワリーを行脚したり、毎日国内外のクラフトビールを飲んだりしています。その際、いろんな項目があるテイスティングシートに細かく書き込んでデータを収集、分析しています。昨年は2200杯のビールを飲み、勉強してビアジャッジ(ビールの審査員)の資格を取りました。また、大好きな料理やビールとのペアリングの素晴らしさを発信したいと考え、日本ビアジャーナリスト協会の門を叩きました。交換した名刺も1000枚を超えています。

――今後の目標は?

服部:究極の夢はイベリア半島にお店を開いて、長閑なイベリア半島の田舎で自分の好きな出汁料理を現地の方に味わってもらうことです。そのためあちこち周遊する際に、何となくお店の場所も探しています。

いずれにしてもまだまだ道半ばもいいところ。私のセカンドキャリアとしては入り口からちょっと入ったかなというくらい。今後も何をしたってそうそう死ぬことはないと思うし、とにかく楽しくなければこの道を選んだ意味がないと思っているので、楽しいと思ったら何でもやってみようと思っています。

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山下久猛 (やました・ひさたけ)

1969年愛媛県生まれ。アラフィフ独身のフリーランスライター・編集者にしてDANROの愛読者でもある。某呑み会で編集長に直訴してDANROライターに。人物インタビューを得意としており、雑誌・Webの他、仕事紹介系書籍の執筆や、経営者本の構成も数多く手がけている。趣味は居酒屋巡りと写真撮影とスクーバダイビング。

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