岡留安則さんが生前語った移住暮らし(沖縄・東京二拠点日記 22)

筆者(左)と岡留さん
筆者(左)と岡留さん

ぼくは2016年1月、ふと思い立って『噂の真相』元編集長の岡留安則さんにインタビューを申し込んだことがある。「なんだよ、あらたまって」と笑っていたが、快く応じていただいた。以下に掲載したいと思う。

「休ませてもらいます、とはいかなかった」

藤井:岡留さんが2004年に沖縄に移住をされて、しばらくしてから那覇の桜坂で「瓦家」をオーナーから1年間限定でまかされていたときにおじゃまをしたのが、こちらでお目にかかった最初です。

いまは前島に「瓦家別館」というバーを出されていて、毎夜、ここにいらっしゃるわけですが、移住11年目の意見を聞いてほしいという声が、『噂の真相』を読んできた同世代の友人知人から聞こえてくるものですから。『噂の真相』を若いときから読んできた「岡留チルドレン」としてはぼくも聞いてみたいなと。

ぼくが沖縄に仕事場をかまえて「半移住」生活をはじめたのは岡留さんが移住された翌年のことで、東京ではほとんど会う機会がなかった大先輩と那覇で頻繁に酒を飲むようになれたのは、沖縄がくれた一つの出会いですし、僥倖です。

岡留:移住11年目になる。率直に言って沖縄は居心地がいい。移住して後悔の気持ちはゼロだね。来て良かったと思ってるよ。移住して、沖縄で生きていくというふうに覚悟して来たわけだから、『噂の真相』休刊時点より前から沖縄に行こうと決めていたからね。

休刊したときにマンションをすでに買っていました。もう新宿で毎晩飲んでる場合じゃない、と(笑)。東京とは思い切って物理的な間隔を空けて、生きてみようと思った。この11年のうちにいろんな人に出会って、いいことも悪いこともあるけれど、自分で選んで住んだんだから、良かったと思っている。

藤井:『噂の真相』編集部は新宿だったし、岡留さんといえば、やはり新宿ゴールデン街です。新宿から那覇へ行くというのは、地理的な気持ちを切り換えるという決意のようなものがあったからですか。

岡留:新宿を離れたかったんだよね(笑)。 雑誌を25年やって、ほぼ毎日ゴールデン街を中心に東京で飲んでいたし、本当に新宿か六本木という生活。雑誌を出した前後を合わせると30年近くそういう生活を送ってきたわけだから、どっかで切り換えないと、このまま俺は新宿の藻屑と消えるのかと思ったんだ(笑)。

藤井:東京というか、新宿は仕事の場だったということですか。

岡留:新宿ゴールデン街がなかったら、『噂の真相』はなかったと断言できるんだけど、毎日いると、もちろんメディア人脈も増えたけど、それをずっとやっていると、マンネリというか、飽きてくるというか。このままではいたくないと思ったんだよ。

藤井:東京の次が沖縄だったというのは、何か故・竹中労さんのように沖縄を物語りながら発信していこうという思いがあったんですか。

岡留:移住した時点ではなかった。ほんとうに疲れて、癒しを求めてきたんだよ。

藤井:ほんとですか? 岡留さんのイメージと「癒し」という言葉が遠い気がしますけど(笑)。

岡留:本当だって(笑)。ゴルフも含めて、最初は海も行って、スキューバもやっていたから、ずいぶん沖縄の自然なんかを満喫したんだ。離島も回ったしね。とりあえずは東京ではできないことをやろうと楽しんだ。

藤井:沖縄を選んだ理由をあらためて教えてもらえますか。

岡留:『噂の真相』をやっているときも休暇のときには世界のあちこち行っていたけれど、沖縄も行っていたんだ。沖縄が本当に好きだったんだ。でも、こっちでもまたいろいろと発信していこうと思った決定打になったのは、2004年8月に、沖縄国際大学に米軍のヘリが墜落した事件に遭遇してから。沖縄に移住して1週間ぐらいのときだった。

藤井:そんなに直後だったんですね。

岡留:癒しをもとめてのんびりしようとして来た沖縄でヘリ墜落事件が起きて、沖縄はまだ「独立」していないんだと感じた。まだ、アメリカの植民地だと痛感したんだ。事故現場に沖縄県警は入れないし、メディアも入れない。米軍が非常線をはって、現場に落ちていたものや、土砂まで何もかも全部、基地内に運んだ。

それを見て、癒しで沖縄に来ている場合ではないと思ったんだよ。一人の移住してきた住民として行ったんだけど、のんびりしている場合じゃないんじゃないかと思った。

藤井:『噂の真相』休刊後の岡留さんの日記をまとめた『幻視行日記』には、移住早々に、

「実際、現場を訪れてみると、事故当時の衝撃を物語る黒く焼けこげた校舎の外壁がそのまま残されていた。墜落直後に現地視察した町村外相が米軍ヘリの操縦士の腕前をほめて顰蹙を買った場面は記憶に新しいところだが、道路を隔てて中古車売り場やマンションなどの市街地が隣接しており、一歩間違うと大惨事になっていることは必至というぎりぎりの場所だった。

しかし、沖国大キャンパスに落ちた幸いだったといわんばかりの町村発言のデリカシーのなさは、沖国大関係者や宜野湾市民だけでなく、これまでも基地によるさまざまな被害を受けてきた沖縄県民の怒りを買ったことはいうまでもない。」(2004月12月20日)

と書かれていて、これ以降も沖縄が直面する問題が多く綴られています。

岡留:沖縄が日本とアメリカの抱える問題の最前線だから、そういう気持ちになることは、想定はもちろん、あったさ。1995年の米軍兵士の少女レイプ事件もあったが、ヘリが落ちた現場を見たから、ほんとうに生々しかった。校舎は黒こげになっていて、臭いもすごかった。

移住直後にこれだから、いきなり、自分の意識を大きく変えざるをえなくなったというか、自分で自分に対して、「癒しを求めて沖縄に来たのか?」とツッコミを入れたら、「のうのうと癒しを求めて来てる」と、その現場を見たら言えなくなっちゃった。それは俺の性だし、それまでの自分の人生を考えたら、反政府・反権力でやってきたわけですから、休ませてもらいます、というふうには生きざま的にはいかなかったわけだ。

藤井:その事件がもし、なければ、こちらでの生活は今とは違ったものになってましたか。

岡留:沖国大ヘリ墜落事件の衝撃は強かったけれど、オスプレイ配備や辺野古の問題があるわけだから、同じ選択をしていたとは思うよ。

「沖縄を教えて」一から人脈作り

藤井:沖縄でもブログ等で言論活動は続けておられた。

岡留:『噂の真相』は編集部という大所帯をいちおう解散したわけだ。そして、俺1人になった。当時はパソコンも打てなかった。編集部のやつに入力してもらっていたから(笑)。パソコンで原稿を書くようになったのは沖縄に来て、1人でブログを書き出したからです。沖縄でパソコンを勉強した(笑)。『噂の真相』はスタッフやライターがいて、このネタおもしろいとか、このテーマでいこうということを決める立場だったから。

藤井:1人になって、書いたり、発信するときに、『噂の真相』時代と比べてやりにくくなったことはありますか。

岡留:1人でこっち来ると、誰かにあれを取材しろということはできないわけだから、1人でできることは限られた。チームを組んで取材をすることもできないから、1人で発信できる方法にシフトしたということです。

藤井:沖縄で活動するにあたって「不自由」さみたいなことは感じたことはありますか。

岡留:ズルかもしれないけど(笑)、東京のメディアに沖縄ネタを流すコーディネイター的なこともするようになった。翁長選対を裏で手伝って、菅原文太にわたりをつけたのも、沖縄に来ていろいろな人脈もできたから、彼らを裏で手伝ったんです。沖縄では、保守系から革新系までたくさん知り合い、そういう人たちと飲んだり、もあい(模合)に参加したりしていた。

藤井:もあいにも顔を出されていたんですか? もあいは沖縄の風習でただの飲み会じゃなくて、会費というかたちでお金を徴収して、それを誰かが総取りする。で、次の回はまた別の人が会費を総取りするという、いわば民間の頼母子講みたいなものです。

岡留:してたよ。そういう席で、これまでの自分の経験から、いろいろアドバイスもしていた。東京では自民党の政治家とオモテで飲むことなんかなかったと思うけれど、沖縄ではあるわけだ。自民党とかみんな知り合いになった。新聞の政治部が飲み会をすると、自民党の県連連中がみんな来るから。呼ばれていくと挨拶して、そこで知り合いになるわけさ。

藤井:こっちのメディア関係者は岡留さんをどう「受け入れ」たんですか。

岡留:最初はいろいろな反応があった。こっちへ来る前に竹中労の石碑をつくる話し合いを、知名定男のやっていた民謡クラブのコザの「ナンタハマ」でやったとき、前説を頼まれてしゃべったら、「あの岡留かー」と知っている人もたくさんいた。そこで名刺交換して、そうやって人脈をつくっていった。

藤井:沖縄ではわりと知られていたんですか。

岡留:沖縄でも『噂の真相』はそこそこ知られていたんだ。というのは、竹中労の連載とかしていたし、沖縄のこともよく取り上げていたからね。

藤井:岡留さんはこちらで最初、どういうふうに見られていたんでしょうね?

岡留:やっている雑誌が過激がウリだから、そのわりには俺は「人気」があったんじゃないかな(笑)。俺は一見、コワモテなんだけど、地元新聞社の連中と地元のキャバクラを制覇したりして遊んでいたからね。そうやって人脈をつくっていったんです。

ネームバリューもそこそこあったから、地元紙の若い記者から取材を受けると、中には知ってくれている記者もいて、俺が予想する以上に「抵抗」はなかったと思うなあ。沖縄に取材に来たり、移住してくると、ヤマトから来たということで「はじかれる」というような感覚を覚える人もいるけれど、俺自身はそういうのは感じなかった。

俺は身構えてないし、沖縄のことを教えてほしいという感じで接していたから、受け入れてもらえたと思う。東京でバリバリのスキャンダルの反権力雑誌やってましたみたいな経歴を引っさげていっても、「そんなの知るか」で終わりだから(笑)。沖縄のことを一から教えてほしいという態度で行っていた。俺の「キャラ」の問題だと思うけれど(笑)。

「最初は洗礼も受けたよ」

藤井:大江健三郎さんのように、大げさに言うと沖縄に足を向けられないというか、贖罪意識を背負って来る知識人もまだまだ少なくないですよね。

岡留:そういう沖縄贖罪史観は俺にはないね。そういう思想の大御所でもないし、藤井君もそうだけど、一ライターであり、一編集者なんだから、そういうある意味、上から目線意識はない。そもそも俺は能天気だから、そういうふうにならない。沖縄という土地に対して妙に構えていないと沖縄に受け入れてもらえないというような意識は俺は嫌いだし、気がついたらスーッと入っていたというか、そういう感じです。

どうやって飛び込んだのかと聞かれても、俺はふつうにやっているだけだから、そういうことを聞かれても困るんだよなあ。ある程度のネームバリューはあったけど、一から知り合いになっていったんだから。

藤井:沖縄に岡留さんはどうして移住してきたんですか? と聞かれましたか。

岡留:仕事に疲れたからのんびりしにきた、と本当に答えていた。それがよかったのかもしれない。政治性みたいなものを出さずに来たから。ただ、本を何冊か出してもいたから、マスコミの幹部連中に挨拶で送ったりしていて、知り合いを増やしていったということはやりました。

難しい言い方になるけど、俺はメディア業界に身を置いてはいたけど、「突き抜けていた」ことをやってきたから、そのあたりの感覚が沖縄の新聞社の人とは大きく違うところ。こっちのメディアの人たちはまじめだし、保守とも付き合う。だから、あまりベッタリはしたくなかった。こっちへ来る時点でスキャンダル路線はやめて来ているから、そのあたりの誤解は今でも、まだあるのかなと思うけど。

沖縄での居場所がほしいという感覚ではないけれど、自己紹介がてら本を送って、俺を理解してもらおうと思った。たまに、怖い人が沖縄に来たなーとか言われたけど、そうやって、一から知り合いや友人を増やしていったんだ。

藤井:岡留さんもそういう「努力」をされていたんですね。いま、生活は楽しいですか。

岡留:さっきも言ったけど、楽しいし、後悔してない。沖縄に来て最初は海とか行ったりしたけど、今は外に出ることはめったにないね。たまのゴルフぐらいかな。夜は、ここ「瓦家別館」に来る。全国から、ライターや編集者、昔の読者なんかがここを訪ねてきてくれる。それはうれしいね。

藤井:沖縄の「岡留詣で」という言葉があるように(笑)、ここがある意味で人間関係のハブ化しているということですかね。

岡留:そこまでは政治的、戦略的には考えてないよ。むかし『噂の真相』を読んでいましたという人たちと自由に語り合うことがいいと思ってる。繰り返しになるけれど、いろいろな事件は沖縄で起きるが、また闘おうというような気持ちになることはなくて、友人知人と関係性を再確認しながら、いろいろなことを語り合うというか、そういうことが楽しい。

藤井:岡留さんにとってはある種、コミュニケーションスタイルの変換ですね。

岡留:そういうスタイルがいまの自分には合ってると思う。俺は生まれは鹿児島で、それから東京行って、東京をナメてたんだよね。たいしたことないなって(笑)。で、東京で30年生きてきた。

東京とは沖縄とは違う。そりゃあ、沖縄に来て、最初の一年は「洗礼」を受けたよ。1609年の薩摩侵攻から話が始まる。俺は薩摩出身だし。でも、そこで言い返したりせず、じっくり話を聞いて、そこから会話が始まった。そういうふうにして溶け込んだ。いまはこうやって店にいることが、「一人メディア」なんだろうね。

手渡せなかった「謝辞」

このインタビューをしたのは「瓦屋別館」だが、ぼくはオープン前の店舗の下見に立ち会ったこともある。沖縄にいるときはしょっちゅう通ったが、岡留さんの体調がどんどん悪くなっているのがわかった。

最初は激しく咳き込んでいたが、検査をすすめても頑として聞かない。だんだんと酒量が増え、一定量をこえると崩れ落ちるように倒れてしまうことがあった。たまにおでこに絆創膏を貼っていたが、タクシーに乗るときにアタマをぶつけたらしい。

岡留さんは店が終わると、店が入っている雑居ビルの前に停まっているタクシーに乗って帰るのだが、毎回のようにアタマをぶつけるようになった。それから、自宅マンションの近くで転倒したりもしていて、心配していた。ぼくと作家の仲村清司さんといっしょに一度、岡留さんを担いで帰ったことがあるのだが、マンションにたどりつくのに2時間もかかった。途中で暴れたり、違うマンションを指示したりしたからだ。

彼は空手をやっていたので、背負うぼくをなぜか殴りつけて、何かをわめいていた。これは泥酔ではないなという予感があった。『噂の真相』の元スタッフたちが協力して検査入院をさせた。そのまま入院したが数年間、病状は回復することなく、転院先で息を引き取った。

左から筆者、故・岡留安則氏、作家の仲村清司氏

『沖縄アンダーグラウンド』のあとがきには岡留さんへの謝辞を書いたのに、けっきょく手渡すことができなかった。後悔してもしきれない。ぼくは岡留さんのことを思い出しながら、部屋にとじこもって、過去の取材ノートを読み返しながら、取材方法について整理して書き留めておくことにした。

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