名古屋の「ウルトラスーパーボランティア」 障害乗り越えた70歳の人生哲学

"自家製"マイクロバスで災害ボランティア活動を続ける松沢秀俊さん
“自家製”マイクロバスで災害ボランティア活動を続ける松沢秀俊さん

山口県の不明児捜索で注目された「スーパーボランティア」あるいは「カリスマボランティア」なる称号。

それを聞いて、災害取材を続けてきた私は、被災地で出会った何人もの顔を思い浮かべました。男性も女性も、老いも若きも。みんな能力も人間性も高い「スーパー」で「カリスマ」なボランティアばかり。

中でも他にはマネできない「ウルトラスーパー」な人だと感じさせるのが、名古屋市で会社経営のかたわら災害ボランティアを40年以上続ける松沢秀俊さん(70)です。”自家製”のマイクロバスを被災地に走らせ、「困りごと」を解決して回る松沢さんに、その独自のスタンスや哲学を聞きました。

“自家製”マイクロバスで完全自立型支援

――災害現場には必ずといっていいほど駆け付けますよね。

松沢:1976年の安八(あんぱち)水害(台風で岐阜県の長良川が決壊した水害)で自前のボートを出して救助活動に回ったのをはじめ、神戸や新潟、東北など数えきれないほどの被災地に行きました。一昨年の熊本地震では被害の大きかった益城町や南阿蘇村に2週間ほど泊まり込みました。今年の西日本豪雨は発生直後の交通状況が悪かったので、早く駆けつけるためにもマイクロバスではなく新幹線で広島に行って2日ほど現場を回りました。

――被災地ではどんな活動をするのですか。

松沢:まず地元の役所や社会福祉協議会に顔を出して、どんな「困りごと」があるかを聞く。私にすぐできることがあればマイクロバスで現場に直行しますが、その後、ボランティアセンターに登録してから必要とされる活動をすることもあります。

2011年の東日本大震災では、3月13日までにマイクロバスの装備を整えて名古屋を出発。仙台に着いて宮城県庁にあいさつにいくと、病院の水が足りないと聞いて、バスの屋根に積んでいた500リットルタンクの水を病院まで届けました。車内にはトイレやキッチン、折りたたみのベッドもあって寝泊まりができ、屋根には250ワットの太陽電池を載せていて電源にすることもできる。岩手や福島でも保育園に太陽電池を設置して回るなどさまざまな活動をしました。燃料補給などのために名古屋の自宅との間を往復しながら、2015年までに延べ7カ月間は活動しました。

――私も宮城県七ヶ浜町の避難所で松沢さんを見かけました。物資が山積みの車でさっそうと現れたのをよく覚えています。「人の困っていることなら何でもやる」という松沢さんの原点には何があるのでしょう。

松沢:脊椎の障害による腰の痛みで、10代前半のころからほとんど寝たきりみたいな時期を過ごしていたんです。学校と病院を往復するような生活だったり、高校は特別に車で通わせてもらったり。だから独学で勉強する時間が多く、自動車工学や電気の本をよく読んでいました。

20歳過ぎにようやく体が動かせるようになって、スキーやスキューバ、船舶の操縦までできるようになりました。そうして遊び回っていると、不自由な体のときは人に助けられていた分、体が動くのなら困っている人の役に立ちたいと思うようになったんです。

大学卒業と同時に就職した電子部品製造会社では、出荷する製品を目視で検査していたので大量に不良返品がありました。それで、私が電子検査装置を製作して選別したら、不良品が出荷されることはなくなった。その後、社内の「困りごと」を解決するスペシャリストとして働き、会社の中のほとんどの問題を処理しました。一方で、会社の理解もあって、問題が発生していないときは休暇を取り、外でボランティア活動をやれたんです。

そのうち社内で解決することが少なくなり、担当していた新しい工場も無事に完成したのを機に、30歳で独立を決意。名古屋に戻り、電子検査機器と太陽電池などの自然エネルギーを製造・販売する、今の「サンエー技研」という会社を立ち上げました。

2011年3月27日、宮城県七ヶ浜町で筆者が撮影した松沢さんのマイクロバス

本業を軌道に乗せて被災地へ

――本業とボランティアはどう両立させてきたのですか?

松沢:検査装置は大手企業から引き合いがありました。ソーラーシステム販売も順調で、私自身が1994年に個人で初めて、中部電力に売電を始めました。そのころ、キャンピングカーの屋根に150ワットの太陽電池を取り付けた“初代”の車両を製作。仕事にも使っていましたが、1995年の阪神・淡路大震災ではその車両に泊まり込みながら、各地の避難所などに水や食料を配って回りました。

その後、本業は軌道に乗って十分稼げるようになったので、仕事を社員に任せて私がボランティアに行くことができました。モットーは「遊び心で世のため、人のため」。自分の生活を犠牲にしてまでボランティアはしません。

今の人たちを見て心配になるのは、若いのに自分たちの生活そっちのけでボランティアをやろうとしていること。まずは自分の生活を安定させてからするべきでしょう。

――あくまで「個人」単位で動くのが信条ですか。

松沢:神戸の地震の後、電気自動車づくりの愛好家仲間たちに呼び掛けて「中部防災ボランティア」という組織をつくりました。それは今でも代表として続けていますが、みんなだいぶ高齢化してきています。

2000年の東海豪雨のときは地元の大勢の仲間たちと話をして、私は現場でボートを出して、浸水で取り残された人たちの救援へ。のちに災害救援のNPOをつくる仲間たちは、愛知県庁でボランティアの本部を立ち上げました。

すると、県庁でスコップなどの資器材が足りないというから、私がJC(青年会議所)に電話をして資器材を提供してもらうように話をした。それが名古屋でボランティア用資器材をストックしておく倉庫の整備につながりました。

私自身はもうスコップを持って動く歳ではありません。困りごとを解決するため、今までの経験や知恵を人につなぐことも大事だと思っています。

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自分を守るから人を助けられる

――最近は、“2代目”の車を他の人に使ってほしいと呼び掛け始めたとか。

松沢:70歳になったら、自分が活動するよりも被災地で活動する団体に貸し出そうかと思っていました。ただ、あの特殊な車両を乗りこなすのはなかなか大変。誰でも使いやすいように改修するつもりだけれど、どうなるか。

そもそも燃費が悪いので、維持費がかなりかかります。やはりある程度、余裕のある人に使ってもらいたい。資器材は地元の寺の倉庫に保管してもらうことにしました。

資格も、フォークリフトから小型クレーン、玉掛け、小型船舶1級、アマチュア無線など取れるものはたいてい取ってしまいました。今は「できないこと」を探す方が難しい(笑)

――もし今、南海トラフ地震(東海地方から九州地方までの太平洋岸地域に甚大な被害をもたらすと想定される巨大地震)が起きたらどう動きますか?

松沢:名古屋は地震と津波で孤立するでしょう。私が住んでいる地域は山側だけれど川に囲まれているから、橋が落ちてどこにも行けないし、助けに来てもらえないかもしれない。

ただ、私は飲み水も非常食も1週間分は用意しているし、カセットコンロも十分あって電気も発電でき、スマホの充電や夜の照明には困りません。

それで落ち着いたら、市役所まで歩いて行って「困りごと」を探すでしょうね。自分を守るから人も助けられる。まずは自分で自分の身を守らなきゃ。それがボランティアの基本です。

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関口威人 (せきぐち・たけと)

1973年、横浜市生まれ。中日新聞記者を経て2008年からフリージャーナリストとして独立。名古屋を拠点に雑誌やネットメディアに寄稿。2016年から「なごやメディア研究会(なメ研)」を主宰、18年には地元ライターやカメラマンによる取材チーム「Newdra」を結成。ドアラの中の人になってバク宙をするのが夢。

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