「こういう人たちと一緒にやるのは絶対無理」東大での絶望から将棋ライターの道へ(私と東大駒場寮 10)

駒場寮委員長室で焼きそばを作っている松本博文さん = 写真は松本さん提供

東京大学の駒場キャンパス(東京都目黒区)にあった「駒場寮」。2001年に取り壊されたその寮を撮った写真集の再制作にあたって、当時写真を撮らせてくれた元寮生たちに話を聞いている。

※写真集制作の経緯については、第1回の記事をご覧いただきたい。

今回は、駒場寮委員長を務めた経験を持つ元寮生で、現在は将棋ライターとして活躍する松本博文(まつもと・ひろふみ)さん(48)に話を聞いた。松本さんは、ノンフィクション『東大駒場寮物語』(KADOKAWA)の著者でもある。

私と松本さんは、「東大駒場寮物語」の表紙やカバー、扉など、本の装丁に私の写真を使ってもらったことで知り合った。20年ほど前の写真集制作時には関わりがなかったが、駒場寮のことを深く知る人物として、今回インタビューすることにした。

※この取材は、2021年3月6日、音声SNSClubhouse」の公開インタビューとして行った。
 <聞き手:オオスキトモコ、亀松太郎(DANRO編集長)>

離島出身、中学生から寮生活

ーーオオスキ:松本さんって、山口の離島出身なんですよね。

松本:そうそう。本州最西端の下関という街から見える、島に住んでいたんだよね。蓋井島(ふたおいじま)というところ。いま人口が100人いないぐらいで、僕の時代でも小学校の児童数は10人前後だった。いま僕が住んでる東京の都会から考えると、そんなとこは存在するんだっていうぐらい、小さい小学校ですね。

ーーオオスキ:中学生のときから、もう親元を離れて寮生活をしながら中学校に通ったって、本に書いてあるんですけど…

松本:そうです。それが僕らの地域では当たり前だから。小学校しかないんで。中学校1年生で、その対岸の町の中学校に入って、島の子供たちだけで寮生活するわけですね。それは、そういうもんだと思ってた。いま自分の子供にそれをやれって言うのは「いや早いだろ」と思うんだけれども、田舎なのでね。

ーーオオスキ:駒場寮のことは、いつ知ったんですか?『東大駒場寮物語』を読んでも、「住むところは最初から決めていた。駒場キャンパス内に存在する駒場寮である」って、いきなり断言されてるんですけど。

松本:それはもうね、決めてたんですよ。家がそんなに金持ちでもないんで…せっかく面白そうな寮があるんだから、入るのはまあ既定路線だよねっていう感じだったんですよね。

東大に関する情報ってのは、いろいろな出版物で見ることができるじゃないですか。こんな学生生活を送ってるっていうのは。僕は本を読むのが大好きな子供だったので、そういう小さい情報でもね、何とか拾おうとするわけですよ。

だから、自分なりのイメージは持ってたんだけども、行ってみたら、それ以上にすごいところだなと思いましたね。駒場キャンパスっていうのは、時代から取り残されたような空間だなと。

東大っていうのはそんなに教育に金かけられてないなっていうことをまず思ったのと、その中でも駒場寮っていうのはとくに、もう全然予算がついてないんだろうなっていうようなことを感じましたね。

駒場寮内、廊下の突き当りの窓。「東大駒場寮物語」カバー表紙写真 = 2001年7月頃、オオスキトモコ撮影

入学式には行かないで、部屋のペンキを塗っていた

松本:1993年に東大に入学した3人で、一緒に駒場寮に入りました。大分出身の光内、福岡の小倉出身の黒川、山口県の下関出身の僕。3人とも河合塾の北九州校で一緒で、そこで知り合ったんですね。

僕たちの部屋は、中寮7B。前の住人がいないんで、自分たちで好きにやろうっていうことで、部屋の壁をペンキで塗りました。東急ハンズに行って、ペンキを買ってきて。

僕たちは入学式に行かなかった。当時の教養学部長は蓮實重彦だったんだけど…そのよくわからない挨拶をみんなが聞いている間、僕らはペンキを塗ってました。

駒場寮の部屋にペンキを塗っている松本博文さん(写真中央)、同室に住んでいた光内法雄さん(写真左)、黒川博之さん(写真上) = 写真は黒川さん提供

松本:駒場寮にはBとSっていう二つの部屋があって、BがBedで、Sがstudyなんですけれども。昔の一高時代の名残で、2部屋がワンセットだったんですよね。

*筆者注:一高=旧制第一高等学校。東大教養学部の前身となった旧制高等学校。東大駒場寮は、旧制第一高等学校の寮として1935年に建設された建物が、2001年まで残っていた。「東大駒場寮物語」には、旧制第一高等学校からの寮の歴史についても書かれている。

松本:ベッドルームとスタディルームに別れてたんだけども、戦後はそれがなくなって、BとSっていうのが、名前だけ残った。B部屋は棚がついてるけど、S部屋はない。

Bが生活で、Sが学習用だったから、Sのほうには生活のための棚はなかったんですよね。僕ら3人で住んでたのはそのBで、棚に寝ようと。はしごかけて、柵を自分たちで打って、棚の上で寝てました。棚がね、人が寝られるくらいの広さあるので。

旧制一高以来の伝統の「畳ベッド」というのがあって、ベッドの上に畳を入れるっていう、和洋折衷なベッドがあるんだけども、それを入れとくと、部屋が狭くなるわけですよ。それをどけて、完全なオープンスペースにしようっていうことを、3人でやったわけです。

松本さんの最初の部屋の間取り図(黒川さん・松本さんへの取材をもとに作成)。この連載では酒造さん(第2回)の部屋と、多賀谷さん(第8回)の部屋が中寮かつB部屋で、松本さんの部屋と全く同じ作りである。
駒場寮内 平面図(2001年の取材時に作成)

1993年秋、加藤登紀子コンサート

ーーオオスキ:1993年の4月に入学して、93年の10月末に教養学部ストライキ、駒場寮存続を要求するストライキが行われましたね。松本さんは、1993年11月に秋の寮祭の実行委員長をやって、駒場寮存続を訴える趣旨で、加藤登紀子さんのコンサートを行ったと、『東大駒場寮物語』に書いてあります。

松本:そう、そういうのがあったんで、すごい忙しくて。やることいっぱいあるんだけど、そうするとさあ、やりたくなくなるじゃない(笑)

寮で寝てて、授業は当然行かなくて、ちょうどこの時間(21時半ごろ)がコアタイムで、これぐらいからずっと活動して、いろんな準備とかして、朝の1限に間に合うようにビラを撒きにいって。それが終わったら、あ〜やれやれと思って寝るみたいな感じで。

駒場は語学のクラスがあるんだけれども、寝てると、親切なクラスメイトとかが「松本くん起きようよ」って言って起こしてくれたりするわけです。でも、僕は行けないんで、「いや、もう見捨てていいよ」って言って。それで1回留年しましたね。

駒場寮存続を訴え催された加藤登紀子さんコンサートの記者会見の様子 = 写真は駒場寮同窓会提供。コンサート前日には、NHKの19日からの全国放送のニュースで、駒場寮の廃寮問題と、翌日の加藤登紀子コンサートのことが伝えられ、コンサートは大盛況に終わったという(「東大駒場寮物語」より)。写真左から松本さん、加藤登紀子さん、すぎやまこういちさん。加藤登紀子さん、すぎやまこういちさんも東大卒で、駒場寮存続運動を支援していたという。

“コンサートの後は、寮食堂で登紀子さんを囲んで、晩餐会がおこなわれた。(中略)晩餐会には多くのマスコミ関係者が取材に訪れていた。私は実行委員長ということで、テレビカメラの前に立たされて、インタビューを受けることになっていた。

そのとき、教養学部長の蓮實重彦が何人かの教員を連れて、晩餐会にやってきた。確かに招待状は出したが、本当に来るとは思っていなかった。その点、蓮實は大したものだな、と思った。

蓮實は私たちに、1本の酒を差し入れた。「ロシアの美人からもらったものだ」と言われた記憶がある。

「存続運動がこれだけ盛り上がっているのを見て、どうですか?」

と私は言った。

「今の学生は、学生を組織できないことがよくわかったよ」

蓮實は面白くもなさそうに言った。”

(松本博文,『東大駒場寮物語』,KADOKAWA,2015,p.190-191)

ーーオオスキ:松本さんが駒場寮に住んで2年目の1994年4月に、小林さんと横山さんと小泉さんがやってきて、2部屋利用になるんですよね。

松本:6人で2室にして。片方の部屋に寝る部屋を集めて、もう片方をみんながリビングみたいに使える部屋にしたんですね。

ベッドルームとスタディルームに分けるみたいにしてるんだけど、結局、8Sのほうを寝る部屋にしたのかな。7Bの方に皆が集まって、ご飯とか食べる部屋にして。

ーーオオスキ:その当時って、1部屋に3人住むのが普通だったんですか?

松本:3人が普通でしたね。1994年当時は4人の部屋がちょっとだけあって、3人が基本で、って感じだったね。

昔は、2部屋で12人の部屋なわけですよ。2部屋で12人、1部屋で6人か。24畳の部屋にね。それが戦後、駒場寮に住んでる人がだんだん減ってって。昔は1000人住んでたところに400人。

*筆者注:旧制一高は基本的に全3学年の生徒が寮で暮らす、全寮制であった。

松本:当局が「寮に住むのは違法だ」って言い始めたのは1995年の春だから、そっから先は、だんだん減ってくわけですよ。

ーーオオスキ:そして、1994年の3月から寮委員長ですね。それでお伺いしたいことがあって、駒場寮での生活って、今の仕事に影響ありますか?

松本:僕は駒場寮のノリで…自分の好きなことしかやらないみたいな、そういうノリで一生生きてるので。いま寮はないけれども、夢に見ることはよくあってね。

もうそろそろビラを配りに行かなくちゃいけない時間だな〜とか、そういうことを未だに夢に見るんですよね。だから、僕にとっては古い時代の話じゃなくて、近しい思い出の中にあるわけ。

実際住んでたのは、寮の歴史からすれば長くないんだけども、90年代後半ぐらいは、ずっと寮にいて…僕は駒場で将棋を指してる時間がすごく長かったので…学生会館で将棋を指して、その後駒場寮で寝てね。

学生将棋のプレーヤーでもあったし、学生将棋の団体戦で全国大会で優勝したりしたんですよ。そういうこともあって、(将棋に関する出版物の)編集とか構成とかをメインでやるようになって、それでお金稼いだりしてたので、そっちのほうが忙しくなったっていうのもありますね。で、そのままフリーって感じですね。就活とか一切したことない。

本郷に進学してからも将棋部が駒場にあって、駒場でさしてたから駒場キャンパスにだいたいいたし…まあ、駒場寮には知り合いがいるし、存続運動もあったから、そういうときには参加したりしてましたね。それはなくても、とりあえず何か駒寮にいって、時間を過ごすみたいなことが多かったんですよ。

ーーオオスキ:じゃあ、駒場寮が好きだったというか、

松本:好き…かどうか…しんどいとこだったけどね。いろいろやらなくちゃいけないし。寝てればいいってわけにはいかないからね。

駒場寮内、台所。「東大駒場寮物語」扉写真 = 2001年8月頃、オオスキトモコ撮影

松本:僕だって本当は、寮で寝てたかったと思うんだけど。でも住んでいる以上は、目の前につきつけられたら、何かしなくちゃいけないよねっていうことになるじゃないすか。

僕が寮に入ったときは、もう廃寮計画が進行していたから、本当に廃寮を阻止するつもりなら、勝負所はそれ以前だったのかも、と思ったことはある。なし崩し的に既成事実をどんどん作られていったから。危機意識が少し希薄だったかもしれない。それは仕方ないと思うんだけれども、予算がつくような段階で、ちゃんと反対しとかなくちゃいけなかったのかなという気がする。

おそらく大勢は変わらなかった気もしますけれども…僕らが入ったときは、結局駄目なのかもねみたいな、諦めムードみたいなのはあったような気もしますね。

駒場寮の中も寮生400人で団結できてれば、全然情勢は違ったんだろうけど、そこですら、無関心な人がたくさんいて。キャンパスでも無関心な人はたくさんいて、いわんや社会全体では、っていうことなのでね。

正直、僕は勝ち目はないだろうなと思ってたけれども、それでもね、やっぱり…将棋で「形を作る」っていう言葉があるんだけど、最善を尽くすっていうことでやってましたけれどもね。

僕みたいないい加減なリーダーじゃなくて、ちゃんとした人がやってれば、もしかしたら駒場寮は残ったかもしれないけれども…そこはね、今でもどうすればよかったかっていうのは考えるけれども、やっぱり相当難しかっただろうなっていうふうには思いますね。

駒場寮の中庭。「東大駒場寮物語」表紙写真 = 2001年5月頃、オオスキトモコ撮影

東大法学部生の態度に感じた絶望

ーー亀松さっき学生の無関心ってお話があったんですけど、駒場にいる学生にできるだけ理解してもらって協力してもらおう、ということは大事で、ビラを配ったりといった働きかけをいろいろしてたと思うんですが、『東大駒場寮物語』の中に書かれてるエピソードで、駒場キャンパスの900番教室にいた学生たちの話が出てきますよね?

“後でいろいろな寮生の話を聞いたが、一番話が通じなかったのは、駒場で一番広い900番教室で専門課程の講義を受けている、文1の2年生、法学部進学予定者たちだということで、一致した。

寮が置かれている現状を訴え、ストライキの協力を呼びかけようとすると、

「私たちには授業を受ける権利があるんだ!」

という趣旨の主張ばかりが返ってきて、最後には「帰れ」コールが起こって、辟易したという。

もちろん、学生である以上、講義を受ける権利が重要なのは当然である。

しかし、学内において、他の学生たちの権利があからさまに侵されようとしているときにそれを無視できるものだろうか。彼らは将来、弱い立場の人間の権利を守るために法を学んでいる、という意識はないのだろうか。どうして彼らは見て見ぬ振りができるのだろうか。そんな話になった。そのとき、誰かがこんなことを言ったと記憶している。

「いや、それは違うと思うよ。見て見ぬ振りをしてるんじゃない。寮なんて最初から視界に入ってないんじゃないの?」

別に寮の問題に限ったわけではない。遠いどこかの国で起こっていることではなく、すぐ身近で起こっていることにどうして彼らは目が向かないのだろうか、と。”

(松本博文,『東大駒場寮物語』,KADOKAWA,2015,p.183-184)

松本:ほんとねえ、900番教室にいた連中だけは一生わかりあえないっていうか。

ーー亀松:東大の文科1類の2年生ということですよね。彼らは本郷の法学部に行く人たちで、将来法曹や官僚になるっていうのがあまりにも象徴的というか…

松本:本当ね、25年前の駒場を見てると、今の日本の社会って「なるほど」と納得できますね。

法学部の人たちを見てると…能力があるのは認めるけれども、こういう人たちとやっていくのは、自分はもう絶対無理なんだなっていうのはわかってしまった。その後、司法試験を受けようかなとかね、いろいろ思ったんだけど、能力以前に、全然気力が湧かないわけですよ。もう、これは駄目だと思って。だから私は一生、将棋をやってればそれでいいかなと思って。

ーーオオスキ:駒場寮の存続運動を行うことによって、結果的に法学部生への絶望が生まれて、それによって、好きなことをやろうと将棋へ向かっていった、と。

松本:そういうところもあるかなあという気がしますけどね。でも、大学云々は関係なく、将棋が好きだったので。その延長ですね。

将棋の言葉で「変化」というのがあるんだけど、もうちょっと違う「変化」もあったのかなあって、たまに考えたりするんだけど、そんな大差ないだろうっていう気はしますね。

松本さんたちが寮でつけていた連絡ノート=写真は松本さん提供

ひとりの自由を維持するためのコスト

ーー亀松:駒場寮って、一つには、自分たちで寮を自治していくとか、廃寮問題に対抗するとかで「連帯する」という面があったと思います。一方で、個人の世界を尊重するというか、ひとりひとりが自由に生きられるようにしようっていう考え方もあったんじゃないかって想像するんですが、そのあたりはいかがですか?

それはまさにその通りだと思います。普段は自由で何も言われないところで、舎監がいるわけでもないし、先輩からうるさいことを言われるわけではないので。

駒寮の良さっていうのはその自由なところだけれども、最低限のコストを支払った上での自由だと思う。その意識がない人が多かったような気はしますね。残念ながら。

今でも社会に関わろうと思ったら、いろんな問題に積極的にコミットできるわけじゃないですか。

例えば僕は今、子供を育ててるんだけれども、政治は本当に何をしてるんだって思うことが多々ある。選挙権があって、いろいろ発言できるわけだけど、やっぱり面倒くさいからやらないっていうところがあるじゃないですか。

駒場寮で感じたことっていうのは、社会に出てもそのまま同じなわけでね。文句言うんだったらお前がやれよって言われると、「はいその通りですね」ってなっちゃうんですよ。だから民主主義ってのは、本当にどこまでいっても面倒くさいものなんだなって、思いますけどね。

で、昔の一高の人たちも「自治が全然機能しない」みたいなことをずっと嘆いていたわけじゃないですか。それは本当に変わらないんでしょうね。昔の人が「日本の民主主義って駄目だ」と言ってるのと同じで、ずっと同じところをループしてるだけですよね。きっと。

【編集部からのお知らせ】この連載「私と東大駒場寮」の続編は、オオスキトモコさんのサイトで更新していく予定です。

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