手芸なんかやって、意味あるの? 猟師さんの話から考えてみた

私は、先日の記事で書いたように、手芸の仕事をしている。

「手芸」とは、あなたのお母さんやおばあちゃんがやっていたかもしれない、マフラーを編んだり、刺繍をしたりするあの手芸だ。

私は、その手芸の関連企業にアドバイスする顧問をしたり、編み物の楽しさを伝えるワークショップで教えたりする仕事をしている。

そんな私のもとには、手芸をする多くの人たちから様々な話が集まってくる。その中で目立つのは「手芸なんかやって、意味あるの?」と言われた、という報告である。

「毛糸を買って帰ったら、家族が『ユニクロでセーターを買ってきたほうが安いだろうに』と呟いた」

「刺繍をしていたら、塾から帰ってきた子供に『お母さん、また遊んでるの?』と不満げに言われた」

そんな嘆きの声が、いろいろな人から聞こえてくる。

なぜお金と時間をかけて、手芸をするのか?

言われてみれば、確かにそうである。

今となっては、自分で編み物をするために毛糸の材料を買うより、大手アパレルで大量生産されるセーターやマフラーの既製品を買ってくるほうが安いことが多い。

その上、編み物を仕上げるには、結構な時間と手間をかけなければならない。さらに、結果として納得のいかないものが出来上がる場合もある。

はたで見ている人が「なんでそんなことをわざわざするのだろう」と疑問に思うのも、理解できなくはない。

手芸だけではない。

釣りや日曜大工などの趣味についても、同じようなことが言える。

わざわざ海や川に魚を釣りに出かけるよりも、スーパーで魚を買ってきたほうがお金がかからない。自分で材料を買って日曜大工をするよりも、家具店でテーブルや棚を買ってきたほうが、安く上がる。

釣りや日曜大工をするには、竿や大工道具も必要だ。それらの道具を買ったときに、「そんなものにお金をかけて、意味があるの?」と言われたことがある人も少なくないだろう。

もしくは逆に、家族にそういう「手間のかかる趣味に走る人」がいて、あなたは「無駄遣い」をたしなめる側になっているかもしれない。

どちらにせよ「その趣味って意味あるの?」という話である。

猟師さんの話を聞いてわかった「趣味の意味」

私のところには、そのような話がたくさん集まってくる。

だから、自然と「現代において手芸をすることに意味はあるのだろうか?」と考えることが多くなった。

そうすると面白いもので、「手芸する意味」を解き明かしてくれるようなエピソードが周りで起こり始めたのである。

その中の一つは、ある猟師さんから聞いた話だ。

その猟師さんは年上の知り合いで、月に何度も山に入っては、鹿や猪を鉄砲で撃って獲ってくる。

狩ってきた鹿の肉を料理して、食べさせてくれたこともある。非常に美味しくてびっくりした。

ジビエを扱うフレンチの店などとは違う、素朴な料理だった。なんというか、しっかりとした「食べ物」の美味しさに満ちていたのだ。

「ワシが鹿を撃ってる言うと『鹿がかわいそう』とかいう輩がおるけど、何も考えずにスーパーで肉買ってくるよりよほど健全じゃき」

猟師さんが鹿肉を焼きながら、そう話すのを聞いて、私は「へえ」と思った。

肉を食べたいとき、私はスーパーや精肉店で買ってくるが、その話からすると、私の行為は「不健全」ということになってしまう。

その意味を知りたくて、がぜん興味が出てきた。

猟師さんの話は続く。

準備をして山に入り、適切な場所を見つけて身を潜める。鹿が来たら鉄砲で撃ち、近づいてとどめを刺し、解体する。そういう段階を経て、やっと肉が手に入る。

それを聞きながら、私は「なるほどなあ」と思った。

肉が欲しかったら、本当はこれだけのことをしないと手に入れることができないのである。

生きている鹿を殺すことを含め、狩猟の各段階を自分の手でなしえている猟師さんが、何も考えずにスーパーで肉を買う行為を「不健全だ」と指摘するのは理解できる気がした。

それは、本来、自分の手でなすべき事柄をすっ飛ばして、都合よく結果だけを手に入れる行為だからだ。

近代の「便利」の裏で失ったもの

猟師さんが語った「狩猟」の話と「手芸」のあいだには共通点がある。私がそう気づいたのは、それからしばらくしてからのことである。

手芸は「自分にとって必要なもの」を獲得するために、材料を手に入れ、道具を選び、手間と時間を注いで、自らの手で作り上げる行為だ。

「自分が欲しい物を手に入れるために、必要な過程を自分の手でなしえていく」という意味で、狩猟と手芸は一緒なのだ。

かつて、私たちは、生きていくために必要な肉を手に入れるために狩猟を行い、身に着けるものを作り出すために手芸をしていた。それが普通だった。

しかし、社会が近代化して、あらゆるものが大量生産されるようになると、狩猟や手芸を自ら行わなくてもよくなった。その「必要な過程」を、自分で実行しなくてもよくなったのだ。

さまざまな製品の生産効率が上がるように、すべての生産にまつわる行為が切り分けられ、「分業化」していった。

自分は「仕事」として、他の人のために必要な過程を日々こなすことで、お金を稼ぐ。一方、自分の必需品や欲しい物を手に入れるために必要な過程は他の人に代わりにやってもらって、その対価としてお金を払う。

それが良い方法だと思って、皆でやってきたのである。

それはいわゆる「近代化」というもので、それによって、私たちは多くの利益を享受した。

しかし、それで全てが幸せになって万々歳だったかといえば、そういうわけではない。

極端な分業によって「何のためにやっているのかわからない仕事」を繰り返す日々が私たちの神経をすり減らし、時間とお金をひたすら交換しつづける生活が「生きる実感」を減らしている。そのことは、多くの人が実感しているだろう。

私たちは「近代化」によって、大事なことを失いもしたのだ。

それに気がついたとき、心のどこかで納得した。

わざわざ「手芸」をして手間やお金をかけるのはなぜか、という疑問に対して、答えがひとつ出せたような気がしたのだ。

「必要な物を自分で作り上げたぞ」という「誇り」

私たちは、手芸を通して「近代化」によって失ったものを取り戻したいのではないか。

「自分の欲しいものを手にするために必要な過程を自分でなしえていく」

そのこと自体が「生きる実感」として、私たちの身体に刻み込まれていくのではないだろうか。

私は、マフラーや帽子などを編んで完成させたときの充実感が好きだ。そのときの心をさらに探ってみると「自分に必要な物を自分で作り上げたぞ」という「誇り」が必ずある。

その「誇り」が近代で失われた「生きる実感」の一つなのだと、私は考えている。

「誇り」ではない、別の形の「生きる実感」もあることだろう。

そして、この話は手芸だけにとどまらない。

前述の狩猟や釣り、日曜大工など、同じ意味を持つものは他にもあるはずだ。

それらの「楽しさ」の奥には、自分に必要なものを自分自身の手で獲得していくという「生きる実感」が深く根ざしているのではないだろうか。

私は「ひとり時間」を過ごすとき、キノコを編むことが多い。

私が「編みキノコ」と呼んでいるそれらは、一見、いかにも役に立ちそうにないように見える。はたで見ている人がいたら「必要な物」とは思えないだろう。

ところがどっこい、これもきちんと「生きる実感」を感じさせてくれて、私はとても充実した時間を過ごすことができているのだ。

「その趣味って、意味あるの?」

なかなかどうして、深い意味があるんですよ。

私は胸のうちで、そう思っている。

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横山起也 (よこやまたつや)

編みキノコ作家。NPO法人LIFE KNIT代表。チューリップ株式会社顧問。株式会社日本ヴォーグ社「amimono channel」顧問・ナビゲーター。snow peak 「snow peak way」や手紙社「布博」など、さまざまなイベント・学校などでワークショップを開催。編み図なしで自由に編むスタイルの編物、「スキニ編ム」を提唱し、その理念のもと「編みキノコワークショップ」を展開。それら活動は NHK Eテレ「明日も晴れ! 人生レシピ」(2017年12月1日20:00~20:45 放映回)にて特集された。

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