ビートたけしも卒業した「ストリップ界の東京大学」 浅草フランス座

艶やかな踊りが人気を呼んだ(イラスト・古本有美)
艶やかな踊りが人気を呼んだ(イラスト・古本有美)

今回は、歴史の授業ではあまり紹介されることのない話をしよう。寄席や劇場が並ぶ東京・浅草の六区興行街。現在の浅草演芸ホール(台東区浅草1丁目)が立っている場所にあったのがストリップ劇場「浅草フランス座」である。

開業は昭和26(1951)年。鉄筋3階建て。客席400席。フルバンドが入るオーケストラボックスもあり、当時の日本では最大級のストリップ劇場だった。

都会的で洗練された踊りが人気を呼んだ。専属の文芸部もあり、のちに作家として大成する井上ひさしさんも所属。「フランス座はストリップ界の東京大学」と称賛していた。その言葉は、幕あいのコントを演じた芸人たちの名を挙げただけでも納得できよう。渥美清、萩本欽一、坂上二郎、八波むと志、東八郎(東貴博のお父さん)、ビートたけし……。

同じ浅草には、作家の永井荷風が通い詰めた「浅草ロック座」(昭和22年開業)もあった。ライバルのロック座は純日本風の踊りが主体だったという。

さて、踊り子さん。当時は「ヌードさん」と呼ばれていた。裸といっても、乳首は出さない。それぞれの踊り子さんが自作した飾りをつけた。布を小さく切り、立体的に裁断・縫製した。丸形、星形、ハート形……。羽根をつけたり、キラキラ光るモールを使ったりする踊り子もいた。

だが激しく揺れると、舞台の上でポロリと落ちる。米粒で作った糊で貼っても万全ではなかったそうである。

人間くさい世界だった昭和の浅草ストリップ

下半身には「ツンパ」(パンツの逆さ言葉)をつけた。三角形の布のこと。細くて丈夫なテグス(釣り糸)で腰に装着し、前を隠す。「ただの三角形では面白くない」と、蝶の羽のような形にしたり、ラメで輝くようにしたりと、あの手この手で客を魅了した。後ろから見ると、何も装着していないように見えた。

おへそとツンパの距離が離れていればいるほどヌードさんの給料は上がったそうである。着衣面積と給料とは反比例の関係にあった、と言えるだろう。

笑ってしまうのは、わざとツンパを落とす踊り子がいたこと。その瞬間、「待った、待った!」と舞台に駆け上がる警察官。ヌードさんは「文芸部のお兄さんから、裸になれと命令されました。私は絶対に嫌だったんです」と泣き顔で訴える。結局、ひと晩、留置場に泊まるのであるが、こうしたハプニングが新聞のネタになり、「もしかしたら、見えるのではないか」と翌日はヤジ馬が集まって大入り満員になったという。

何とも牧歌的でほほえましい話ではないか。歴史の主人公は偉い政治家だけではない。庶民の哀感も忘れてはいけない。

おもしろい芸名の踊り子もいた。「ハニー・ロイ」は「いろはに」をひっくり返した芸名。きれいなもち肌で人当たりもよく、誰からも好かれる人柄だった。凝った芸名もあった。ヴァイオレット式部は、あの紫式部に由来している。伝説の踊り子、ジプシー・ローズもいた。版画家の棟方志功が「ジプシー・ローズの肉体は神である」と絶賛したが、晩年は山口県防府市で酒場のマダムに。体を壊し、30代で亡くなったという。

人間くさい世界だった昭和の浅草ストリップ。舞台にたらいを持ち出し、じょうろで水を浴びせる「行水ショー」や、客席の上に設置したレールをヌードさんの乗ったワゴンが走る「裸女空中飛行」というショーもあった。あのころの浅草を取材したかったなあ。筆者はつくづくそう思う。

追記)浅草フランス座は惜しまれつつも1999(平成11)年に閉館。現在は漫才やボーイズなど色物芸を中心とした「浅草フランス座演芸場東洋館」になっている。ロック座は今もある。

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小泉信一 (こいずみ・しんいち)

1961年生まれ。朝日新聞編集委員(大衆文化担当)。演歌・昭和歌謡、旅芝居、酒場、社会風俗、怪異伝承、哲学、文学、鉄道旅行、寅さんなど扱うテーマは森羅万象にわたる。著書に『東京下町』『東京スケッチブック』『寅さんの伝言』など。

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