沖縄特飲街「オフリミッツ」と売春・上(沖縄・東京二拠点日記 番外編)

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8月某日 取材資料をつめこんだファイルを開いた。 『沖縄アンダーグラウンド 〜買春街を生きた者たち』((講談社)を出してから、いろいろな人から、占領していたアメリカが連発していた「オフリミッツ」施策について聞かれることが増えた。特定の地域や店に米兵を立ち入り禁止とする施策のことだが、今では発令されることはゼロに等しい。けれど、前に書いた「Aサイン制度」(アメリカが取り決めた、飲食店などの衛生許可のことで通称「Aサインバー」といわれる)の成り立ちと大いに関係がある。

ぼくは取材で収集した、米政府が連発したオフリミッツの影響について報じた、当時の新聞記事を時系列に読み返して整理してみた。オフリミッツを知ることは、戦後の沖縄の一つの側面を照らすことになる。

米兵の性病対策だったオフリミッツ

1950年に発令された中部地域一帯を対象にしたオフリミッツに話を遡ることにする。コザ(今の沖縄市)に八重島特飲街をつくるひとつの引き金になった、そのオフリミッツが解除されると、米兵たちは「公認」された売買春街にそれまで以上に繰り出すことになり、米軍政府はさらなる性病対策や衛生政策を打つ必要に迫られていった。米兵向けの売春がところかまわずおこなわれていたので、アメリカと沖縄は特定の地域に集めようとして、大規模な特殊飲食店街をつくっていったからである。

表向きは売春ではないが━━アメリカは米兵相手の売春を禁止していた━━じっさいはほとんどの飲食店でおこなわれていた。街をつくるだけでなく、1947年布告の「花柳病取締」を廃止して、軍政府は「性病取締」(軍政府公布21号)を公布するなどして、米兵への性病罹患を防ごうとしていた一方で、実態はそうだった。

そのあとも「純正食品規制」や、新たな保健所の設置などを次々におこなうのだが、那覇市をはじめ住民地域の衛生状態は向上せず、売買春による性病感染をくい止めることはできなかった。また、那覇の一部の人口密集地域等の塵の投棄は誰が管理することもなく、蠅や蚊が大量発生し、日本B型脳炎が爆発的に蔓延、死者が続発した。

米軍はそうしたことを理由にさまざまな衛生対策を徹底していくことに追われ、住民地域の米兵立ち入り禁止のオフリミッツを次々に発令し、米軍兵士を中心に商売をしている地域はまたしても経済的打撃を受けることになった。もっとも影響を受けたのはやはり八重島などの米兵相手に「売買春」を半ば公然とおこなっていた街であることはいうまでもない。

しかし、日本脳炎対策の裏をかくようにして、売買春行為は沖縄各地でなされていたようで、『うるま新報』の「昼も稼ぐ夜の姫/追込み網でごっそり」という古い記事を紹介する。ちなみに「うるま新報」とは、占領米軍が発行していたもので、沖縄でもっとも古い新聞といえる。

(前略)民政本部スキウス保安部長から警察本部に対し、”泡瀬ビーチの密淫売一切取締りを実施せよ”と電話があり、警察本部では直ちに非常呼集を行うと共に胡差、与那原、前原各署に連絡し、泡瀬ビーチ、北谷三叉路一帯、大謝名、城間各部落を急襲、売淫被疑者七三名、媒合被疑者十一名を検挙した。(中略)なお今回のパンパンがりの目標とされた泡瀬海岸はナイスビーチと呼ばれ日本脳炎によりオフリミッツになったため胡差方面からパン助嬢出張、午前十時ごろから午後三時まで米兵たちと海水浴をし海岸の緑の木陰で又付近の沈没船々室で稼いでいるらしく、その一帯は百花繚乱・・・。同日時刻がおそかったためで割合少なかったと言われており、泡瀬某ガードはこの日一斉検挙につき”午後二時ごろ取締りをやれば二百名は検挙できる”と語ったという。(『うるま新報』1951年8月11日付)

オフリミッツが解除されてからの八重島

やがて脳炎封じ込めの対策が功を奏して、1951年8月には那覇市内の一部地域をのぞいてオフリミッツが解除された。八重島には解除と同時に待ってましたと言わんばかりにまたしても米兵が大挙して乗り込み、大騒ぎをしたという。解除されなかった各地域では行政も音頭を取って清掃にちからを入れた。とくに那覇は土地を奪われるなどしてなだれ込んだ地方の人々や、疎開から戻ってきた人々が、住むスペースを求めてテント小屋のようなものを無計画につくり、それが不衛生の源とされたから、集中的に清掃活動がおこなわれた。

活気を取り戻した八重島は、朝鮮戦争の勃発とともに景気が上昇していく。沖縄はアメリカ軍の発進基地となり、嘉手納基地からはB29爆撃機が頻繁に離発着をするようになる。米兵たちは、朝鮮半島で戦死するやもしれぬ激しい不安や、仲間の生死に直面する日常を沖縄で送ることになる。これから戦場に赴く兵士、命からがら帰還した傷病兵、戦死の恐怖にかられた兵士たちは酒にひたり、女性たちを求めて繰り出してくるようになる。こうした状況はその後のベトナム戦争終結まで断続的に続くことになる。

八重島はオフリミッツをくらうと死活問題だけに、経営者たちは女性たちの性病検査を週一回ほどのペースで保健所や病院で受けさせるようにしており、米兵たちが安心してやってくるようになっていた。繰り返すが売買春は建前としては米軍特別公布14号「占領軍への娼業禁止」や同16号「婦女子の性的奴隷」により禁止されてきた。しかし、実際に半公然化していた街が存続しえたのは、あくまで表向きには八重島が売買春を目的につくられてはいないことや、女性たちは自分の意思で働いているとみなされていたからだ。また、米政府や行政、地元住民らが申し合わせることにより、一般地区から隔離されたところにつくられたため「公娼」と解釈されていたむきもある。

1951年頃の八重島の様子は次のような記事になっている。

料理屋、飲食店、旅館等の、女中達の隠れ商売とちがい大っぴらであるだけに、ねっちりとしたところがなく、さっくりと割切れ『ペニシリン打ってる最中だから、お酒は御免』とか『この分なら明日から客がとれるわ』とか、こだわりのなさは、かえってさばさばした遊びができるというもの。相場はショートタイムが一ドル、オール・ナイトが十ドル、沖縄人も遊ぶとのこと。沖縄人も同じ相場かと聞いたら『可哀相だから五百円』味な返事であった。(『沖縄タイムス』1951年3月14日付)

米軍側はおもてむきは、より強い性病対策を沖縄の行政に要請してきた。売春女性や仲介者をどんどん取り締まり、伝染者には無料で治療を受けさせ、社会に対して性病について啓蒙していくことなどだ。そうでなければオフリミッツを発動するという「脅し」まで米政府がおこなったのは、売買春を布告で禁止しておきながら、片方では暗黙するというダブルスタンダードな立場をとり、同時にあの手この手の性病対策をおこなってきても性病の蔓延を押さえ込むことはできなかった焦りからだ。

売買春は「管理」された街以外でも、いわゆる街娼や私娼の女性たちによっておこなわれており、対策は行き届かなかった。いわば「制度外」に置かれた彼女たちは、ペニシリン注射が無料とは知らず、経済的に困窮していたから打たなかったり、保健所や病院に行くとそこで軽蔑の目を向けられるという理由などから自ら性病予防を怠っていたとされる。また性病感染者と認定されると、強制的に入院をさせられる可能性もあったから行かなかった者も少なくなかったという。中には産婆にペニシリン注射を打ってもらうケースもあった。

『琉球新報』は次のような記事を載せている。

(前略)那覇市崇元寺通りと十貫瀬通り一帯で宵闇迫ると勇敢なパンパンの一群が堂々と街頭に進出したりまた道路に面した店先や、或は物かげにかくれて米人とみれば客と思えと猛攻を開始。ブラブラ歩きの兵隊さん達に凄くタックルしてくる。「ワンタイム、ファイブダーラー」は昔の夢、今はワンタイム二ドル乃至三ドル程度に格下げとなり、これで一家をささえている女性が少くともここら一帯に二百名は下らないとみられている。二ドル位で対応するなら沖縄ボーイに一晩三百乃至四百円で相手にした方がよいというものもあり、晩になるとうっかり小路でもあるけぬとこぼす御仁もいる。この種族どもが性病なんていう恐ろしい亡国のバイキンをまき散らしいつも軍から立入禁止にするぞとオドシをかけられたりする。崇元寺派出所員にきくと、「はっきりパンパンと判れば検挙もするが、何しろ表面女給又は通行人とみせかけて話し合い自宅へと引っ張りのだから仲々彼女達の実態がつかみにくい」とのことである。米人相手に遊ぶだけならまだしも、せめて性病の伝播機関になることだけは極力防いでもらいたいものだ。(『琉球新報』1952年3月18日付)

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