アメリカ先住民のテント「ティピー」に魅せられた男 「再起の地」で追い続ける夢

「ティピー」と聞いてどんな姿をイメージできるでしょうか。アメリカの先住民が使う円錐型のテントです。

それを日本で製造、販売、レンタルするのが「ジーフィールド」(愛知県小牧市)の吉田拓矢さん(49)。2000年に1人で創業してから、時に見た目も「アメリカ先住民」になりきってティピーの普及に努めてきました。

「3・11」を挟んで、拠点を福島県から愛知県へ。「キモサベ(友達)」との絆を大事にしながら、波乱万丈の人生を明るく突き進む吉田さんにその思いや夢を聞きました。

アウトドア雑誌の写真にピンときた

――出身は福島県いわき市ですね。なぜティピーを?

吉田:最初の勤め先は大手デベロッパーの事務職でした。ちょうど長野新幹線が建設中で、入社していきなり長野県に赴任。やりがいはありましたけど、もともと30歳までには会社を辞めようと思っていました。

大学時代から“キャンプおたく”で、日本中を回ってキャンプをしていたんです。就職してからも金曜の夜に仕事が終わったとたんに動き出して、土日にテントで寝て、月曜の朝にはキャンプ場から職場に直行するような。

そんなとき、たまたまアウトドア系の雑誌で見かけた「ティピー」の写真にピンときたんです。セピア色の大地に立ち並ぶ、三角形のシルエット。広告写真だったはずですが、ポストカードのような美しい光景に「これだ!」と一目ぼれしました。

アメリカ先住民のテント「ティピー」の普及に力を注ぐ吉田拓矢さん

――このインタビューもティピーの中でしてますが、下から見上げた形もかっこいいですよね。

吉田:でもティピーって、実はすごく単純なつくりなんです。似たようなモンゴルの「ゲル」は遊牧民族の家で、割と地面にしっかり固定されますよね。でもティピーは狩猟民族が次々に移動しながら使うテント。パッと開いてサッと立てるだけ。この柱の根元もみんな固定していない。だから居住性はあまりよくないんですが、“ずぼら”な私には向いていた。毎回、立て方によって表情が変わるのも面白いです。

なんて今は知っていたように言えますが、知識はぜんぶ後付け。とにかくこの形のテントをつくりたくて、自分で布や木を手に入れて、見よう見まねで切ったり組み立てたりし始めました。

――わざわざ自分で手づくりしたんですか。

吉田:アメリカから現地のものを直輸入している人たちもいますが、私は自分でつくり始めたので、日本の環境にどう合わせるかにこだわりました。アメリカの乾燥した土地なら綿の布でもいいけれど、湿気の多い日本ではカビが生えてしまいます。いろんな素材を探して、今の難燃性ポリエステルに行き着きました。この生地を使ってイチから制作するのが、私の「ジャパニーズティピー」です。

アメリカに行く機会もつくって、現地のインディアン(アメリカ先住民族)とも交流しています。「インディアン」が差別的な呼び名だという人もいますが、現地の人はあくまで総称として割り切って、「自分はスー族だ」「ホピ族だ」と部族名に誇りを持っている。白人から迫害を受けてきた悲しい歴史を知ってもらうためにも、私は尊敬の気持ちを込めてインディアンと呼ばせてもらっています。

「ティピーを売る」と言って両親を泣かせた

――そして、本当に会社を辞めて「ティピー屋さん」になってしまった。

吉田:30歳になった2000年に会社を辞めて、個人事業主となりましたが、最初はパソコンでITの仕事を始めました。でも、いきなりそれだけでは食えなくて、栃木県でイベントスタッフのアルバイトを2カ月半したら、接客が面白かった。やっぱりティピーの仕事をしたいと思って、とりあえずいわきの実家に戻りました。

両親には泣かれましたよ。息子がせっかく入った大企業を辞めて、しかも「インディアンのテントを売る」なんて言って戻ってきたんだから。

でも、もうやるしかなくて、自作のティピー2つで必死にレンタルや営業に回りました。

そこで当時、東京ビッグサイトでやっていた「デザインフェスタ」というイベントの運営事務局に売り込みにいったんです。そうしたら、なぜか事務所の壁にティピーの絵が飾ってあった。まったくの偶然なんですけど、事務所の代表が「ティピーつくれるの? いくらでも立てていいよ!」と言ってくれて、ビッグサイトに5つも立てさせてもらえました。

ただ、立てたのはいいけれど、中身がなくて寂しい。それで、いわきのアーティストなどに頼んでティピーの中に作品を展示してもらったり、アジアン雑貨を仕入れて売ったりしました。インディアンの家なのにね。

衣装も、大きめの女性用のスエードパンツや自前のチノパンなどを自分で加工してインディアン風にしました。頭の羽飾り(ウォーボンネット)だけは本物を取り寄せて。やっぱりこれが目立ちましたね。

このフェスタが年2回、各2日間。すごくいい宣伝になりました。それを3年間やっていたら、軌道に乗ってきて、じゃあ同じことをいわきでもやろうと、「アリオス(いわき芸術文化交流館)」という立派な施設でイベントを開くことができた。その勢いで2007年ごろ、いわきで始めたのが「インディアン村」です。

――インディアン村?

吉田:インディアンそのものよりも、とにかく自然の中で何か体験しようと呼び掛けるつもりでした。縁があって、いわきの山を3000坪ほど買えてしまったというのもありました。それで資金が一気に底をついてしまいましたが。

そんな計画にも賛同してくれる人がいて、2010年に「アースデイいわき」としてイベントを開いたら大勢が山まで来てくれました。ティピーだけでなく、太陽光パネルも立てて自然エネルギーの拠点をつくろう、ちゃんとした事業として広げようと、手応えを感じていた矢先……。

妻子とともに福島県から愛知県へ移住

――「3・11」を迎えたんですね。

吉田:はい、あのときのことはこの7年間、さんざんいろんなところで話してきたので今回、詳しく語るのは控えますが、あれですべてが変わりました。

東京のデザインフェスタをきっかけに出会った嫁さんと結婚して、ちょうど長男が生まれたばかり。3人でとにかく西へと避難しました。そのとき、変な話ですが仕事で行ったことのある名古屋で食べた「なごやめし」の味を思い出して、「名古屋に行こう」と思ったんです。

とはいえ、まったく身寄りはなく、愛知県の被災者支援の窓口に行ったら、名古屋の隣の小牧市の県営住宅を紹介され、入居しました。

それからは福島に戻るか、戻らないか、葛藤の毎日でした。両親は「帰ってこい」と言う。でも、嫁さんと子どものことを考えたら、帰れない。仕事は小牧に拠点を移して再開しましたが、一時期は手につかず、引きこもりみたいになった時期もあります。今でも「いわきを捨てた」という十字架を背負っているような気持ちがあります。

福島にいる以上、原発は意識していました。自然エネルギーもやり始めていたので、原発反対のデモに誘われたこともありました。それでも、まさか原発で事故なんて起きないもんだと思っていた。原発で働いていた友達も大勢いますが、働いている彼らは決して悪くない。でも事故後、親子や家族の関係が壊れた仲間をいっぱい見てきました。

一方で、自分は仕事の縛りがなかったのは事実。そして、嫁さんを中心に家族の理解があって、一緒に避難ができた。いい悪いではなく、それが現実です。

――今の地域に溶け込むことはできていますか?

吉田:愛知の人たちは本当に温かく支援してくれました。県営住宅の無償提供は終わりましたが、市内の別の団地に中古住宅を買うことができ、引っ越しています。

2017年に娘が生まれ、息子も小学校に上がりました。でも、うちは校区の端っこで、小学校までかなり距離がある上に、通学路が狭いんです。ガードレールもない道を子どもたちが身を寄せ合って歩いていて、トラックが猛スピードで横を走り抜けていく。これは危ないんじゃないかと地域に相談したんですが、今のところ通学路を変えたり、ガードレールを取り付けたりする話はないという。だったら、せめて自分がガードレールになろうと思って、子どもの登校の列についていくことにしました。

――「ガードレールになる」?

吉田:そう、子どもの後ろを、ただ歩くだけ。ガードレールだから、話はしません。黙って後ろをついていく。それを、とにかく学校のある日は毎朝やってやろうと、どんなに仕事が忙しくても、早起きして息子と一緒に家を出ています。以前は典型的な夜型人間だったんですが、今は朝型になって、往復1時間以上歩くから、体も鍛えられました。

変わってますよね。でも、「変わってるね」と言われるのが僕にとっては褒め言葉。昔から人と同じ人生は嫌だったんです。それが、ティピーに目をつけたことにもつながってますね。

――今の仕事における夢は?

吉田:アメリカから注文をもらって、現地にティピーを立てに行きたい。自分なりにやってきたティピーが、本場で認めてもらえたら最高。ハリウッド映画に使われたりなんかしたら、もうやめてもいいかな。

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関口威人 (せきぐち・たけと)

1973年、横浜市生まれ。中日新聞記者を経て2008年からフリージャーナリストとして独立。名古屋を拠点に雑誌やネットメディアに寄稿。2016年から「なごやメディア研究会(なメ研)」を主宰、18年には地元ライターやカメラマンによる取材チーム「Newdra」を結成。ドアラの中の人になってバク宙をするのが夢。

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