沖縄だからこそ実現した「噂の真相」岡留安則さんとの交流(沖縄・東京二拠点日記 21)
今年の1月末、沖縄に移住して第二の人生を送っていたメディア人が亡くなった。伝説のスキャンダル雑誌『噂の真相』の発行人であり、編集長だった岡留安則さんだ。沖縄と東京の二拠点生活を送るぼくも、沖縄にあった岡留さんの店で交流させてもらった。2月は、そんな岡留さんのエピソードを思い返していた。
岡留さんが経営していた店の「三姉妹」
【2月15日】日がな一日、読書をする。1月に直木賞を受賞した真藤順丈さんの『宝島』。数日後にお目にかかることになっているので、大部の本書を再読する。沖縄の戦後に跋扈した「戦果アギャー」(米軍の施設から物資を盗み出す泥棒)の物語だが、沖縄の戦後史に欠かせない有名な政治家やヤクザの実名が出てきて、リアルな歴史物語を読んでいる感覚になる。
真藤さんには拙著『沖縄アンダーグラウンド』を渡してあって、編集者を通じて「そのうちに会いましょう」という約束をしていた。会って話すのが楽しみだ。
腹が減るとパスタを茹でて、レトルトの具をあえて食べる。たまにバルコニーに出て深呼吸する。
伝説の雑誌『噂の真相』の発行人だった岡留安則さんが亡くなった。1月の末日にあの世へいってしまった。亡くなった直後、『噂の真相』時代の部下だった方から電話があり、訃報を知らされた。岡留さんは沖縄に移住してまもなく、那覇市の桜坂にある「瓦屋」(カーラヤー)という飲み屋をレンタルして、1年間だけ営業していた時期がある。
ちょっと前に栄町の「ルフージュ」で、その瓦屋で働いていた女性スタッフの初期メンバー3人(三姉妹と呼ばれていた)が飲んでいるのに遭遇した。
瓦屋に貼ってあったポスターには、三姉妹と岡留さんの似顔絵が描かれていたのだが、かつての岡留さんらしくないほのぼのした雰囲気に驚いたものだった。ルフージュで彼女たちと「岡留さんは退院できるかな」と話し合ったばかりだった。
瓦屋が経営されていたのは、民主党政権の時期だ。岡留さんの人脈に連なる人々や経済人、政治家で賑わったが、スタッフは誰も岡留さんの過去を知らなかった。知っていたのは、瓦屋の1年限定営業のあとに、岡留さんが前島に出した「瓦屋別館」で最後までスタッフをつとめていた福島弘子さんだけだった。
スタッフはよく入れ替わったが、みんな岡留さんのことを「オカさん」と呼んでいた。岡留さんはそういう間柄も楽しそうだった。ぼくは那覇に滞在しているとき、瓦屋や瓦屋別館にしょっちゅう足を運んでいた。
近寄りがたかった岡留さんとの再会
岡留さんが発行人兼編集長を務めた『噂の真相』は、高校時代から読んでいた。だが、ぼくがメディア業界の末席で働くようになっても、『噂の真相』が発行されていたころは、まったくといっていいほど岡留さんと交流がなかった。
一度か二度、どこかでお目にかかったことがあるが、永江朗さんが同誌に連載していた「メディア異人列伝」に取り上げてもらった程度。そんな間接的なつながりがあっただけだった。
同誌名物の「一行情報」には何度か出たことがある。一度、「新進のライター藤井誠二が社会学者・宮台真司の女装写真でオナニー三昧との噂」と書かれたことがあり、大笑いしてしまった。
ネタ元はわかっている。『噂の真相』編集部に出入りしていた宮台さんの子分みたいな男が、ある飲み会に来ていた。男ばかりの飲み会でシモネタで盛り上がっていて、ぼくが「宮台さんの女装ならヌケますねー」と冗談を飛ばした話がそのまま、同誌の「一行」になったという次第。
話がだいぶズレまくってしまった。岡留さんが那覇に移住した翌年、ぼくも那覇市内に築30年の古びたマンションを手に入れて、仕事場にした。岡留さんの住むタワーマンションから歩いて10分ぐらいのところだ。
瓦屋は、沖縄のマスコミ関係者や政界関係者、東京から「岡留詣で」にやってくるマスコミ人等でけっこう流行っていたが、ぼくはなんとなく岡留さんに近寄りがたくて、行っていなかった。
ところが、実話雑誌『ナックルズ』の元発行人の久田将義さんと電話で話しているとき、「藤井さん、今から行っちゃってくださいよー」と背中を押されて、瓦屋に行ってみることにしたのだ。久田さんは岡留さんの「直系」の弟子筋だ。
意を決して店に行き、カウンターでひとり飲んでいると、岡留さんがあらわれて「おう、フジイくんじゃないかー」と声をかけてくれた。よかった、覚えていてもらえた、と内心ほっとしたのだが、そうやって岡留さんと再会したわけである。
以来、彼の店に入り浸るようになり、岡留さんにあちこち飲みにつれていってもらうようになった。東京では交流のなかったメディア業界のカリスマである大先輩としょっちゅう飲めるような関係になったことは、後輩として僥倖というほかない。
そういえば、沖縄と東京を往復する二拠点生活を始めてから、東京ではあまり会わない友人や知人と那覇で会う機会がめっきり増えた。
東京では友人・知人と飲み歩くことがほとんどなく、彼らと疎遠になってしまっていることが多いのだが、そういう人たちがたまに沖縄に仕事やプライベートでやってくる。そのときに連絡をくれるので、ぼくが那覇に滞在していれば合流する。これは那覇だから起きる現象なのかもしれないが、思いがけなく旧交をあたためることが多い。