関東随一の櫓門があるのに「土浦城」はどこか寂しげだった(ふらり城あるき 9)

土浦城跡に残る太鼓門。関東地方で唯一の現存する櫓門だ(2018年1月31日撮影)
土浦城跡に残る太鼓門。関東地方で唯一の現存する櫓門だ(2018年1月31日撮影)

延々と続いていた郊外の住宅地は、取手駅を越えた辺りで、広大な田畑へと変わりました。どんよりとした曇り空の下に、灰褐色の乾燥した地面が広がっています。春になれば美しい緑色の田園風景になるのでしょう。

日暮里駅からJR常磐線で約1時間。ボックスシートで足を伸ばしていると、土浦駅に着きました。人口約14万人の土浦市は茨城県南部の中核都市です。霞ヶ浦の港町や水戸街道の宿場町として栄えた歴史があり、ワカサギやレンコンの名産品で有名です。ここにある土浦城跡に行くのが、今回の旅の目的です。

太鼓門の立派な姿

土浦駅の西口改札から15分ほど歩くと「亀城(きじょう)公園」に到着です。亀城とは土浦城の別名。堀に囲まれた城の姿が、水に浮かぶ亀に見えたことが由来と伝えられています。江戸時代には、霞ヶ浦に面した三角州の1キロ四方ほどに、無数の水堀と土塁が張り巡らされた壮大な水城(みずじろ)でした。

明治以降に市街地化が進み、堀は埋め立てられ、土塁は崩されました。本丸周辺などが亀城公園として、わずかに遺構が残っています。

亀城公園の案内看板より。広大な城域のうち、中央部にある本丸周辺だけが公園になっている。

亀城公園のシンボル的な存在が、本丸の入口にある太鼓門です。小ぶりですが、漆喰に瓦葺きの入母屋造(いりもやづくり)。かつては時を知らせる太鼓が内部に設置してあったそうです。

江戸初期の1656年に作られたもので、関東地方で唯一の現存する櫓門(やぐらもん)です。いかにも城門らしい立派な姿。これが見たくて、わざわざ来た甲斐がありました。茨城県指定文化財になっています。

土浦城には、天守は元々ありません。水堀の上に浮かぶ2つの櫓が、本丸御殿を守る目的で、東西に睨みを効かせていました。

東櫓は明治時代の火災で失われ、西櫓は1949年のキティ台風で被害を受けたことで解体されました。もったいない気がしますが、戦後まもなくの時期で、修理する予算もなかったのでしょう。

これらの櫓は平成期に入ってから復元されたことで、往事の土浦城の姿を偲ぶことができます。本来の史跡である太鼓門より立派に見えるのが、若干皮肉です。土塁や堀も明治以降に公園化するなかで改変され、当時のものはほとんど残っていません。

1998年に復元された東櫓。土浦市立博物館の分館になっており、太鼓櫓にあった太鼓など土浦城に関する展示がある。
1991年に復元された西櫓。昭和期まで現存していたが、キティ台風で被害を受けたことで解体された。

公園内の広場は閑散としていましたが、散歩中の初老の男性がいました。

「城跡と聞いて来たんですが、あまり残ってないですね」と声をかけると、「あぁ、昔からここはそんな感じだよ」と、そっけない様子です。

古びたブランコなどの遊具が並んでいるのを尻目に、小学生くらいの子供たちがTVゲーム機の「Nintendo Switch」で遊んでいました。

遊具には目もくれず、Nintendo Switchで遊ぶ子供たち。

土浦城の歴史

土浦城がいつ築かれたのかは、はっきりしていません。戦国時代中期の1516年には常陸国(現在の茨城県)の南部を治めていた小田氏の家臣が攻め取ったという記録があるので、それ以前にはすでに築城されていたのでしょう。

小田氏は豊臣秀吉の小田原城攻めに参加しなかったことを理由に所領を没収され、江戸に移った徳川家康の支配下に置かれました。江戸に近いこの地は、親藩の松平氏や譜代大名の居城となり、近世城郭として生まれ変わりました。江戸時代初期に土屋氏の9万5000石の所領となり、常陸国では水戸藩に次ぐ大きな領地を治めました。

江戸時代の土浦城本丸を再現したジオラマ。木橋の向こうにあるのが太鼓門(土浦市立博物館で撮影)

明治時代に入ると、土浦城内の多くの建物が破却されました。新張郡役所として使われていましたが、1932年の役所移転を契機に亀城公園となりました。西櫓が解体されたことでも分かるように、城跡としては重視されなかったようです。

防御を重視して、幾重にも屈曲していた土塁は直線に変えられ、公園内の各地に石垣が新築されました。もともと土浦城は土塁の城で、石垣はなかったのですが、「城といえば石垣」という思い込みが公園関係者にはあったのでしょうね。ミニ動物園としてニホンザルの檻も設置されました。

土浦市立博物館で見つけた謎のゆるキャラ「亀城かめくん」のぬいぐるみ。亀の甲羅に生えた櫓と太鼓門がシュールだ。

コンビニがない。シャッター街が続く土浦の悲哀

公園周辺で撮影を続けていると、ポツポツと雨粒が降ってきました。そういえば天気予報では夕方から雨が降るということでした。あわてて土浦駅に向かいながら、コンビニを探しましたが、不思議なことに一軒も見つかりません。昔ながらの写真店や床屋さんなどの昭和の香りがする商店はたまに見つかるものの、商店街の多くは平日なのにシャッターを閉ざしていました。

亀城公園の近くにある商店街はシャッター街になっていて、営業している店は少なかった。

駅の近くで雑貨店に駆け込み、ビニール傘を買いました。「亀城公園に行ってきたけど、コンビニがなくて焦った」と話すと、店員は「城跡のあたりはあまりお店がないね。コンビニも駅前以外は少ない」と寂しげです。駅前にある書店でも「土浦駅前以外の商店街は閉まった店も多い。栄えている中心がつくばの方に移っちゃったから」という言葉を聞いて、やるせない思いになりました。

あとで調べてみると、土浦市の惨状が分かりました。2005年に「つくばエクスプレス」が開業したことで、秋葉原からつくば駅まで最短45分で結ばれました。そのことによって、茨城県南部の中心地が土浦市から、隣接するつくば市に移ってしまったのです。

常磐線の利用者は減りました。土浦駅の乗車人数は2000年度には1日あたり平均21507人だったのが、2017年度には16004人。7割程度になりました。その結果、土浦駅前に並んでいたデパートは消滅しました。1998年以降、西友、小網屋、マルイが次々と閉店。最後に残っていた大型スーパー「イトーヨーカドー」も撤退したのです。駅前にデーンとある土浦市役所が気になっていたのですが、イトーヨーカードー跡地の再利用でした。

駅ビル「ウイング土浦」も2008年に閉店。その後にできた「ペルチ土浦」もテナントの撤退が相次ぎ、2018年3月からは「プレイアトレ土浦」として再出発を図っています。今のところ2階より上にはテナントがほとんど入っていないですが、2019年内にはレストラン街などができるそうです。

東京に戻る前に、晩ご飯を食べるところを探したけど、駅周辺にあるのは飲み屋ばかり。駅ビルにもレストランが見当たらないのは弱りました。結局、ホームにある立ち食い蕎麦店で飢えをしのぎました。

土浦城跡も関東随一の城門が残っているのに、何とも寂しげな印象が拭えませんでした。つくばに賑わいを奪われた土浦の悲しみが、城跡にも影を落としていたのでしょうか。

駅前の丸井土浦店の跡地は、パチンコ店になっていた。

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