44歳、台湾で小学校に入学。アイスホッケーから旅館経営の道へ

タロコ族のレストランで、竹筒ごはんをオーダーする内海さん

台湾の花蓮(ホワリエン/カレン)という街をご存知だろうか。台湾東部にある地方都市で、首都・台北から特急で約2時間。台湾きっての景勝地「太魯閣渓谷」がある。夏場には海と山の大自然を目指し、台湾中から旅行客が訪れる人気のスポットだ。

しかし、そこに住む日本人はほとんどいない。花蓮の人口32万人に対し、日本人はわずか65人だ(2019年現在)。その数少ない一人が、内海真巳子さん(49歳)。5年前に台湾人の男性と結婚して移住。現在は夫婦でホテルを経営している。

内海さんは日本に住んでいたとき、アイスホッケーの国際審判員をしていたが、20年にも及んだアイスホッケー人生にピリオドを打って、44歳のとき、台湾へ移住することを決めたのだった。

アイスホッケー中心の暮らしにピリオド

内海さんは大学を卒業後、地元仙台のスケート場でアイスホッケーのインストラクターを始めた。1998年の長野オリンピックでアイスホッケーが正式種目となったのをきっかけに、国際審判員の資格を取得。日本初の女性レフェリーの一人として華々しくデビューした。

女性初のレフェリーとして活躍

国際大会では、審判も成績評価の対象となる。そこで英語のレベルが足りないと感じ、アメリカでの語学留学を決意。単身、渡米した。そこで台湾出身のジャッキーさんと出会い、恋人同士に。しかし留学終了とともに、何となく連絡が途絶えてしまう。

帰国後は、料理学校の事務職の仕事とリンクの往復という多忙な生活を送る。週の半分以上は、車中で晩御飯を食べてスケートリンクに向かう日々が続いた。

「仕事が終わるとボランティアで子供たちにアイスホッケーを教えて、それから別のリンクへハシゴして審判をすることもざらにありました。寝るまでずっと、アイスホッケーばかり。何か特別な使命感のようなものを感じていました」

突然訪れた「42歳の転機」

忙しいながらも、充実した毎日。そんな日々を繰り返しているうちに、あっという間に40歳を過ぎた。気が付けば、後進指導やレフェリーをまとめる立場になっていた。

同時に、女性としての人生をどうしたいのかと自問自答を繰り返していた。そして42歳の冬、日本アイスホッケー連盟から重要なポストを打診されることになる。

自分でもどうしたら良いかわからない状態。このまま行ったら結婚もないかもしれない。

そこで、内海さんは「今の自分の気持ちを整理したい」と、11年ぶりに留学時代の元恋人であるジャッキーさんに会いに行くことを決めた。会えば何かわかるかもしれないと、彼が住んでいる台湾へ渡航した。2014年1月のことだった。

元恋人と再会した印象は、「しばらく会ってないとは思えないほど自然でラク」というものだった。考えてみれば、いつも気遣いをしてくれたのは、ジャッキーさんだった。東日本大震災のとき、真っ先に連絡をくれたのも彼だった。

その後、仙台と花蓮で連絡を取り合う日々が続き、ある日、送られてきた旅行の写真に付箋がつけられていた。そこには丸文字の日本語で「家族になりませんか」と書かれていた。

「ドドン!結婚!という感じじゃなくて、あ、結婚するのね、結婚するかみたいな、流れに身を任せた感じでした。なので、正直台湾が好きで台湾に来たわけではなく、嫁ぎ先が台湾だったということです」

困った!しゃべれない!ならば小学校へ入学しよう

ある日の夕食。近所の大衆食堂「多桑」にて

こうして44歳のとき、台湾へ移住した内海さんだが、英語はできるものの、中国語は全く話せない状態だった。

台湾ではジャッキーさんだけでなく、その両親と同居することになった。新しい家族は内海さん以外、全員台湾人。「アウェイ感がハンパない!」と感じたそう。

「食卓で私以外の3人が中国語を話しているときは、ひとりポツンという感じ。そんなときは、黙々とごはんを食べていました。やっぱり寂しいし、もっと話したいと思って、一念発起して花蓮の小学校へ入学しました」

その小学校は、満足に教育を受けられなかった70代以上の台湾人と、台湾の永住権を取得する外国人のために、夜間の教室を開校していた。

通常の語学留学とは違って、小学生と同じ教科書を使うというもので、1年生の授業は「1+1=2」から始まる。教科は日本同様、国語、算数、理科、社会だ。最初は授業の中国語が理解できなかったため、同時に大学の語学センターの7週間コースにも通った。

当初は家でも学校でも、満足に話すことができず、悶々とした日々が続いた。特に難しかったのは発音だと語る。日本語にはない発音の「四声」があり、似たような発音でも全く違う意味となるからだ。その違いが分からず、間違えてしまったことも多かった。

「例えば、布団は中国語で被子(べイズ)、コップは杯子(ペイズ)とよく似ていますが、音の高低が違う。コップだと思ったら、布団だったとか。当時は語彙がないから、別の言い方ができず、訳がわからなかった」

小学校は週3回の授業に通い続けて、3年間で卒業。そのころにはようやく会話ができるようになり、勉強が楽しくなったという。

クラスメイトの外国人は永住権を取得するのに必要な72日間が終わると、学校に来なくなった。台湾のおじいちゃんやおばあちゃんも、一学期終わるころには来なくなってしまった。

その後も、どんどんクラスメイトが減っていく。3年目には先生とマンツーマンの日が多くなり、生徒は内海さんひとりきりの日も。だが「言葉を絶対覚える!」という気持ちで、小学校生活を乗り切った。

入学当初は、台湾の文化も含めて言葉を緩やかに覚えていく小学校の授業内容に「いつまでたっても話せるようにならない」と不安を感じていたが、結果的には台湾の教育が良くわかり、行って「よかった」と思った。

それから3年が経ち、内海さんの台湾生活も6年目に突入。今ではいろんな表現ができるようになったという。

「壁にぶつかったときは、その国に来た目的や夢を思い出し、自分が選択した道なのだということを忘れずにいれば、乗り越えられると思います」

台湾と日本との違い、住んでみて分かったこと

アミ族のショーに参加して、アミ族より楽しげに踊る内海さん

内海さんが暮らす台湾の東側は原住民が多く暮らし、台北などがある北部とはひと味違った雰囲気の場所。台湾原住民16部族のうちの大部分が東側に集中し、独自の文化を形成している。

内海さんはそんな台湾東部の中核都市・花蓮で、ジャッキーさんと一緒に「View Hostel」と「遠慮園」という宿を切り盛りしている。

「とにかく夏は暑く湿度が高い。来たばかりのころは、暑さに体力を奪われて、ついていけませんでした。冬は寒くなっても15℃くらいですが、結構寒い。湿度が高いので、肌に冷たい湿気が吸い付く感じ。暖房がないので、家でもダウンジャケット。布団に入ったときだけ暖かい感じがあります」

経営する宿の「遠慮園」。部屋のバルコニーからは中央山脈が望める

「旅で出会う台湾人は、世話好きのご近所さんみたいに、困ったことがあればすぐ手を差し伸べてくれます。観光客が道に迷っていると、躊躇せずに声をかけます。しかし生活していると、そうでもないです(笑)」

意外にも、自分から行かないと仲良くなれないという。良くも悪くも、台湾人は他人に気を使わない、自由な雰囲気なのだとか。

「日本みたいに“空気を読んで”ということがないので、自分から行かないといけない。でも仲良くなったら、気を使わない関係が築ける。ご近所付き合いも、おすそ分け文化とかがまだあるんですよ」

慣れない台湾の文化や習慣により、移住当初は怒ってしまうこともあった。いちばん困るのは車の運転。信号や車線は参考程度と考えたほうがいいと話す。

「台湾人は普段とってもやさしいですけど、車の運転だけは、ジコチュウ! 逆走に信号無視。自由すぎるでしょって思うことがあります」

そんなとき、夫のジャッキーさんは笑顔で、「Welcome to Taiwan!」と大声で、内海さんの肩を叩く。その言葉を聞くと、怒っていること自体がバカらしくなり、なんとなくほっこりとして、怒りも収まってしまうそう。

レフェリーをやっていたせいもあり、ルールを守らなければいけないという意識が常にあったが、それは狭い考えだと気がついたという。

「普通、あり得ないでしょ、と思うこともよくありましたが、果たして自分が思っている『普通』は本当に普通なのか、と思うようになりました。こういうこともありえる、と柔軟な考えを持つと、気持ちが楽になりました」

ある日の午後、ひよこカフェでくつろぐ内海さん。ひよこかわいすぎか

コロナ封じ込めに成功した台湾は「観光」も活発に

台湾といえば、新型コロナウイルスの押さえ込みに成功した数少ない国・地域でもある。4月13日の感染者ゼロから半年以上、市中感染が発生していない。いまだにコロナ対策に苦心している日本とは違う状況だが、現地の暮らしはどんな様子なのか。 

台湾がコロナ対策に成功した背景には、2003年に流行した「SARS(重症急性呼吸器症候群)」の苦い経験があるという。当時、台湾は中国と香港に次いで、世界第3の感染拡大地域となってしまった。

この経験から、政府は中央感染症指揮センターを設立。今回の新型コロナウイルスに対していち早く防止策を講じ、海外からの人の流入をストップさせた。

「どこへ行くのもマスクは必須。公共の乗り物は絶対マスク着用で、マスクがないと入れません。どんなに小さい駅でも、検温とマスクチェックがありました。台北の地下鉄はマスクなしでいると、罰金1万5000元です」

日本円にすると約5万5000円の罰金。平均月収が約14万円と言われる台湾では、月収の4割にあたる。この罰則が効いたのだろう。台北でのマスクの着用率は100%ということだ。

コロナの封じ込めに成功した台湾では、7月に入ると人々の移動が活発になり、観光業にも光が戻った。日本のGoToトラベルのように政府が実施したキャンペーンが功を奏しているという。「安心旅遊補助」と「振興三倍券」の2つの復興キャンペーンによって、内海さんが宿を経営する花蓮にも、台湾の他の地域から多くの観光客が訪れるようになった。

「特に7月と8月は、毎日が春節のようににぎわっていました。毎日、人人人! 満室満室! で、嬉しい悲鳴でした」

個人的には「前からチェックしていたパタゴニアのウエアが、振興三倍券で安く購入できて嬉しかった」と語る。

内海さんが嫁いでから、日本人も多く泊まるようになったという。実をいうと、私もその一人だ。ここ数年、台湾に取材に行ったとき、この宿にお世話になっている。

内海さんの一日のルーティンには「おしゃべり」という項目がある。これは、宿泊者とコミュニケーションを取って、観光の相談やアクセスなどの話をしている時間のことだ。

いつもひとりで取材に向かう私にとって、内海さんとおしゃべりできるのはありがたく、その存在はとても大きいのだ。

内海さんはいったん目標を定めると、迷いをもたずに全力で取り組む。大変なはずの実現までの道のりも、内海さんにかかると、ひとつの過程にすぎなくなる。ひとつクリアできたら、次の目標を定める。

内海さんが今後、何を目標にして頑張るのか、私は楽しみにしている。

この記事をシェアする

矢巻美穂 (やまき・みほ)

国内外の旅行雑誌を中心に活動するカメラマンで、撮影から執筆・編集作業まで行う。単著としてネパール、台湾、ウズベキスタン、韓国などのフォトガイドブックを執筆。近著は『はじめて旅するウラジオストク』(辰巳出版)。また、YouTubeで「旅ちゃんねる MinMin Tour」をオープン。これまで取材に行って、本当に美味しかった店や行ってよかった人気スポットを紹介。

このオーサーのオススメ記事

ディナーのメニューがない「ペルー料理専門店」 好みと予算で「自分だけの料理」をオーダーできる!

44歳、台湾で小学校に入学。アイスホッケーから旅館経営の道へ

モロッコ愛が止まらない!仕込みに8時間かけるモロッコ料理店

異国情緒たっぷりの「多国籍カフェ」 知らない国の知らない料理を食べるワクワク感!

矢巻美穂の別の記事を読む

「ひとりで学ぶ」の記事

DANROクラブ

DANROのオーサーやファン、サポーターが集まる
オンラインのコミュニティです。

もっと見る