元・エアロビ王者がNYの有名オペラで10季踊り続ける理由 菊池健太郎さん

メトロポリタンオペラの所属ダンサー、菊池健太郎さん(撮影・田中真太郎)
メトロポリタンオペラの所属ダンサー、菊池健太郎さん(撮影・田中真太郎)

北米で最大規模の音楽団体の一つ、メトロポリタンオペラ(MET)。その所属ダンサーを10季連続で務めている菊池健太郎さん(34)。日本では競技エアロビック(Aerobic gymnastics)の選手として全日本大会で優勝、世界大会でも好成績を残し、次世代をリードする存在として将来を嘱望されていました。しかし大学在学中に引退を決め、ニューヨークでダンサーになる道を選びました。ダンサー、かつ「プレーヤー(演者)」として生き残るための日々について聞きました。

演目ごとに違う役割

「Les Contes d’Hoffmann」での菊池さん(撮影・Marty Sohl)

――2010年以来、METで所属ダンサーを10季連続で務めるのはすごいことですね。

菊池:毎年演目ごとにオーディションを受け、合格したら契約します。毎年10以上の演目が公演され、一度契約した演目は翌年、数年後に再演される場合は出演依頼が来ますが、再演されるかどうかは分かりません。今季(9月から翌年5月がシーズン)は、「トゥーランドット(Turandot)」「Madama Butterfly(蝶々夫人)」「The Magic Flute(魔笛)」に出演、3月からは新作の「Der Fliegende Holländer(さまよえるオランダ人)」に出ます。

ディレクター(舞台監督)、コリオグラファー(振付師)は各演目で変わり、彼らがダンサーをどう使いたいかで役割は変わります。「トゥーランドット」では、演技するシーンが多かったり、「蝶々夫人」ならば、ダンスだけでなくパペットを動かしたり、装置を動かしたりして、舞台の配置を変える役割を担ったりします。

――最初にオーディションに受かったときはどんな状況だったのですか?

菊池:渡米して1年のころです。「Nixon in China(中国のニクソン)」のオーディションを友人の勧めで受けました。アジア系のキャストを探していて、ジムナスティック(体操)、タンブリング(跳躍、回転など)のスキルがあればプラスだというので、僕には有利でした。METの存在も知らずに受けたのですが、会場には300人ぐらい来ていて、身長が高くて、いかにもバレエ、ダンスができそうな人ばっかりで「これはダメだな」と思いました。

それで開き直れたのがよかったのか、2日間のオーディションで1、2、3、4次、5次と進み、最終の8人ぐらいに残りました。同時にオーディションが行われていた、同じ振付師の「L’ Orfeo(オルフェオ)」という作品にも合格しました。正直、当時はダンスはヘタだったと思います。ですが体操あがりで、普通のダンサーにはないものがあって、振付師の何かにはまったんでしょうね。そういうスキルを持っている人は世界にはいくらでもいますが、ニューヨークの、このオーディションで、この振付師が、そのときの僕を気に入ってくれた。運が良かったと思っています。

当時は学生だったのですが、「ビザはあるよね」と聞かれて「アーティストビザが取れると思うので待ってください」と言い、すぐに弁護士を探して手続きを始めました。簡単に取れるものではないですが、いろいろな方にご協力をいただき、リハーサルが始まるまでの数カ月間でアーティストビザを取得しました。このときは、過去にやってきた競技エアロビック(Aerobic gymnastics)での経歴が生きました。

悔しくて泣きながら練習

(撮影・田中真太郎)

――ニューヨークに来た経緯を教えてください。

菊池:両親が競技エアロビックのスタジオを経営していて、中学3年から始め、全日本大会で3回優勝し、最後の世界大会は4位でした。ですが、マイナーな競技で、僕が現役のうちはオリンピック種目にはならないと言われていましたし、狭い業界で生きていきたくない気持ちもありました。卒業してから職業を選ぶ人が多いのかもしれませんが、僕はやってきたことの延長でしか将来を考えられなかった。

すごく心配になって、大学1年生の時に就職課に相談に行き、OB訪問しました。「早すぎる」と言われながらも、いろいろ見聞きして、デスクワークをする自分の姿を思い描けなかったし、体育教師の道も考えて教育実習に行きましたが、未熟な自分が子供を教えることにも違和感を持ちました。そうやって考えていく中で、競技エアロビックの練習の一環としてやってきたダンスという選択肢が残りました。それが確かなのか確認したくて、大学3年のとき、1週間ニューヨークを訪れて、舞台を見て、やっぱりこれだと思って進むべき道を決めました。

競技を引退し、1年間日本でダンスを学び、バイトをして1年分の生活費と学費をため、大学卒業後、渡米しました。授業料が安い語学学校に通い、受けたい先生のダンスレッスンを週に2、3本受ける生活で、経済的に厳しくて、生まれて初めて窓なしの部屋に住みました。受けられないクラスは窓越しに見た後に、すごく安く使えるレクリエーション施設のスタジオに行って、見てきたものをおさらいしていました。生活の苦労がなくて、クラスを自由に受けているように見える人に対して「お前らは遊んでいればいい。俺は抜いてく」なんてことを考えて、考えたら悔しくて、泣きながら練習していました。

できないことができるようになるのが快感

(撮影・田中真太郎)

――ひたすらがむしゃらですね。

菊池:いろんなものがモチベーションになっていましたが、大きかったのは母親と師匠には「3年で結果が出なかったら帰る」と宣言してきたことです。何の成果を出さずに帰ったら、業界にも面目が立たないというプレッシャーと覚悟もありました。日本に帰って「何やっていたの?」と詰め寄られる夢を毎日みました。あとは昔から今でも変わらないのですが、純粋にうまくなりたいという思いが強いですね。

小学生のときにサッカーをやっていて、言われた練習だけやっていました。それが個人種目になると、日々の練習を適当にしていたら、それが結果に出ますし、頑張れば、それも結果に出るのが分かったことで人生観が変わりました。さらに、競技エアロビックで勝てなくて泣いていたら「その程度の練習で勝てると思っているお前が失礼だ」と師匠に笑われ、母にも「あなたより頑張っている人に勝てるわけない」と言われて、なるほどと衝撃を受けました。それで毎日練習を積み重ねていく習慣ができましたし、それによってできないことができるようになる快感を味わい、それが今にもつながっています。

やれるのは毎日の練習だけ

コンテンポラリーダンスを踊る菊池さん(撮影・Nobuyuki Narita)

――ニューヨークにいらしてからの転機は?

菊池:大きなブロードウェーの舞台でオープニングキャストに選ばれたのですが、グリーンカード(永住権)がないという理由で出演できませんでした。認められた自分が出られずに、別の人が出るのが悔しくて、そのときは相当こたえました。でもオーディションでも、スポーツでも、勝者がいれば敗者もいる。その中で自分ができることは、毎日練習することだけ。その先にチャンスがあっても、つかめるかどうかは分からない。確実なのは、練習を怠ればつかめないということ。悔しさもバネにしてきましたが、そのあたりから、人と比べるのではなく、常に向き合うのは「自分」だと、真摯(しんし)に考えられるようになりました。

――これからの活動は?

菊池:ダンスはまだ発展途上だと思っているので、「プレーヤー」としてやることしか考えていません。その考えをやめたときが終わりだと思っています。それはいずれくると思いますが、今はまだそのときではないです。METも新しい演目がきます。シルク・ド・ソレイユの登録ダンサーでもありますが、リプレースではなく、自分のオリジナルのコンテンポラリーダンスのスキルを使った役で出たいという希望も持っています。また日本の殺陣と出会って、剣舞を取り入れたオリジナルのコンテンポラリーダンスを、日本への興味につながるものとしてやるのも楽しい。

(撮影・田中真太郎)

ニューヨークで活動していると、日本の友達に「すごいね」と言われますが、そのたびに「全然すごくないよ」って言っています。ただ、そうやって言ってくれるなら、すごいと思ってもらえるようにあがき続けて、勇気を与えられる存在でいたいなと思っています。

この記事をシェアする

「ひとり仕事」の記事

DANROクラブ

DANROのオーサーやファン、サポーターが集まる
オンラインのコミュニティです。

もっと見る