「朝日新聞とNHKの試験に落ちてラッキーだった」田原総一朗の「逆張り人生」

80代半ばのいまも、討論番組「朝まで生テレビ」の司会者として活躍する田原総一朗さん。42歳のときに東京12チャンネル(現テレビ東京)を退社して以来、フリーランスのジャーナリストとして活動してきました。

終戦時の体験にもとづき、「国もマスコミも信用できない。だから、ジャーナリストになろうと思った」と語る田原さん。世間の常識に従わず、我が道を歩き続けてきた秘訣を聞きました。

朝日新聞もNHKもTBSも受けたが、全部落ちた

――田原さんはこれまでの人生の半分にあたる約40年間、フリージャーナリストとして、ひとりで仕事をしてきたわけですが、フリーランスならではの苦労話を教えてください。

田原:ひとことで言うと、僕はとってもラッキーだった。

――どういうことですか?

田原:ジャーナリストになりたいと思って、大学を卒業するとき、朝日新聞、NHK、TBS、北海道放送、ラジオ日本を受けたが、全部落ちた。もし朝日かNHKに入っていたら、定年までいってサラリーマンで終わっていたと思う。

「僕に才能はない。唯一あるのは好奇心だ」と語る田原総一朗さん(撮影・岩切卓士)

――フリーでやっていて、仕事がなくて困るということはなかったんですか?

田原:とても幸運なことに、フリーになったときから原稿の仕事がいろいろ来た。忙しくて、徹夜もしたんだけど、ある日、新聞を読もうと思っても文章が読めないということが起きた。一字一字は読めるけど、文としてつなげて読むことができない。これは大変だと街に行ったら、看板の文字が読めなかった。

ストレスがたまりすぎたんだと思うけど、フリーだから仕事を断ることができない。そのときはアシスタントに書いてもらってしのいだ。2カ月くらい、そうやって書けない時期があったね。ストレスといえば、何度か十二指腸潰瘍になって、下から血が出たこともある。

――フリーランスは代わりがいないですからね・・・。田原さんが東京12チャンネルを辞めるとき、迷いはなかったんですか?

田原:原子力をめぐる裏側を雑誌で連載していて、結局、会社を辞めることになったんだけど、東京12チャンネルは給料が安かったので、極めて辞めやすかった。同じころ、朝日新聞の筑紫哲也さんも会社を辞めるかどうかで悩んでいた。僕が「辞めればいいじゃないか」と言ったら、業界の友人から「朝日新聞の記者はそう簡単じゃないんだ」と怒られたよ(笑)

テレビ番外地で「ヤバい番組」を作った

――田原さんは早稲田大学を卒業後、まず岩波映画製作所に入って、その後、テレビ業界に転身しました。映像制作という点で共通していますね。

田原:ところが、映画とテレビは全然違った。岩波にいたとき、日本教育テレビ(現テレビ朝日)のディレクターが子ども向けの番組を作っていて、構成を依頼されたことがある。それで、思いつきを喋ったら、台本を書いてくれと。でも、いつオンエアーするのか書いてない。「こんないい加減な世界はない」と思った。これは面白い、なんでもできるじゃないかということで、テレビに行こうと思った。

――それで開局したばかりの東京12チャンネルに入ったわけですね。

田原:これがとても良かった。いまのテレ東はそれなりに視聴者に認識されているけど、当時は「テレビ番外地」だった。誰にも相手にされないし、制作費も安い。そこで、どうすればいいのかと考えた。日テレやTBS、NHKがやらない番組をやるしかない。ヤバい番組。警察に捕まるかもしれないし、いろいろな人からひんしゅくを買うかもしれない番組をやる。

――どんな番組ですか?

田原:たとえば、久里浜の特別少年院(神奈川県横須賀市)にいた少年を、入所しているときから撮り始め、出所後も追いかけるドキュメンタリーを作ったことがある。普通は少年院にいたことを隠すからありえないんだけど、院長の協力も取り付けて建物の中から撮った。退院するときに「何やりたいか」と聞くと、「タバコを吸いたい」と言った。そして「調理師になりたい」と。

その後、調理師の専門学校に通ったが、少年院出身の友人がトラブルを起こして彼の寮に逃げ込んできたために、身元がバレて退学させられそうになった。少年が涙ながらに寮生たちに経緯を告白する様子も撮影して、「出発~少年院を出たMの場合~」というタイトルで放送した。

「正義に逆張り」は競争相手がいないからいい

――ご自身の半生を振り返った著書『塀の上を走れ』を読むと、「もともと他人を攻撃するのは苦手で好きではない」とありました。いまもそうなのでしょうか?

田原:そうだよ。だから、どちらかと言えば、検察などの権力にやられている人間の言い分が聞きたい。世論の反対をやろうということ。もっと言うと、戦争を知っている世代だから「正義」というのが嫌いなのね。正義で商売しているのはどこか。検察だ。だから、検察にやっつけられている人間を取材してやろうと思った。

最初はロッキード事件で逮捕された田中角栄。その次にやられたのは、リクルートの江副浩正。堀江貴文や鈴木宗男もそうだ。検察からにらまれている人間を取材する。正義の逆。それをやっている人はあまりいないし、飽きないよね。

――ただ、一般的な「正義」の逆を行くとなると、世間から孤立することもありますよね。

田原:そう。でも、競争相手がいないから楽だよ。「正義の逆張り」は、それなりに商売になるのよ。検察からやられている人間は必死だから、取材するとちゃんと本音をしゃべってくれる。

――そういう「アンチ正義」の精神はどこで育まれたんでしょうか?

田原:僕は戦争体験世代だから。日本が戦争で負けて、夏休みに玉音放送があった。すると、1学期まではラジオも新聞も英雄視していた人間たちが、2学期になると占領軍に次々逮捕された。「逮捕されるのは当然だ」と言われて。その典型が元首相の東條英機だった。

それを見て、大人たちの言うことは信用できないと思った。国もマスコミも信用できない。これが僕の原点。大人が信用できないなら、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分ひとりで確かめないといけない。だから、ジャーナリストになろうと思った。その姿勢はいまも基本的に変わらない。

――田原さんにタブーはないのでしょうか。

田原:タブーはないね。僕の番組では、右翼もやったし、部落差別も取り上げた。

――批判する人から暴力を受けたことはありますか?

田原:一度、殴られたことはある。脅迫電話がきたこともある。自宅の前に右翼の街宣車が10台くらい集まったことも。そのときは街宣車の団体と九段会館で討論会を開いたよ。

――恐怖を感じることはないんですか?

田原:ありますよ。恐怖を感じながら、でも、なかば面白いと思う。

――いま田原さんが一番取材したい人は?

田原:トランプだね。いっぱい聞きたいことがある。歴代のアメリカ大統領は建前しか言わなかった。彼は、露骨な本音で勝負する初めての大統領だよね。

――「朝まで生テレビ」は深夜の生放送ですが、84歳にもなると肉体的に大変ではないですか?

田原:別に大変でもいいじゃないの? 理想の死に方は、朝生の最中に死ぬことだから。プロデューサーは「番組が終わって『ありがとうございます』と挨拶をしたまま立ち上がらない、というのがいいんじゃないか」と言っているけどね(笑)

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亀松太郎 (かめまつ・たろう)

DANROの初代&3代目編集長。大学卒業後、朝日新聞記者になるも、組織になじめず3年で退社。小さなIT企業や法律事務所を経て、ネットメディアへ。ニコニコ動画や弁護士ドットコムでニュースの編集長を務めた後、20年ぶりに古巣に戻り、2018年〜2019年にDANRO編集長を務めた。そして、2020年10月、朝日新聞社からDANROを買い取り、再び編集長に。最近の趣味は100均ショップでDIYグッズをチェックすること。

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