沖縄で暮らす人々の間に横たわる「境界」(沖縄・東京二拠点日記 3)

移転問題で揺れる沖縄・普天間飛行場のゲート
移転問題で揺れる沖縄・普天間飛行場のゲート

10年ほど前から、沖縄と東京の二拠点生活を続けている。沖縄のあらゆることを楽しみながら、沖縄で取材して原稿を書き、目の前で起きるいろいろな問題に直面して悩む。そんな日々の生活を日記風に書きつづる連載コラム。第3回は、沖縄と内地の人間の間に横たわる「見えない境界」のようなものについて少し考えてみる。

沖縄と内地の「境界」をめぐる懊悩

【2018年6月17日】 ジュンク堂書店・那覇店で、沖縄の出版社ボーダーインクの編集長の・新城和博さんと、社会学者の岸政彦さんのトークがあるというので聴きにいった。岸さんの新刊『はじめての沖縄』(新曜社)の刊行記念イベントだ。

ぼくが新城さんと知り合って10年以上。出会ったきっかけは忘れたが、彼がかつて編集・発行していた「Wander」という雑誌は、ぼくが「沖縄病患者」になった一つの原因になっているのはまちがいないと思う。並々ならぬ影響力を沖縄から発信してきた人物なのだ。

岸さんは『同化と他者化』(ナカニシヤ出版)以降、出す本が着実に版を重ねる売れっ子の書き手といっていい。前から親交があるが、実は僕が今度講談社から出す『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』の帯に推薦文を書いてもらった。

トークイベントで、岸さんは自著のことを「めんどうくさい本です」と切り出して笑いをとった。沖縄と内地の「境界」のようなことをずっと考えてきた、とも言った。「内地」の人間である自分が沖縄の何をどう書くんだと問われているような気がすると。

いわゆるリベラルな知識人系の人たちが沖縄のことを書くと、「かわいそうだけど、たくましい」などと過剰に沖縄を理想化して語りがちなことに、岸さんは嫌悪感を示す。その違和感は、ぼくも沖縄通いを始めてからじきに感じだした。

トークイベントで話す岸政彦さん(右)と新城和博さん
トークイベントで話す岸政彦さん(右)と新城和博さん

岸さんの指摘するところは、沖縄を表現しようとするとき、伝えようとするとき、伝え手が落ち込んでしまい、抜け出せなくなる陥穽のような部分でもあると思う。実は『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』は、ぼくの沖縄イメージの変遷を描いた本でもある。

岸さんは、沖縄を意味付けするのはやめたいけれども、ウチナンチュ(沖縄出身者)とナイチャー(内地出身者)の「境界」は考えざるを得ないと懊悩を話し続けた。かっこつけない彼の言葉が、多くの読者に受け入れられているのだと思う。

バー「土」の経営者・ゴウさんの思い出

トークのあと、岸さん、新城さんと、『はじめての沖縄』を編集した清水壇さんら、関係者で近所の居酒屋に行って、打ち上げをした。その後、夜道をぶらぶらと歩きながら、かつて「土」という名前のバーだった店に入った。今は「3×3」という名前になっている。ホテルJALシティの裏手のスージグヮー(路地)にある、古い一軒家を改造した瀟洒な店だ。

「土」をオープンしたゴウさんは、ぼくにとって大切な人だった。深夜に行って一人でカウンターでゴウさんと話ながら芋焼酎をちびりちびりやっていると、不思議と心が落ち着いた。そのゴウさんは2016年にこの世を去ってしまった。「土」だった建物はそのまま生かして「3×3」になったが、機内誌やファッション雑誌にもよく登場した素敵な店だった。

ゴウさんは京都で最期を迎えた。遺骨は、彼が沖縄に移住してきて最初に住んだ読谷村の海に散骨された。1987年に沖縄で開催された国体で、読谷村に掲げられた日の丸を引き下ろして焼き捨てた知花昌一さん。いま僧侶になっている彼が読経するなか、ぼくは静かな海に向かって合掌した。

彫刻家の金城実さんもいた。いつものごとく酔っぱらっていたことが、なぜかその場を和ませた。ちょっと場所がわかりにくい浜辺だけど、命日に関係なく、ぼくはクルマで読谷村に行って、ゴウさんが眠る海を見ることがある。

沖縄の海と空。常に晴れているわけではない
沖縄の海と空。常に晴れているわけではない

沖縄と内地の「対立」が吹き出す現場

ゴウさんは沖縄に15年前に移住して、いくつかのバーを経営した。「土」にはいろいろな人が集まってきていた。ゴウさんと最も親しかった仲村清司さんは『消えゆく沖縄』(光文社新書)で、彼の話に多くのページを割いている。その中から、ゴウさんの人柄がわかる一節を引用したい。

<沖縄を表層で語ると叱られるし、深入りすると火傷するーー。とは僕の持論だが、もしかすると僕自身が沖縄に深く関わりすぎたのかもしれない。沖縄で暮らしていくことの難しさを痛感した一事である。

沖縄ブーム云々と面前で批判されると僕は押し黙るしかない。が、このときはごうさんがおさまらなかった。

なんとなれば『土』のカウンターで起きた出来事だったからだ。沖縄問題はある意味ごうさんのライフワークであるから、言葉を選んで会話しつつも、けっして話をごまかさない。僻論(へきろん)をいう相手に対しては、ときに歯に衣着せぬ勢いで論争になることになる。

案の定、このときも激論に発展し、その客を出入り禁止にしてしまったのだが、以前も同様のことがあったのだ。

年に何度も沖縄に通い、『土』にも必ず顔を出す馴染みの女性客が、「ヤマトのくせに知ったふうな口を利くな」と地元の客から店の中で罵倒されてしまったのである。

客同士お互い面識はない。その日、彼女は辺野古の浜辺のテントに足を運び、現地で説明案内をしてもらっていた。そのことがカウンターに居合わせた僕との間で話題になった。

暴言を吐いた客はそのことが気にくわなかったらしい。そもそも『土』は新基地容認派の人が足を運ぶような店ではないので理由はわからない。

どういう事情があれ、初対面の人にいきなりそのようなことをいうのは失礼だろうと、ごうさんは説き聞かせるように話したのだが、その客は耳を貸さず、金を置いて店を出ていった。

「虫の居所が悪かったんだよ。気分の悪い思いをさせてごめんな」

ごうさんは彼女を慰め、僕もフォローしたのだが、やはり相当なショックを受けたようで、以来、沖縄には来なくなってしまった。実のところこのようなシーンは『土』以外でも何度も目にしている。>

沖縄の街の路上に寝そべる猫たち
沖縄の街の路上に寝そべる猫たち

ウチナンチュとナイチャーの「見えない結界」みたいなもの

沖縄で月のうち一週間ぐらい生活をするだけでも、多少なりとも社会運動にコミットしたり、いろいろな取材活動をしたりすると、こういう内部対立のようなシーンにたまに出くわす。双方にとって気持ちのいい話ではないのは当然だけど、沖縄と「内地」の関係性の一端を考えることを突きつけられているような気持ちになる。

沖縄を代表する作家である仲村さんは20年間沖縄に住み、こういう場面に嫌というほど立ち会ってきた。実は仲村さんはこれから、学生時代を過ごした京都に引っ越し、沖縄へ通う生活に切り換える。沖縄を離れる決意に至る心境については、ぼくは週刊AERAの「現代の肖像」で書いた。

ぼくは仲村さんの煩悶をリアルタイムで知っているが、こうした可視化できないような「対立」が仲村さんを苦しめたことも一つの要素だと思う。彼は疲れ切ってしまったのだ。

そういえば、ある居酒屋で、店主(関西出身のナイチャー)と客(沖縄の中年男性)が些細なことから罵り合いになり、仲村さんが止めに入った。二人は表に出て行った。あとで聞いたら、相手はウチナンチュ二世の仲村さんに「お前は沖縄か、内地か」ということだけを延々と問い詰めたという。

さきほどの岸さんの話ではないが、沖縄には目に見えない結界のようなものが張りめぐらされているのだろうか。ぼくにはまだ、うまく言葉にできない。

帰宅して、サッカー・ワールドカップの試合を観ていたはずが、目を覚ましたら床に倒れるようして寝ていた。ベッドまではっていき、寝直した。

この記事をシェアする

「ひとり生活」の記事

DANROクラブ

DANROのオーサーやファン、サポーターが集まる
オンラインのコミュニティです。

もっと見る