ナイチャーが掘り起こす「沖縄差別」(沖縄・東京二拠点日記 25)

上空にはいつものように米軍ヘリ
上空にはいつものように米軍ヘリ

どこの馬の骨かわからない、それもナイチャー(内地の人間)の記者が、聞かれたくもない「アンダーグラウンド」の話を聞きに来ることを、きっとほとんどの人はうっとうしいと感じたと思う。

沖縄は狭い社会だ。ぜったいに家族や親戚縁者などにバレないように売春で生活の糧を得てきた女性たちや関係者が警戒をするのは、当たり前だ。

逆に考えると、ぼくが沖縄という社会の外側から来た人間だったことが幸いした面もあったのではないかとも思う。

そして、繰り返すが、売買春の街に関わってきた人の一部が、街が「浄化」運動という市民と行政が一体になった圧力でつぶされてしまったことに憤りを感じていて、せめて、それを誰かが記録しておくことに賛意を示してくれたのだと思うのだ。

こう書くと何やらセンチメンタルな感じもするが、足をつかって「数」をこなしたからこそ、そういう人々に出会えたと思う。効率的な「出会い」はノンフィクションの取材にはない。

こんなハプニングがあった。ある夜、友人とある売買春街で飲んでいた。何軒もはしご酒をした。友人はその街のすぐ近くで生まれ育った。クルマで来ていたから、代行を呼んだ。代行が予約できた時点で、ぼくはタクシーで帰った。

すると翌日、友人から慌てたかんじの電話があった。聞けば、彼は駐車場に停めておいたクルマの中で代行を待つうちに、寝入ってしまったというのだ。そのうえ、寝入っているうちに財布をすられてしまったらしい。

泥酔すると何をしても起きない男であることはぼくも知っていたが、まさか、財布をすられるとは。しかし、彼は「もしかしたら、藤井さんと別れたあとに、どこかのスナックか売春店に入ったかもしれない」と言う。

たしかにその可能性もある。泥酔して置き忘れているのかもしれない。ぼくはすぐに彼と合流し、駐車場周辺のスナックや売春店等、数十軒をたずねてまわった。「昨夜、この男が来ませんでしたか?」と、入店しては、ぼくはその友人の顔を指さして聞いた。

けっきょく立ち寄った形跡はなかったが、そこでかつて記事のコピーを渡した女性に偶然、出会った。スナックで働く女性は同じ街で店を渡り歩くこともある。その女性は「まだ取材をしているの?」とあきれた顔をしていたが、そのあとにいろいろなかたちで協力をしてくれることになる。「数」をこなすことが、逆に偶然を呼び寄せることがあるのだと思う。

地味で無駄に見える取材が基本

取材中、危険な目にはあわなかったのかとよく聞かれるが、それはほとんどなかった。

一度、どこかの飲み屋で沖縄の裏社会に通じている某会社の社長と会う機会があった。そのとき社長はかなり酔っていた。普段は温厚な人柄なのだが、ぼくが取材テーマの話をしたら、いきなり顔つきが変わり、「そんなことをしたらタマとられるぞ、おまえ」とすごまれた。ぼくがヤクザと売春の関係をあばくようなスキャンダル記事を書こうとしていると勘違いしたらしい。

取材のときはたいがい朝方まで飲んでいたし、酒量もかなりのものだった。翌日は夜まで身体がつかいものにならないぐらいの二日酔いのことが多かった。

若いうちは勢いがあるから乗り切れるかもしれないが、やはり40代半ばをすぎると徹夜で朝まで酒を飲むのは辛い。飲んで酔ってはいても、取材モードだから、どこかでアタマは冴えている、つまり緊張しているから、よけいに疲れたと思う。

しかし、ノンフィクションの世界ではぼくなど、まだ若造の部類だ。40歳を過ぎるとそういった手法の取材はキツいからしたくないという御同業もいて、書く分野を変えていく人もいる。しかし、そういう地味で無駄に見える取材がノンフィクションの基本だと思う。

一方で、誰もまだ触っていない、記録していない鉱脈を触っている感覚は何ものにもかえがたいものがある。この状況や歴史を記録して、すこしでも社会に伝えなければ、という思いも強かった。

さきほどの鬱病に罹患した元売春女性に会ったときも、強くそう思った。自分がやらねば誰がやる、という多少、青くさい思いかもしれないが、この問題は現在の辺野古問題等ともすべてつながっている。長年続いてきた沖縄「差別」の実態だ。

ついでに言えば、ぼくは経済的にもラクではなかった。稼いだカネはほとんどこの本を書くための取材につぎ込んでいたから。最終局面で担当者の石井が提案して実行してくれたクラウドファンディングでおこなった、数十万円の取材費調達はほんとうに助かった。

ぼくは、いわばヤマトから来た「まれ人」だったわけだが、時折、「なぜ、こんなテーマを取材するのか」と聞かれた。とくにぼくより年上の70代の方に質問された。

戦後、沖縄がアメリカや本土から踏みにじられてきた歴史の徒花のような存在として、ぼくが取材をした「消えた」売買春街は生き長らえてきた。その街を描くことは、沖縄で生まれ育った人々の傷口をえぐるような面もあったと思う。

自分にとって沖縄とは何かというような問いかけが時折、浮上してきた。沖縄に寄り添う、というのは言葉として言うのは簡単だが、できれば使いたくない。自分にとって沖縄は何かという自問自答に答えはないと思うが、歩きながら考えるという行為はやめないつもりだ。

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