居酒屋で聴く「沖縄民謡」が身体に染み渡る(沖縄・東京二拠点日記 11)

那覇市内の市場の中にある居酒屋で沖縄民謡を味わう
那覇市内の市場の中にある居酒屋で沖縄民謡を味わう

10年ほど前から続けている、沖縄と東京の二拠点生活。9月中旬の沖縄は「安室ちゃんフィーバー」で沸いていた。一人の歌手の引退が社会現象となっていたが、特に彼女の出身地であり、引退コンサートが開かれる沖縄の盛り上がりは格別だった。ノンフィクションライターであるぼくは、そんな世間の大騒ぎをよそに、出版したばかりの新刊『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』のプロモーション活動に力を入れていた。

沖縄の若者に自信を与えた歌姫・安室奈美恵

【9月15日】 約1週間ぶりに、東京から沖縄へ。那覇空港に着いてタクシーに乗ったら、タクシーのドライバーが「今日は安室ちゃんのコンサートですごかったよ」と、いきなりしゃべり出した。

かつては沖縄の若い人が沖縄に自信をもつのが難しかったことや、安室奈美恵が「日本の歌姫」にまでのぼりつめたことで自信をもてるようになったこと。そして、彼女のルーツの多様性や、彼女を襲ったいくつかの悲劇などを話した。ドライバーの話に耳を傾けながら仕事場に着いた。

安室奈美恵さんへのメッセージが記されたポスター

荷物を解くと、栄町市場にある「おとん」に行って、沖縄の書店では9月11日に並んだばかりの新刊『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』の数冊にサインする。マスターの池田哲也さんは、ぼくが本を出すたびにサイン入りの本を置いて、売ってくれる。そうしたら、サインをした先から、店内にいた常連さんたちが買ってくれた。

池田さんが「追加して本屋で買ってくるので、後日、またサインしてよ」と言う。ありがたい。帰りに「ムサシヤ」に寄り、天才・野崎達彦さんがつくる檄ウマとんこつラーメンを食べて、帰還した。

【9月16日】 今日はジュンク堂那覇店で、琉球大学教授の教育学者、上間陽子さんと『沖縄アンダーグラウンド』の出版記念トークイベント。『沖縄アンダーグラウンド』と上間さんの著書『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』の共通項を探りながらの対話だったが、沖縄の貧困問題に焦点があてられた。

とくに子どもの問題。メディアでは基地問題がクローズアップされることが多いが、それに関連して、解決していかねばならない社会問題がたくさんある。とくに子どもの3割が該当するという貧困問題が優先課題だ。

トークイベントのあと、参加者の友人らといつものように栄町へ移動して、「下町ライオン」というセンベロ系の店で喉を潤す。友人の福島弘子さんが「トミヤランドリー」に行ったことがないというので、そちらにも行くことになった。福島さんは30年も沖縄に住んでいるが、南大東島と東京という二つのルーツを持っている。

沖縄にはさまざまなルーツを持つ人たちが暮らしている。だから、ウチナンチュ(沖縄人)とはなんなのか、ぼくはいまだによくわからない。

9月に出版された『沖縄アンダーグラウンド』

観光立県・沖縄が注力すべき「外国人観光客」サポート

【9月17日】 琉球朝日放送が『沖縄アンダーグラウンド』を夕方のニュースで取り上げてくれることになった。その取材で、かつて「沖縄の二大売春街の一つ」と呼ばれた真栄原新町を同放送の比嘉夏希さんと歩く。

撮影前に、真栄原新町で「ちょんの間」として使われていた建物を5年かけてリノベした、住居兼ギャラリーの「PIN-UP」を経営する許田盛哉さんをたずねた。5部屋もあった大きめの平屋の建物だ。ここを格安で借りて、ほぼ原形をとどめたままハイセンスな空間にしている。夜はお酒も飲める。『沖縄アンダーグラウンド』も置いて販売してくれている。

真栄原新町のギャラリー「PIN UP」の許田盛哉さん(左)と筆者

「この町の歴史を知らない人たちも多いから、読んで知ってほしい」と許田さんは言ってくれる。うれしい。そのあと、比嘉さんと一緒に町内を歩きながらインタビューを受けた。普天間基地のゲート前にも移動して、ぼくがこのノンフィクションをなぜ書いたのかを話し続けた。

【9月某日】 部屋から一歩も出ないで仕事をした。部屋を出たのは、ゴミの集積所にゴミを出しに行ったときだけ。沖縄にいても、誰とも話さない日がある。ネットのニュースで、沖縄に海外からやってくる観光客の人数がハワイを超えたことを知った。

これは、中国政府が沖縄に1回渡航すると何回も使えるビザを発行する政策をとったことが影響している。しかし、観光客の滞在日数と現地に落とすカネの額はまだハワイに負けている。

2000人規模の巨大フェリーが那覇港に入港しているのをよく見かける。巨大なビルのようで見上げてしまう。だが、観光や買い物を済ますと、観光客たちはご飯を食べるためフェリーに帰ってしまう。いろいろな理由があるのだろうが、地元の友人から聞いた話では、バスの利用の仕方がわかりにくいようだ。

「昼飯や晩飯は沖縄の地元の店で食べたい」あるいは「ちょっと那覇を離れたところでおいしいものを食べたい」と思ったとき、外国人の観光客はバスを使うことになる。

だが、どうやって乗車するのかなどがわからなくて乗車口でとまどい、中国語で運転手に質問したり、片言の英語でたずねたりするのだが、どうしても滞留してしまう。バスのドライバーはめんどくさそうな表情になることも少なくないだろう。その結果、日本語がわからない観光客はバスを使うのを避けるようになる。

観光立県というならば、そういう外国人をサポートするサービスの充実も必要だ。日本語が読めなくてもわかりやすい表記やガイドの配置など、できることはあるはずだ。沖縄は日本製品の買い物をするだけの場所になっていて、すばらしい観光スポットはスルーされてしまっている。

那覇市内を歩けば、いたるところでシーサーが目につく

沖縄の古き心を歌う民謡歌手の声に酔う

【9月某日】 朝飯で焼きそばをつくる。そのあとはずっと原稿を書いていた。夕方、晩飯を喰いに栄町へ出かける。向かう途中、バイクで移動中の写真家・石川竜一さんにばったり遭遇した。路肩にビッグスクーターを停めた石川さんと、しばらく話し込む。『沖縄アンダーグラウンド』の写真は、表紙も章扉もすべて、石川さんが撮ってくれたものなのだ。その御礼の会を開く約束をした。

栄町市場内の一角にあるスタンドバー「ソリアーノ」(ビールはヒューガルデンのホワイトのみで400円!)で、同い年の友人・じゅんちゃんと合流したあと、今夜は貸し切りにしてもらった居酒屋「おとん」へ。民謡歌手で畏友の大城琢に小一時間、ライブをやってもらうことになっている。

彼は昼間は精肉加工会社で働いているので、それが終わってから、12~3人が聴くミニライブだ。聴衆はみんなぼくの友人。琢ちゃんは「ヨー加那よー」「白曇節」「恋語れ」「御國ことば」「ナークニー~山原汀間当」「移民小唄」「時代の流れ」「唐船ドーイ」など古い民謡を演奏した。

そのあと、三線(サンシン)をアコギに持ち替え、山之内漠の詩を高田渡の「生活の柄」に乗せ変えて歌うサプライズ。芸達者とは、琢ちゃんみたいな人のことを言う。久々にプロの生歌を聴いたが、やはり沖縄民謡の音階はぼくの身体に染みる。琢ちゃんの裏声がかすかに震えるビブラートも心地良い。

ライブ後、琢ちゃんと12時ぐらいまで「おとん」のカウンターで呑んだ。

民謡歌手・大城琢。この日はギター演奏も披露した

思えば、琢ちゃんとの出会いも古い。ぼくが沖縄民謡にハマって、嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう)さんのアルバム(竹中労さんプロデュースの二枚組)ばかり聴いていたころだから、もう20年近く前になると思う。たまたま大阪の四貫島(しかんじま)で、ある沖縄料理屋をさがしていて、間違えて入った沖縄料理屋に彼がたまたまいたのだ。

店の周辺の街には、沖縄から移り住んできた人が多かった。店内に民謡ライブができる広めの畳スペースがあって、琢ちゃんは着物を着たまま正座をしていた。客はぼくと友人の女性だけだった。そこで、彼が嘉手苅林昌さんの弟子筋にあたる沖縄民謡界の重鎮・大城美佐子さんの弟子で、あまり歌われなくなった古い民謡をさがしては唄っているスゴい男だと知り、親しくなった。

何よりも、嘉手苅林昌さんと竹中労さんの話ができる沖縄の民謡歌手と知り合えたのがうれしかった。それ以来、琢ちゃんとは大阪でよく飲み明かすようになり、彼が沖縄に戻る時期に、ぼくも追いかけるようにして那覇に仕事場をかまえることになった。

当時のぼくは「沖縄病」にかかっていたというほかなかった。サラ金で頭金を借りて、那覇市内の古いマンションを買ってしまうという、熱に浮かされたような感覚だった。

琢ちゃんは「島思い(うむい)」という大城美佐子さんの店でレギュラーで唄っていたが、ぼくは沖縄に滞在するたびに入り浸るようになる。

三線が奏でる沖縄民謡の調べを楽しんだ

そういえば、那覇の中心街・国際通りは当時、「サラ金通り」と呼ばれるほど、サラ金の店舗や看板がひしめいていた。グレー金利規制の前の話だ。結局ぼくは返済できなくなり、友人の弁護士に任意整理に入ってもらって、なんとか返済した。なさけない。グレー金利規制も始まったので、ついでに過払い金もサラ金会社から払い戻してもらった。

だけど、大好きな沖縄で「ひとり」になれる部屋を持てたことは夢のようだった。部屋をいったんスケルトンにしてから、地元の若手建築家集団クロトンの連中といっしょにリノベのプランを練りながら、よく酒を飲んだ。そんな日々が懐かしい。

沖縄の子どもたちが「スパイ活動」をさせられていた

【9月某日】 朝起きてペペロンチーノスパゲティをつくって喰うと、ずっと原稿に向かう。洗濯をしながらバルコニーから空を見る。曇天。沖縄は晴れ渡った空というのはじつは少なくて、どんよりした空のほうが多い。

ぼくは名古屋の私大で非常勤講師(ライティング演習)を十数年つとめているが、そのゼミ一期生の山田星河さんが沖縄に移住、那覇の桜坂にある映画館「桜坂劇場」で働くことになった。夕方にそこで合流して、いっしょに三上智恵さんが監督した映画『沖縄スパイ戦史』を観た。

三上さんの前作『標的の村』は、ベトナム戦争のころ、沖縄からベトナムに出撃していく米軍のために、沖縄・高江が「ベトナムの村」に見立てられていたという衝撃作だった。今作は元同僚の大矢英代 さんとの共同監督作品になる。

1945年の沖縄戦の際に、沖縄の子どもたちが「少年ゲリラ兵」としてスパイ活動をさせられたという驚くべき史実を明らかにしたドキュメンタリーである。

 

『沖縄スパイ戦史』劇場予告篇

すさまじい内容だが、戦闘のために沖縄の人々の犠牲をなんとも思っていなかった日本軍の卑劣さがこれでもかと迫ってくる。こうした「友軍であるはずの日本軍にだまされて犠牲になった」という過酷な体験の記憶が、沖縄ではずっと残り続けているのだ。

映画を見たあと、山田さんといっしょに国際通りで地ビールを出している店に寄り、いつもの「串豚」へ流れた。そしたら、飲んべえの友だちが何人もやってきた。

【9月某日】 カメラマンの深谷慎平くんと一緒に、泊の「ヤマナカリー」で唐辛子ココナッツカレーとアサリ出汁キーマの2種盛りを喰って、コザへ向かう。ヤマナカリーで広告代理店の杉田貴紀さんとばったり。彼も移住組。約束して飲むこともあるが、ばったり出くわすことも多い。たぶん食べ物の好みが似ているんだねと笑い合った。

コザのゲート通り。前に取材したことがある「TESIO(テシオ)」というソーセージ店に出向いて、オーナーの嶺井大地さんと話す。若きソーセージ作りの天才。嶺井さん、深谷くん、ぼくの3人で一番通り商店街を歩いた。最近、コザの一番街を中心に、50以上のショップや会社がスタートアップしたという。たしかに、一時期よりも営業している店が目につく。

ソーセージ店「TESIO」オーナーの嶺井大地さん

TESIOでは、ヴァイスブルストとカンボジアペッパーというソーセージを買って東京の土産にする。夜はRBCラジオ「プライムエイジアワー」という番組に出演させてもらって、『沖縄アンダーグラウンド』の話をさせてもらった。

【9月某日】 昼間はずっと仕事をして、夜、ひとりで「すみれ茶屋」へ。客は誰もいないが、店主の玉城丈二さんから『沖縄アンダーグラウンド』の界隈での評判を聞く。ここは沖縄の魚がうまい。マクブを刺身、ビタローをバター焼きにしてもらい、焼酎を飲んだ。めずらしく客が来ない夜だったので、ずっと丈二さんと話す。「土産用に」と、アジの干物をたくさんもらった。

【9月23日】 今日は東京へ移動する日なので、いつもよりちょっとだけ早起きした。空港で「沖縄弁当」を買って、ロビーで食べるのが帰路の行事化している。3~400円で買うことができるこの弁当こそ、沖縄色が詰まっているのではないかと、いつも思う。

沖縄にいるうちは、いわゆる「沖縄料理」はほとんど食べないのだが、ぼくはこの弁当は大好きなのだ。

「沖縄色」がつまった弁当

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