高校野球は甲子園だけじゃない。軟式野球部で何が悪い?(青春発墓場行き 4)

(イラスト・戸梶 文)

今は亡き雑誌『バンドやろうぜ』(宝島社)ではないが、中学時代から音楽に目覚めた僕は、高校に入学して、真っ先にやろうと思ったことが、憧れのバンドを組むことだった。もちろん、パートはギター志望だった。しかし、絶望的なことに、僕の高校には軽音楽部がなかった。

そのとき、どういうわけか、初めてできたクラスの友人の誘いで、僕は軟式野球部に入部することになった。出来心で。なんとなく。バールのようなもので。もしくは、野球に、「愛し愛され」(小沢健二『LIFE』/1995年)た気がしたのだ。

暑苦しい絶対的なキャプテン「たらやん」

軟式野球部は何を目指して日々練習するのか、みなさんはご存知だろうか。硬式ならただひとつ、「甲子園」である。しかし、軟式野球部はどれだけがんばっても甲子園には行けない。全国大会は、同じ兵庫県だが、明石球場で行われる。そして、テレビで放映されるのは、決勝のみ。それも地方のテレビ局でこっそりと。

こんなことでは、モチベーションがあがるわけがない。しかし、硬式に入るほどの根性はない。そんなやつらが、軟式野球部には集まってくる。しかし、僕が入った軟式野球部はそんな生ぬるいものではなかった。

高3のキャプテン、Hさん。通称、たらやん。たらこ唇だったから、という理由だけで「たらやん」というあだ名がついていたが、僕らにとっては絶対的なキャプテンだった。

どういう人かというと、とにかく熱い。そして暑苦しい。試合が終わると絶対に僕らを集めて反省会をする。そして、絶対、泣く。僕は当時、しらけていたので、その熱さを受け止めることができず、スカしていた。

たらやんの守備位置はファースト。試合で何度も平凡なファーストフライを落とし、グラウンドの端にある鉄棒で屈伸しながら、クビを横にかしげて、今日は調子が悪いアティテュードを僕らにアピールしていた。あれだけ練習して、反省会で熱く語り、泣き、その上で、あの平凡なファーストフライを落とすとなると、才能がないというのは明らかだ。ただ、才能がなくてもやることの意義みたいなものは、どれだけスカした僕でも、感じ取れるものがあった。

そして、我々は順調に予選の1回戦で敗退した。

ボロボロだった強豪PL学園との対決

僕は高校3年生になった。途中、僕は落語研究会に浮気していた。当時、お笑いはブームであったが、落語は、今みたいなブームにはなっておらず、一言でいえば、凄くダサいものとして捉えられていた。僕も、落語などするつもりはなく、畳敷きの部室を授業をさぼるときに利用したいがために近づいたようなものだった。落研時代の話はまた別の機会に。

そんな怠惰な日々を送っていたが、ある日、そのときの軟式野球部のキャプテン、Kから呼び出しをくらった。何かと訊ねると、部員が僕を含めて9人しかいない。僕に戻ってきてもらわないと夏の予選に出られないという。菓子折りを持ってきたKの説得に根負けし、僕は軟式野球部に復帰することになった。

僕の守備はライト。左利きなので、やれる守備が限られていた。最初の練習試合で、ライトフライを追いかけ、足がつった。嫌な予感がした。そして、それは見事に的中したのである。

いよいよ夏の全国大会予選が始まった。予選1回戦の相手はまさかのPL学園。PL学園は軟式野球部でも強豪校で、フルボッコにされ、コールド負けした。僕たちの夏はあっけなく終わった。

これが僕の高校の夏の全てだ(高2の夏は記憶さえない)。花火大会も見に行ってないし、海にも行っていない。当然、デートなんてしていない。思い出すのは、男5人で押井守の映画『攻殻機動隊』を観に行き、よくわからなかったという理由で2回観たことと(当時の映画館は、総入替え制ではなかった)、映画に行く前に、みんなで王将に行き、ヤングセットという定食の注文でかぶってしまい、なんともいえない空気が流れたことだけだ。

当時17歳。十分ヤングではないか。何を恥ずかしがっているんだ。もっと胸を張ればいいじゃないか。

これにより、僕のかりそめの体育会系時代は完全に終わりを告げ、終わりの見えない暗黒の文化系、「若さをもてあそび、ずっと泣いていた」(サニーデイ・サービス『東京』/1996年)時代に突入するのである。

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