江戸城の「富士見櫓」をめぐるミステリー。江戸時代のものか、復元か?(ふらり城あるき 11)

皇居一般参観で富士見櫓の前を歩くツアー客(2021年11月30日撮影)

「私も中から外を覗いてみましたが、富士山は見えなかったです。今は東京にビルがたくさん立っていますのでね」

皇居一般参観のツアーの最中、ガイドを務める宮内庁の男性職員がマイクを通してそう言いました。

丸ノ内のビル群を後ろに従え、高さ15メートルの石垣の上に3階建ての櫓(やぐら)がそそり立っています。江戸城の「富士見櫓」です。数十人のツアー客が夢中で写真を撮っていました。

その名の通り、かつては富士山がよく見えたそうです。歴代将軍はこの櫓から両国の花火や富士山を眺めて楽しんだと伝わっています。

江戸城の天守は、1657年の明暦の大火で焼失して以降、再建されませんでした。富士見櫓もこのとき焼失しましたが、2年後に再建。江戸城の「天守の代用」として使われていました。

富士見櫓の高さは16メートルで、これは彦根城や宇和島城の天守とほぼ同じ。どの方角から見ても立派なことから「八方正面の櫓」とも呼ばれていたそうですが、やはり櫓は石垣の上に立っている姿が一番格好いいなと実感します。この姿を見たくて11月30日、私は休日を利用してツアーに参加したのでした。

一般参観のツアーは、新型コロナの感染拡大の影響で半年間中止していましたが、今年6月から人数を減らして再開。午前と午後の2回、計120人の定員制でした。

私は午後の部を選択。午後0時半に桔梗門の前で整理券をもらい、その1時間後、桔梗門をくぐった先にある休憩所からツアーに参加しました。

関東大震災で何があったのか? 富士見櫓をめぐるミステリー

皇居内にある富士見櫓(2021年11月30日撮影)

「加藤清正の手による石垣は関東大震災でも全く損壊しなかったんです」と、富士見櫓の前で職員が誇らしげに言ったところで、少し心の中がざわつきました。事前に仕入れた情報によると、富士見櫓は関東大震災で大きなダメージを受けたとされ、その点が気になっていたからです。

図書館で下調べした際に読んだ書籍では、富士見櫓について、以下のように書かれていました。

「関東大震災で倒壊しているが旧状通りに復元された」
 (『図説江戸城―その歴史としくみ』学研プラス)

「現在の建物は関東大震災により倒壊した後、万治2年(1659)当時の古い建材を主要部材に用いて復元したもの」
 (『皇居』JTBパブリッシング)

今回、ガイドから関東大震災での櫓の被災についても説明があるだろうと思っていたのですが、特に説明はなく、足早に次の場所へ移動していきました。

一般参観のツアー客に渡されたパンフレットを見ても、富士見櫓については「江戸城の遺構としては最も古いものに属する三重櫓で、万治2年(1659年)の再建である」と記されているだけです。関東大震災については触れていません。

私は、思った以上に立派な櫓を見て感動しながらも、混乱していました。

今、目の前にある建物は江戸時代の貴重な遺構なのでしょうか。それとも大正時代に一度倒壊したあと、元の姿とそっくりに復元されたものなのでしょうか。

思い切ってガイドに聞いてみるが、まさかの回答

「ここで一般参観は終了です。皆さん、お疲れ様でした」

ガイドの男性がアナウンスしました。ここを逃すと、もうチャンスはありません。私は思い切ってガイドの男性に質問をぶつけてみました。

「関東大震災で、富士見櫓が倒壊して復元された、と本で読みました。そんなことがあったんですか?」

すると、男性は淡々と答えました。

「石垣は無事でしたが、建物が震災で損傷して修理したことは確かです。ただ、どれくらいのダメージだったのか、どこまで直したかまでは分かりません」

まさか、宮内庁の職員でも分からないとは……。

午後3時近くなり、日は傾きかけていました。この日は、1歳になる娘の保育園のお迎えにいく予定がありましたが、まだ少し時間があります。私はもう少し、富士見櫓の謎を探ってみることにしました。

北側から見るとシンプルな姿。パネルには被災当時の写真が

大手門から旧江戸城の本丸に入るルートは、一般参観と違って誰でも自由に入ることができます。このルートをたどって、問題の富士見櫓を、先ほど見た南側からの眺めとは反対側の、北側から見てみることにしました。

大手門を通過し、坂を上って本丸を歩くこと20分ほど。富士見櫓は木々の間にひっそりと立っていました。こちら側から見ると、破風もないシンプルなつくり。「八方正面の櫓」という呼び名に違和感を覚えるほどの寂しい姿でした。

北側から見たシンプルな姿の富士見櫓(2021年11月30日撮影)

富士見櫓の前には柵があって、中に入れません。周囲には案内用パネルが何枚か立っているのですが、その中に興味深いものがありました。「富士見櫓の修理」というパネルです。そこには関東大震災で屋根が崩れ、壁に穴があいた痛々しい姿の富士見櫓が写っていたのです。

関東大震災で被災した富士見櫓の写真(案内パネルを2021年11月30日に撮影)

案内パネルにはこう書かれていました。

「関東大震災により、外壁の剥落や瓦の破損がありました。大正14年(1925年)に行われた修復では、柱や梁を筋交い等で補強し、土壁・漆喰仕上げをモルタル下地・白セメント仕上げに替え、屋根瓦の修理を行いました」

さらに富士見櫓は、戦後にもう一度、修復されているそうです。1968年の皇居東御苑の一般公開にさきだって、1966〜67年に修理されました。ここで白セメント仕上げだった外壁は漆喰仕上げに戻されたとのことです。

このパネルの記述を読む限り、富士見櫓が関東大震災で被災して、2年後に大規模な修復工事があったのは確かです。しかし、複数の本に登場する「倒壊して復元」という記述はなく、「外壁の剥落や瓦の破損」という記述に留まっています。

たとえば、福井県の丸岡城の天守は1948年の福井地震で倒壊。7年後に当時の建材を使って再建されたものですが、国の重要文化財に指定されています。

富士見櫓が倒壊後に再建されたとしても、江戸時代の建材を使っているのであれば「修復はしたが江戸時代のもの」であり、史跡としての価値は充分にありそうです。

しかし、壁がセメント製になったという記述もあることから、江戸時代の状態から大規模に改変されている可能性もあります。その場合、富士見櫓は江戸時代のものではなく「大正時代以降に過去の姿に復元されたもの」となり、史跡とは言えなくなります。

真相は一体、どちらなのでしょうか。

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