「孤独死を生み出す日本社会の現実に目を向けるべき」ノンフィクション作家・菅野久美子さん(後編)

撮影・萩原美寛

たった一人で自室で亡くなり、発見されるまで時間がかかる「孤独死」。その数は年間3万件あるとも言われています。孤独死の問題を取材してきたノンフィクション作家の菅野久美子さんは「孤独死の背景には、現代における人と人の関係の希薄さや家族関係の変化がある」と考えるようになりました。 

子どものころ、親から肉体的・精神的に苦しめられた人たちが、年老いた「毒親」を見捨ててしまう。あるいは、疎遠になっていた家族の最期を自分で看取るのではなく、民間の終活サポート団体に任せようとする。今はそんなニーズに応える「家族遺棄ビジネス」も活況を呈しているそうです。

詳しい様子は菅野さんが2020年に著した『家族遺棄社会』(角川新書)に収められています。子どもたちが「親を棄てたい理由」はさまざまです。なぜ、彼ら彼女らは自分の両親の最期を第三者に委ねたいと思うのでしょうか。菅野さんに話を聞きました。

「親の最期の面倒をみたくない」

――『家族遺棄社会』には、両親から虐待を受けてきた子どもが大人になって家庭を持ち、両親と縁を切るケースが紹介されています。

菅野久美子さん(以下、菅野):「虐待」というのは肉体的なケースから心理的なケースまで様々なものがありますが、「最期の面倒を見たくない」という人たちは、親との間に何らかの問題を抱えているケースがあります。

そういう人たちが、ある日突然、親が倒れて「ひとりで生活できない状態になっているので面倒をみてほしい」と言われるんですね。私自身、親から肉体的・精神的な虐待を受けてきたので、そう言われたときの戸惑いの気持ちはすごくわかります。

また、虐待だけでなく、ただ単にこれまで親と疎遠だったり、仕事が忙しかったり、距離的な問題で、面倒をみれないという人もいます。

よく考えると、両親と一緒に住んでいるのは、高校卒業や大学進学とともに家を出た人はそのときまでです。そうでなくとも、せいぜい20代半ばぐらいまでという人も多い。関係は円満であっても、正月に実家に帰ったとき以外は親と会っていないという人も意外といるものです。

にもかかわらず、ある日突然、「自宅に介護ベッドを入れて、両親のケアをしてほしい」「介護施設に頻繁に通ってほしい」と言われても、物理的にそれはできないと。

民間の終活サポート団体に相談すると、そのような緊急事態が起きたとき、介護施設とのやり取りを請け負ってくれることはもちろん、介護施設に入居させるべきなのか、それともヘルパーの力などを頼りつつ自分がケアするのか、どうすれば介護する側の負担が減らせるのか、第三者の立場から、解決方法を一緒になって考えてくれるんです。

――介護施設は入居希望者が多く、なかなか入れないといいますが、終活サポート団体の人たちは施設選びから一緒に考えてくれるようですね。終活コンサルティングのような感じなのでしょうか。

菅野:そうです。また、親を介護施設に入居させたあと、施設から電話がかかってきて「パジャマやタオルを買ってきてほしい」などと細々した対応を求められた場合に、仕事が忙しいので終活サポート団体に代行を頼むという人もいます。

「親を介護施設に入れれば楽になれる」というのは間違いです。寂しさもあって子どもを頻繁に呼びつけたり、子ども側は日々の仕事で疲れ果てているのに、「なんでもっと頻繁に会いに来ないんだ!」と罵ったりする親がいます。施設に入居したあとも、そんな親のことが重いと感じたり、煩わしいと感じている人たちもいます。

また、在宅介護の場合、自分だけでは親の面倒をみれないので介護ヘルパーを頼もうとしても、「家に他人が入るのは嫌だ」と親から拒否されることがあります。

そういうことで悩んでいる人は結構多いのですが、なかなか他人に相談できない。そんなとき、悩みだけでも聞いてくれる終活サポート団体は役に立つ存在だと思います。

また、老親を抱えている子どもだけでなく、ひとりで暮らしている高齢者が「何かあったときに不安なので見守ってほしい」ということで相談するケースもあります。

問題の本質は「孤独」の深刻化

――菅野さんはどのようにして「孤独死」から「家族遺棄」というテーマに辿り着いたのでしょうか。

菅野:現代社会における人と人との繋がりの希薄さが、孤独死の背景にあります。それは親子関係においても、例外ではないのではないかと、取材を通じて感じ始めたんですね。それで孤独死の次のテーマとして、家族代行ビジネスに焦点を当てました。そうすると、親族というだけで、介護などの世話を押し付けられて困惑している人たちが露(あらわ)になったのです。

日本社会が沈没しようとしていることの現れが「孤独死」や「家族遺棄」だと思いました。家族代行ビジネスのリアルと向き合ううちに、その確信を得たんです。取材を通じて、名前もわかっているのに誰も引き取り手のない遺骨がこんなにもあるのかと驚きました。

「孤独死」や「家族遺棄」に対して、行政も含めた私たちの社会はその対応をしないまま、ただ臭いものに蓋をして、突き進んでいる気がします。

孤独死も家族遺棄も、問題の本質は、日本社会が抱えている「孤立」の深刻化なんです。私たちは、国を挙げて、その問題と向き合う時期に来ていると感じます。

いじめをきっかけに引きこもった中学時代

――「孤独死の問題は他人事とは思えない」ということが、菅野さんの「孤独死取材」の出発点だったとのことでした。

菅野:ご遺族などに取材をすると、孤独死する人は人間関係をスムーズに築けず、生きづらさを感じている人が多かったんです。私もいじめが原因で、自宅に引きこもっていた時期があります。

公立小学校の6年生のとき、クラスの全員から無視され、罵倒されるという凄まじいいじめに遭いました。中学校は私立中学に進学しましたが、そこでもまたいじめに遭ってしまったんです。「女子の誰か一人はハブられる」というルーティンに入ってしまって…。

それで、中学1年生のときに私立中学校をやめて、公立中学校に戻りました。でも、そこには自分をいじめた人たちがいたので、1日で学校へ行くのをやめてしまったんです。

父親は教師で、最後は校長まで務めた人です。母親も元教師でした。「何で学校に行かないのか」「娘が学校に行かないのは出世に響く」と言われたときには傷つきました。

住んでいたところは新興住宅地なので、何もありませんでした。その中で高いところから飛び降りたり、自殺未遂を繰り返していました。

昼まで寝て、夜はネットサーフィンするという日々が続いていました。昼間は外に出られなかったですね。

引きこもりがきっかけで表現活動へ

――その状態からどうやって、引きこもりを卒業できたのでしょうか。

菅野:父親が教員だったので、不登校の専門家を紹介してもらったんです。不登校の問題を研究している人で、私のことを真剣に考えてくれました。

その人は関東に住んでいました。私の住む宮崎に比べて、関東圏は自由な校風の学校などの選択肢が多いので、「久美ちゃんは、もっと自由な東京の学校が合っていると思うよ。中学を卒業したら東京へ来たら?」と言ってくれたんです。

親のように自分の体裁だけを考えるわけではなく、初めて、私に寄り添ってくれる他者を見つけたんですね。実際、校則などで子どもをがんじがらめにする地方の学校に馴染めなかったという部分もあります。

結局、両親が反対したので上京は実現できなかったのですが、なんとか地元の高校に行きました。その人とは今でも連絡を取っています。

でも、その人との出会いは、たまたまの偶然に過ぎません。私もその人と出会わなかったら、そのまま自宅で引きこもりを続けていて、8050問題と言われるように、親なき後に孤独死していたでしょうね。

高校は普通科だったのですが、クラスには体育会系の生徒が多く、みんなそれぞれ「我が道」を進むという感じでした。

高校の同級生はみんな自分のしたいことに熱中していたので、いじめられることはありませんでした。ただ、不登校時代に遅れた高校の勉強についていくのは、本当に大変でした。

――引きこもりのころに本を読んだことが、現在の道へつながっていると聞きました。

菅野:そのころ、永沢光雄さんの『AV女優』(文春文庫)を読んで、自分も表現活動をしたいと思い始めたんですね。それから『新世紀エヴァンゲリオン』は、キャラクターのポスターを部屋に貼るほど好きでした。永沢光男さんも庵野秀明監督も大阪芸術大学の出身なので、そこを目指そうと思いました。

表現活動に興味があったのは、教師だった両親の影響もあったのかもしれません。模範的な人間像を押し付けられてきたことに対する反発がありました。今は書き手となりましたが、世間の尺度では測れない人間の豊かな面や、逆に社会から覆い隠されている事実を伝えていきたいと思いますね。

本当の人間の姿を知りたい

――念願がかなって大阪芸術大学に進み、映像学科に入りました。

菅野:大学に入ってからは専攻が映像学科だったので、卒業制作ではドキュメンタリーを撮っていました。社会問題に本格的に向き合い始めたのはこのころです。関西に女人禁制の山があったのですが、そこに行って卒業制作を撮りました。

また、永沢さんの本などを通じて知ったアダルト業界に興味があったので、最初はアダルトビデオの制作会社も考えたのですが、就職活動をしてみて「ちょっと違うな」と思い、SM雑誌を手掛ける出版社に入りました。

SMに惹かれるのは、普段の社会生活ではなかなか見せられない秘めた欲望だったり、多種多様な性的願望を受け入れてくれるSMの人たちのコミュニティの懐の深さに、どこか安心感を覚えるからだと思います。

――大学を卒業して半年ほど出版社に勤務してから、ライターとして独立していますね。

菅野:SM雑誌の編集部にいたのですが、編集作業のほかにインタビューもやらせてくれたので、かなり鍛えられました。

そして、雑誌や本など大枠での構成に関わる編集者という仕事よりも、人と会って取材したり書くことが好きだったので、独立しました。

ライターになって最初のころは、AV女優や監督に取材して、ひたすら性愛のことを書いていました。当時から現在までずっと「本当の人間の姿が知りたい」ということがテーマです。今は、社会から零れ落ちた人たちだったり、声を上げられない人たちの苦しみと向き合い、それを社会に伝えたいという思いもあります。

誰もが孤独死する可能性のある社会

――DANROはひとりがテーマのサイトなのですが、菅野さんにとっての「ひとり」とはどのようなものですか。

菅野:今、「ひとり」であることについては、分断が起きていると感じます。中間層以上にとっては「おひとりさま」「ソロ活」がブームです。その一方で、孤独死の取材をしていると、コミュニティーや人のつながりから不本意にも撤退させられている人も多くいると感じます。経済的な面も多く、お金や社会的地位を持たざるものは、自然と人間関係から排除されがちです。

そういった人たちは、孤立や孤独をたしなむという余裕があるはずもなく、孤立が即「命の危機」へと繋がっています。

一度失業などをきっかけに孤立したが最後、誰とも関わりを持てずに、クーラーのないアパートに住まざるおえなかったり、ゴミ屋敷化して、体を壊して真夏の猛暑が原因で孤独死して、ハエやウジにまみれて、何週間も放置されているというのが、私たちの社会の現状です。

仕事があって楽しく過ごしていても、社会情勢の変化などでいつ、孤独に追いやられるのかわからない。私たちは、そんな日本社会の現実にもっと目を向けるべきではないでしょうか。

孤独死する理由は人それぞれですが、コミュニティーから弾かれて、孤立した状態になっていることが多々あると感じます。その結果として、長期間遺体が見つからない孤独死が起こるのです。

それは本人ではなく、私たちが生きている社会の側に明らかな問題があるということだと思います。これからも孤独死の現場を取材して、その背景に何があるのかを伝えていきたいです。

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