吉田類さんと酌み交わす「8軒のはしご酒」 人情がしみわたる

東京・新宿のやきとり屋で=2011年春、吉田類さん提供
東京・新宿のやきとり屋で=2011年春、吉田類さん提供

『酒は人の上に人を造らず』と題された紀行エッセー(中公新書)が著者から贈られてきたのは今年1月だったか。人気テレビ番組「吉田類の酒場放浪記」でおなじみのイラストレーターで俳人・エッセイストの吉田類さんからだった。本を覆うように巻かれた帯に、類さんの句が載っていた。

「痴に聖にきみほろ酔うてうららなり」

ぱらぱらと頁を繰る。「ハイボールは下町ロケットに乗せて」と題された章に、こんな一節があった。

「知人のK記者と二人で飲んだ後、カウンター上に列をなした炭酸水の空き瓶に気付いて噴き出したことがある。いったい何ケース分の本数だったろうか。下町ハイボールの似合う時季となったら、また出かけてみたい」

類さんらしい気配りで「K記者」とだけ書かれていたが、小生のことである。たしかに酩酊したが、飲んだ場所はきちんと覚えている。東京・葛飾区。堀切菖蒲園駅近くにある「小島屋」だった。ガス圧の強い炭酸水で割る焼酎ハイボール(酎ハイ、「ボール」という符牒もある)を飲んだ夜である。手帳を見たら13年前の2005年。1月だった。

類さんから教わった土佐流の飲み方

類さんとはあちこちで飲んだ。懐かしいのは「酒場放浪記」の放送が始まる前年の02年。一緒に、夕暮れ色に染まり始めたネオン街へ繰り出し、モツ焼き酒場をはしごした。東京タワー近くの老舗からスタートし、東京東部地区のディープゾーンに。千鳥足で向かった最後の8軒目もモツ焼き屋だった。

「義理で飲む酒はおいしくない。人情がしみわたるからこそ、さあ次の店へ、と繰り出してしまうのですね」と類さん。

故郷・土佐流の酒のつぎ方を教わった。「返杯(へんぱい)」といい、つがれては飲み干し、つぎ返す。それが延々と続き、空になったとっくりが横倒しに並ぶ。とっくりの注ぎ口も大切。少しずらして丸いところで注がないと「縁が切れる」といってよくないそうである。

「酒と俳句は人生の伴侶」と類さんは言う。それにしてもよく笑う。おいしい酒と郷土料理をまじえて快活に話す姿を見ると、南国の風土が育てた豪快さを感じる。純米酒の入ったグラスの向こうには、キラキラと輝く太平洋、青空が広がっているにちがいない。

さて、「8軒のはしご酒」と書いたが、類さんの記録は1日14軒。エッセイストの坂崎重盛さんと朝9時から夜11時半まで延々飲み歩き、13軒目の店で「じゃあ」と言って別れたという。だがそのあとに新宿ゴールデン街で、締めに野菜を食べて飲んで帰ったそうだ。「健康的な飲み方でしょ」と類さんは言う。重盛さんも神楽坂のビアバーに1軒寄って帰ったという。さすが酒場巡礼のカリスマ同士。2人は翌日も合流して飲んだそうである。

実はあの日、私の携帯が鳴った。類さんからだ。「いま、重盛さんと浅草(ホッピー通り)にいるんだけど……」。あいにくどうしても外せない仕事があり、合流できなかった。参加したら私のはしご酒の記録も更新されたかもしれない。そういえば重盛さんが言っていた。

「こんな飲み方は、あまり利口な人はやらない。でも単なる馬鹿でもできない。気力と体力がないと」

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小泉信一 (こいずみ・しんいち)

1961年生まれ。朝日新聞編集委員(大衆文化担当)。演歌・昭和歌謡、旅芝居、酒場、社会風俗、怪異伝承、哲学、文学、鉄道旅行、寅さんなど扱うテーマは森羅万象にわたる。著書に『東京下町』『東京スケッチブック』『寅さんの伝言』など。

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