脳卒中発症からまだ5カ月、ぼくは病人なのだ(沖縄・東京二拠点日記 39)

左から、作家の真藤順丈さん、イベンターの知花園子さん、「おとん」のマスターの池田哲也さん、筆者。ひばり屋にて。
左から、作家の真藤順丈さん、イベンターの知花園子さん、「おとん」のマスターの池田哲也さん、筆者。ひばり屋にて。

首里城再建のためのチャリティトークイベント

11月10日 直木賞作家の真藤順丈さんが、恩納村の図書館で講演するため沖縄に来ていて、連絡があった。急遽、ジュンク堂那覇店で首里城再建のためのチャリティトークイベントをやろうと提案があり、乗らせてもらった次第。日中は原稿を書いて、散歩がてら早めにジュンク堂書店に歩いて出かけた。

左から、直木賞作家の真藤順丈さん、筆者。

会場には知った顔が何人も来てくれた。建築家のローゼル川田さん、フランス名誉領事のジスラン・ムートンさん、社会学者の打越正行さん、作家の橋本倫史さんなどなど。会場にバーテンダーの松田高徳さんがいたので指名すると、首里高校出身で、当時の思い出を話してくれた。テレビ局や新聞も取材に入った。ジュンク堂近くの「エガリテ」で真藤さんと担当の講談社の大久保杏子さん、森本店長、ジスランさん、広告代理店の杉田貴紀さんと軽くワインを飲む。

左から、森本店長、杉田さん、ジスランさん、筆者、真藤さん、大久保さん。

豆腐よう和えの「口福」

11月11日 昼から琉球朝日放送の取材で、真藤さんと首里城を歩いた。同局のディレクターは比嘉夏希さん。久しぶりに会う。収録後、飛行機まで時間があるという真藤さんと一緒に牧志商店街を歩き、「ひばり屋」へ珈琲をいただきにいく。「おとん」マスターの池田哲也さんがちょうどおられて、ぼくは夕方から知花園子さんと会うことになっていたから、彼女にも来てもらった。

左から、真藤さん、知花さん、池田さん、筆者。ひばり屋にて。

知花さんは落語のひとりイベンターなのだが、『ギフテッド フリムンと乳売り女』という映画の企画・原案もやっている。つまり、主人公の女性は園子さんをモデルにしてつくりあげたキャラクターだ。だから、朝起きて『ギフテッド』のDVDを観た。もう3回目。

小学生の頃からゲームセンターで稼いだカネで給食費を払っていたエピソード—主役の役者にそういう台詞がある—は本当だそうで、驚いた。壮絶な子ども期を過ごしてきたわけだが、最近まで上下動の激しい生活を続けてきた知花さんにパラダイス通りのカフェ「プラヌラ」でインタビュー。斜め向いの「ガーブドミンゴ」に顔を出して、「串豚」で知花さんと何本かホルモン串をつまんだ。

11月12日 モノレールの赤嶺駅で、写真家のジャン松元さんと待ち合わせた。これから「琉球新報」の撮影で琉球料理家の山本彩香さんの撮影に伺うのだが、体調を崩したという電話が朝かかってきて、短時間で切り上げることにする。前にペン取材のときは、撮影のときにはあれもこれもごちそうするわとおっしゃっていが、いまは静養に専念してください、先生。あ、先生というと怒られてしまう。ごめんなさい。

左から、琉球料理家の山本彩香さん、筆者。

が、ご自宅へ伺っていたら元気になられていて、撮影後は、シャコガイの豆腐よう和え、枝豆の豆腐よう和えをごちそうになる。ああ、口福とはこのこと。山本さんおすすめの豆腐の銘柄もお聞きした。

枝豆の豆腐よう和え。

帰宅して時間があったので、与那原恵さんの『首里城への坂道:鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(文庫版)を再読する。端正な文章で鎌倉の人生を辿っていく。鎌倉芳太郎という「外の目」がなければ燃えてしまった前の首里城の再建は叶わなかっただろうと思う。
ハラが減ったので、ひとりで「すみれ茶屋」へ。考えてみれば、今回の滞在で初めてひとりで外食だ。店のテレビで世界野球を常連さんと一緒に黙って見ていた。日本対アメリカ戦。勝敗にも野球自体にもそれほど関心もないので、画面を見つめながら常連さんたちが騒いでいるのをじっと聞いていた。アタマがぼんやりしている。

身体が疲労を溜めている

11月13日 朝から与那原恵さんの『首里城への坂道』の続きのページをめくる。プロローグには、こうある。

鎌倉をひとことであらわすのは、とてもむずかしい。あえていうならば、『「琉球文化」全般の最高のフィールドワーカー』だろう。彼以上に、琉球と対話し、観察し、記録した人間はいない。沖縄本島各地、宮古・八重山・奄美の島々をくまなく歩き、琉球のほぼすべてをとらえようとした彼がテーマとしたのは、芸術、文化、歴史、民俗、宗教、言語など、幅広いことも、ほかに例をみない。

鎌倉が研究の集大成として、大著『沖縄文化の遺宝』をまとめるのは、昭和五十七年。じつに、フィールド調査をはじめてから、六十年後、彼は八十三歳になっていた。あまりにながい時の旅をおえて、ようやくたどりついた成果だが、刊行を見届けてから十カ月ののち、彼は静かに息をひきとった。鎌倉が残した史料が重要な手がかりとなって首里城が復元されるのは、その九年後である。

路地の風景。

そうこうしているうちに、マンションの下水管を汚れを取る業者の人たちがわらわらとやってきて1時間ほどそれに立ち合う。業者が次の部屋に移動するために引き上げると、睡魔に襲われ泥のように眠りこけた。目が覚めたのは夕方の4時をまわっていた。起きる気がしなかったが、シャワーを浴びて、新都心の100円ショップで日用品を買いこんで、ジュンク堂へ寄って森本店長と30分ぐらいあれやこれや立ち話をした。

ジュンク堂では、『菜の花の沖縄日記』(坂本菜の花著、ヘウレーカ刊)を買う。石川県から沖縄のフリースクールに入学するために移住した15歳(移住時)の少女の日記だ。これをテレビドキュメンタリー化したOTVの番組は去年、賞を取っている。沖縄に来てから、沖縄の現実—とりわけ米軍基地問題—に目を見開かされていく過程が綴られている。

昨日、「すみれ茶屋」で野菜などをたくさんもらっていたので、夜はそれを炒めるなどして食事をした。『首里城の坂道』を読み続ける。この傑作ノンフィクションを、首里城が焼失してしまった今こそ—というのはヘンだけど—広く読まれるべき本だと思う。明朝は関西へ移動。

11月14日 神戸空港から大阪朝日放送まで移動。首里城取材について「キャスト」という情報番組内のぼくのコーナーで報告。これから名古屋へ移動して大学の非常勤講師の仕事が待っている。移動は大好きだけど、身体が疲労を溜めているのがわかる。6月の脳卒中発症からまだ5カ月しか経っていない。ぼくは病人なのだ。身体に負担をかけるのはやめよう。

この記事をシェアする

「ひとり生活」の記事

DANROクラブ

DANROのオーサーやファン、サポーターが集まる
オンラインのコミュニティです。

もっと見る