「ご先祖様」の鉢形城に行ってみた。ルーツをたどるつもりが、想定外の結果に(ふらり城あるき 1)

安藤家に伝わる家系図。初代が「藤田政重」という武士だったと言い伝えられている。

電車に揺られて「ご先祖様の城」へ

僕が小学生くらいの頃に、祖父がこんなことを言っていました。

「安藤家の先祖は、藤田政重(まさしげ)という武士だった。戦国時代に鉢形城という城で筆頭家老を務めていたんだ」

ご先祖様は侍だったと聞いて、何だか誇らしげな気持ちになったのを覚えています。今回、「DANRO」の亀松太郎編集長から「古城めぐりをしてみないか?」と提案されたとき、二つ返事で引き受けたのも、鉢形城に行ってみたいという思いがあったからでした。

東京・池袋駅から東武東上線に乗りました。田園地帯を眺めながら1時間半ほど電車に揺られていると、終着の寄居駅です。

埼玉県北西部の寄居町は、「日本一暑い町」としても知られる熊谷市のすぐ近くです。4月下旬だというのに、最高気温は28度近くまで上がり、初夏の様相を呈していました。汗をぬぐいながら駅から15分ほど歩くと、長さ150メートルもある鉄橋「正喜橋(しょうきばし)」に着きました。

正喜橋から見た鉢形城跡(2018年4月21日撮影)

橋の下に広がるのは、「玉淀(たまよど)」と呼ばれる美しい光景でした。幅数十メートルもの石畳の上を、秩父山地から流れこんできた荒川がゆったりと流れています。

荒川の向こうに、高さ20メートルほどの断崖がありました。こんもりとした林が広がっています。これが、戦国時代に激戦の舞台となった「鉢形城」の跡です。ここはかつて、関東でも有数の巨大城郭でした。

鉢形城は荒川と深沢川が合流する三角地帯に築かれました。東西の幅は800メートル近く。峡谷に挟まれてない部分は、何重もの堀と土塁で守られていました。まさに「難攻不落の城」という言葉がぴったりです。

前田利家らに攻められて落城

往年の鉢形城を再現したジオラマ。鉢形城歴史館にて撮影。

鉢形城は1476年ごろ、山内(やまのうち)上杉氏の家臣・長尾景春(かげはる)によって築かれたと言われています。1560年ごろには後北条氏の一族である北条氏邦が入城して、城を拡充しました。今、残っている城跡の大部分は北条氏邦の時代の拡充工事で出来たと考えられています。北条氏邦は埼玉県の秩父地方だけでなく、群馬県の前橋・沼田周辺まで支配し、石高は78万石に上ったと言われています。

そんな鉢形城にも運命の日が訪れます。1590年、豊臣秀吉が後北条氏を討伐するために小田原城に進軍した際に、鉢形城も攻められました。前田利家ら約3万5000人の軍勢に囲まれたのです。守備隊3000人は奮戦しましたが、10倍以上の兵力差では太刀打ちできません。わずか1カ月ほどで、城を明け渡しました。鉢形城はこうして廃城になったのでした。

僕の先祖の藤田政重は鉢形城の落城後、現在の嵐山町に落ちのび、そこで農民になったと伝えられています。この広大な城跡で、かつてご先祖様が戦っていたのかと思うと、ワクワクしてきました。しかし、その数十分後、私は意外な事実を知ることになったのです。

ご先祖さまの名前が見当たらない

鉢形城歴史館で見せてもらった郷土資料。家臣団に藤田政重の名前はなかった。

「藤田政重……という名前は出てきませんね」

鉢形城の外曲輪(そとぐるわ)にある「鉢形城歴史館」で、学芸員の女性は当惑した様子で語りました。

鉢形城の家臣団の名簿「鉢形北条家臣分限録」を、資料室で見せてくれたのですが、ご先祖様の名前はどこにもありません。学芸員の女性は「江戸時代に作成されたもので、全ての家臣を網羅しているとは、言い切れません」とフォローしてくれました。でも、他の資料にもやはり「藤田政重」は見当たらなかったのです。

あとで藤田氏という一族について、国会図書館で詳しく調べてみました。藤田氏は、もともと鉢形城に隣接する花園城を本拠地として、秩父地方を支配していた豪族で、山内上杉氏の重臣だったそうです。しかし、山内上杉氏が1546年の「河越野戦」で後北条氏に完敗すると、今度は後北条氏に臣従することになりました。

藤田氏は秩父地方の支配権を後北条氏に奪われた格好です。僕の先祖である藤田政重も、藤田氏の一人だったようですが、後北条氏に重用されたのが事実かは確認できませんでした。藤田氏は歴史資料が極めて少ない「謎の一族」だったのです。

ともあれ、歴史館の資料は、「ルーツの城」で思いを馳せるという筋書きで考えていた私にとって、ショックが大きいものでした。夕暮れが迫っていました。あわてて広大な鉢形城跡をめぐりましたが、徐々に足取りが重くなっていくのを感じました。

城跡を歩いて気になったこと

歴史館を出て鉢形城跡を歩き回りました。戦国時代有数の城郭は、今、どのようになっているのでしょうか。

深沢川の橋を渡ると、巨大な土塁が見えてきました。一般的な城のイメージと違って、関東の城郭に石垣はほとんど使われていません。土塁と空堀でできた「土の城」が特徴です。

鉢形城は一部に石垣はありますが、それでも「地味な城跡」です。しかし、二の丸、三の丸の広大な野原を歩き、複雑に折れ曲がった堀を眺めると、戦国時代の難攻不落の城郭が脳裏に浮かび上がってくるから不思議なものです。

ただ、一点、気になったことがありました。どれが復元されたもので、どれが戦国期から残る遺構なのかが、恐ろしく分かりにくいのです。

「伝秩父曲輪」の石積土塁と城門。いかにも城っぽいが、平成に入って復元したもの。
「二の曲輪」の堀。右側の土塁は、あえて「低く復元」したという。

鉢形城は1997〜2001年にかけて発掘調査が実施されました。その調査結果を元に一部の城門や馬出、石積土塁、空堀などが復元されて史跡公園になっているのです。「きれいに残っているなあ」と感心して、ふと横を見ると案内板に「復元したものです」と書いてあることが、何度もありました。

「二の曲輪の土塁は、高さが不明であることから、位置を示すことを目的に低く復元しています」

この文章を見た時は目を疑いました。位置を示すのが目的なら、ロープを張るなり花壇を設置するなり、他にも方法があります。不完全な土塁をわざわざ設置することに、どれだけ意味があるのでしょうか。

「三の曲輪」の堀。古来の遺構とみられるが、木で覆われていた。

一方で、古来の土塁や空堀と見られる部分には、案内板が設置されていません。野草や木々が生い茂り、どちらかというと荒れています。昔のままで残っているものにこそ、むしろ解説が欲しかったです。

鉢形城跡で観光資源にしたいのは「発掘調査して復元した見栄えのいい部分」なのでしょう。ありもしない天守閣をでっちあげるよりはマシですが、寂しい気分になりました。

堀も土塁も城門も、復元したところで地味なのは否めません。城跡で出会った地元の女性は、こんなことを言っていました。

「去年に手術してから、健康のためにウォーキングしているんですよ。城跡と言っても、ほとんど何も残ってないから観光客も少ないですが、ゆっくり歩けていいですよ」

本丸の跡は小高い丘になっていて、寄居の町の向こうの山々に、ちょうど夕日が沈んでいくところでした。眼下に広がる荒川の川面がキラキラと光っていました。家臣団の名簿にはなかったけど、もしかしたら僕のご先祖様も、400年以上前に同じ光景を見たのかもしれない。

当初予想していたのとは少し違う城跡散歩になったけど、そう考えると少しだけ報われたような気がしました。

本曲輪から眺めた夕日

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