沖縄の「アンダーグラウンド」に生きる女性たちの声(沖縄・東京二拠点日記 5)
10年ほど前から続けている沖縄と東京の二拠点生活。毎月一人で那覇に行って、一週間ぐらい過ごし、また一人で沖縄を離れることを繰り返してきた。沖縄の暮らしを楽しみながら、沖縄で取材して原稿を書く。そんな日々を日記風に書きつづる連載コラム。第5回は、2018年の7月後半の暮らしぶりを紹介する。沖縄の売買春街に生きた人々の声を記録した『沖縄アンダーグラウンド』の出版を2カ月後に控え、それに関連する話が多くなった。
台風を避けて沖縄に来るのは難しい
【7月21日】 台風10号が那覇を直撃するという予報から目が離せない。毎年、夏は台風をうまく避けて沖縄に来るのは運次第というしかない。今日の午前便は欠航、午後の便も、長崎か福岡に着陸するか、東京に引き返す可能性があるという。
ただ、ぼくがチケットを買っていた便は夕方の便だったので、結局、台風が過ぎ去ったあとで、無事に飛んだ。那覇空港に着くと土砂降りの雨だった。そのまま安里の自分の部屋に直行し、買い置きしてあったレトルトご飯にレトルトカレーをかけて、晩飯にした。
沖縄はもはや「避暑地」である
【7月某日】 那覇は「涼しい」。すくなくとも、命に関わる酷暑が続く「沖縄県外」よりは過ごしやすい。この数年、沖縄は避暑地だと思う。真夏に40度を超えるような地域より、年間を通じて32度を超えない沖縄は、ほんとうに過ごしやすく感じる。
沖縄は晴天よりも曇り空のほうが多いと思うけれども、ちょうどいい。たしかに沖縄は南国だけど、いまは県外のほうが亜熱帯だ。
バルコニーで洗濯物を干していると、蝉の大合唱。この仕事場をつくるときはバルコニーから広がる緑が気に入っていたのだけど、いまは緑が伐採されて、低層の建物が建てられようとしている。緑があったときは蟬の声がすごかった。いまはずいぶん合唱もおとなしい感じになった。
新都心を歩けば公園はあるけれど、休める木陰がない。沖縄の移動はクルマ中心。散歩できるエリアはごく限られている。
涼しくなってから、ぶらぶらと散歩しながら若狭にある古書店「ちはや書房」に行って、取りおきしてもらっていた『沖縄県警察史』という大部な資料を買った。1万2000円。宮城から移住した店主の櫻井伸浩さんはじつに魅力的な棚と空間をつくっていて、本棚を見ているだけであっと言う間に時間が経ってしまう。
この若狭通りをさらに先にいくと、「波の上ミュージック」がある。「赤土」という那覇市・曙エリア出身のラッパーたちが経営するCDショップ。「赤土」は業界ではすでに全国区だが、そのショップには、沖縄に根を張りながら発信するラッパーたちの音楽が集められている。
長い歴史をもつ「遊女たちの街」の祭り
【7月某日】 9月4日に刊行されるぼくの本『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』(講談社)の舞台となっているのは、60年以上の歴史がある、宜野湾市の真栄原新町と沖縄市の吉原という二大売買春地帯だった街だ。
それに加えて、那覇にある辻と栄町などいくつもの特飲街(特殊飲食店街)や元特飲街に、物語の舞台はまたがっている。栄町では、いまだに数軒だけ「ちょんの間」が営業していて、地元では「旅館」と呼ばれる。
辻は歴史の長い遊廓地帯だったが、沖縄戦で全焼、その後はソープランドなどの性風俗やラブホテルなどが林立する沖縄最大の性風俗タウンとなった。古くは那覇の中心地だったところで、金城芳子の『那覇をんな一代記』(沖縄タイムス社)に詳しいが、老舗のステーキハウスなどが今も営業を続けている。
年に一度、辻で行われている「尾類(ジュリ)馬祭り」を見学したこともある。尾類とは遊女のことだ。かつては、実際に辻に身売りされてきた女性たちが練り歩いた。こんなに立派で艶やかになりましたということを世間に見せるための意味もあったというけれど、娘を辻に売った親たちは沿道の隅でこっそり見ていたという。
実際は人身売買で過酷な生活を強いられていたことは想像に難くない。「伝統文化」であると紹介されることが多いが、貧困を逆手にとった上流層の視線であることも、ぼくたちは知っておくべきだろう。
遊女の自殺も少なくなかった。辻の真ん中には遊女たちの共同墓地があり、尾類祭りはそこもふくめた域内の拝所(うがんじょ)をまわる。踊りを奉納するところもある。いまはもちろん、辻の性風俗で働く女性たちは参加しない。祭りは一時期、女性差別を是認するものだという抗議で中止になっていた経緯もある。
この日は、辻にある「ジョージレストラン」の前までとタクシーに告げて、あたりを久々に歩いた。といっても、店があった場所はいま、更地になっている。1954年創業のこの店は取り壊されてしまって、休業中だという。赤い格子柄のビニール製のテーブルクロスが懐かしく思えてきた。
米軍統治時代から続いていて、店内には本物のAサイン証が貼ってあった。Aサインとは沖縄がアメリカに占領されていた時代に、アメリカ政府が衛生基準を満たした店に発行した営業許可書だ。あの時代がかった内装はもう見られないけど、また再開してほしい。ハンバーグがまた食べたい。『沖縄アンダーグランウンド』の取材をしていた頃は、よくここで腹ごしらえをした。
昼間の辻は閑散としている。昼間から営業しているソープランドの客引きが「昼間は値段が安いから寄って行って」としつこい。
往来には老人の姿が目につく。最近、高齢者向けの施設が目につくようになった。辻の代表的な料亭だった「料亭松乃下」があったところも、いまは老人ホームになっている。
デートスナックからラブホテルへ向かう女性たち
沖縄の性風俗はもちろん、さまざまな形態がある。交渉次第で「連れ出し可能」というのがウリのいわゆるデートスナックは、繁華街にいまも点在する。ぼくは、風俗街で働く女性たちを送り迎えしているタクシードライバーの紹介で、そういった店にも出入りするようになり、そこで働く女性たちや界隈にいる人たちと知り合いになった。
デートスナックは、デリバリー性風俗の待機所にもなっていることが多くて、「仕事」がはいれば女の子たちは次々と店を出て行き、歩いてラブホテルへ向かった。そこで飲んでいると、髪を濡らしたままの女性か帰ってくる。だが、現在は警察の取り締まりが厳しくなり、ずいぶんその数が減った。
ぼくのような呑むだけの客の相手をしても、彼女たちは一銭にもならないから、うしろめたい気持ちに常につきまとわれながら、ビールや泡盛をちびちびと飲んだ。通ううちに店の経営者らとも親しくなり、もうけにならない客に酒を飲ませてくれた。店が暇なときは女性たちの暇つぶし相手になったのかもしれないが、ぼくはたぶん、うざったい客だったのだと思う。
ぼくは薄暗い店の安っぽいベッチンの布を貼ったソファに身をしずめて、彼女たちや彼らと酒を呑みながら話した。あるいは、彼女たちの「時間」に対価を支払って、ラブホテルやカラオケなど他人の耳目がないスペース、あるいは、ファミレスや居酒屋などで、話を聞かせてもらうようになっていった。
個人的に連絡を取り合うようになって、ぼくの仕事場に来てもらい、話を聞かせてもらうこともあった。彼女たちの言葉を記録しておきたかったからだ。