「カメ止め」で怪演! 50歳すぎて役者を目指した個性派女優の数奇な半生

「いつも前向きでいるよう心がけている」というどんぐりさん。
「いつも前向きでいるよう心がけている」というどんぐりさん。(撮影:萩原美寛)

低予算のインディーズ作品でありながら、口コミで人気が広がって、大ヒット作となった映画『カメラを止めるな!』。出演者がみな、オーディションで選ばれた無名の俳優だったことも話題になっています。個性的な役者陣のなかでも、一度見たら忘れられない笑顔を見せていたのが、明るく笑いながらムチャぶりするテレビプロデューサーを演じた「どんぐり」さん(58)です(映画出演時は竹原芳子。事務所所属を機に芸名で活動)。

『カメラを止めるな!』の中で、どんぐりさんが登場する場面は数えるほど。どんぐりさんが出演するシーンの撮影は1日で済んだそうです。しかし、無責任な調子で大阪弁を操る彼女の姿は、映画を観た人なら誰もが記憶しているでしょう。

どんぐりさんが長編映画に出演したのは『カメラを止めるな!』が初めてでした。50歳になるまで、証券会社や裁判所で働くふつうの社会人だったというどんぐりさん。それがなぜ、役者の道に進むことになったのでしょうか? どんぐりさんは「昔みたドラマの一場面が、強烈に焼きついていた」といいます。

50歳になったとき「あ、信長やったら死んでる」と思った

ーーどんぐりさんは、ごくふつうの社会人だったんですよね?

どんぐり:短大を出て、証券会社で営業の仕事をしていました。12、3年でしょうか。そのあと職安(ハローワーク)で自分の番を待っているとき、裁判所の臨時職員を募集するポスターが目に入って。「履歴書を出しにいくだけでも人生経験になるかな」と思って行ったら、通ったんです。「裁判所に新しい風を吹き込んでください」って言われて(笑) それからは臨時の事務官として働きました。

ーーそこからどういう経緯で映画に出ることになったのでしょうか。

どんぐり:50歳になるころ「人生、これでええんやろか」と思ったんです。「このままでいいんかな」と。そのとき昔みた大河ドラマ『秀吉』の場面を思い出したんですよ。竹中直人さんが豊臣秀吉を演じられていて、渡哲也さんが織田信長でした。信長役の渡さんが本能寺の変で「人間50年」って言いながら炎のなかで亡くなるシーンがあって。それが強烈に焼きついていたんですよ。「あ、織田信長やったら死んでる」と思って。ここから第二の人生やんって気持ちで、NSC(吉本興業のお笑い芸人養成所)に申し込んだんです。

今年はひとりでスイスに旅行。マッターホルンを見てきたという。
今年はひとりでスイスに旅行。マッターホルンを見てきたという。

ーーすごい飛躍ですね。

どんぐり:50歳で悔いを残したらあかんと思って。裁判所で働いていたとき、自分の話が相手にうまく伝わっていないことがあって、話し方教室に通ったんです。そのつながりで落語教室にも通いました。そこで「座ってるだけでおもしろい」って言われたことがあったんです。本当は、ずっとコンプレックスをもって生きてきたんですよ。背が低いとか、おでこが広いとか。同じくらいの年の人は、みんなしっかりした肩書きを持って働いていましたし。

でも、この姿かたちに生まれてきたことにはなんか意味があるな、と。「吉本やったら教えてもらえるやろ」って思ったんです。ネタを自分で作るなんて知らなくて、全部教えてくれると思ってたんで。

ーー『カメ止め!』で演じたプロデューサーにも似たマイペースさですね。

どんぐり:小学校の運動会では、いつもべった(=最後)を、周りに手を振りながら走ってたらしいです。自分では記憶にないんですけど、観にきていた親戚が教えてくれました。「あんたはべったやのに手を振って走ってた」って。

「子供のころは『遠山の金さん』のマネをして遊んでました」
「子供のころは『遠山の金さん』のマネをして遊んでました」

チラシの裏に書いて応募した『カメ止め!』オーディション

ーーNSCを出たあとは、芸人になったんですか?

どんぐり:ピン芸人としてちょこちょこっと漫才劇場みたいなのに出たり、テレビもいくつか出してもらったりしたんですけど、少しずつ離れてしまって。落語教室で教えてくれた落語家の桂文華先生に「弟子にしてください」ってお願いしたこともあるんですが、「ほんな年いったもん、むりむり」って言われて。それもそうやな、と。それで今度は、55歳になったとき、お芝居の勉強をしたいと思って、ワークショップに通い始めたんです。

ーーフットワークが軽いというか、挑戦心がすごいですね。

どんぐり:ワークショップでいらっしゃった今泉力哉監督の映画を観にいって舞台挨拶を聞いたとき、「ものづくりって素敵やなー」って感動して、そこにあった映画のオーディションのチラシを持って帰って。芝居ができるとかできないとか関係なく、そのチラシの裏に名前を書いて出したんです。あとで「ほかの人はちゃんとした履歴書を送ってきたのに、あんただけがチラシの裏に書いて出してきた」って言われました。

ーーそのオーディションが『カメ止め!』への出演につながるんですね。撮影に参加してみて、どうでしたか?

どんぐり:撮影の前にもワークショップがあったんですけど、それがもうできないんですよ。たとえば「42テイクはやばいよね」ってセリフがあって、私も言ってみるんですけど、相手を慰めるセリフのはずが、何度やっても重くなってしまう。あー、えらいもんに申し込んでしもたって思いました。

ーーワークショップで苦労しても、実際の撮影では……。

どんぐり:いやいや。私の撮影は1日だけだったんですけど、ガッチガチになっていて。上田慎一郎監督が私の肩を揉みながら「竹原さん、映画は一生残るから」って冗談混じりに言うので、「ははは、はい!」って。そんな感じでした。エキストラの方がいらっしゃるので、私が失敗すると時間が延びると思って、すごく緊張しました。

ーー失礼な言い方ですが、思っていた以上にまじめなんですね。

どんぐり:(「気をつけ」の姿勢をして)まじめです!(笑)

街を歩いているなかで声をかけられることが多くなったという。
街を歩いているなかで声をかけられることが多くなったという。

「コンプレックスを決めてしまうのは自分」

ーー50歳を過ぎてからのいろいろな経験を振り返ってみて、いかがですか。

どんぐり:私は今まで、人から影響を受けやすくて、「ああしとき」とか「こうしとき」って言われたら、「そうなのかな」って風に、なびくというか、迷うほうだったんです。でもお芝居を勉強するのにあたって、「これからは自分のために時間を使おう」と思いました。友達に電話で誘われたらすぐ行ってしまうので、自分のなかで覚悟を決めようと、携帯を止めたんです。連絡を取れない状態にして。すごく勇気がいりました。でも、そのとき、友達はいっぱいいるほうがいいと思ってたけど、本当の友達は携帯がなくてもなんらかの方法で連絡をくれるし、わかってくれるなって。

結局、自分を守るのは自分しかない。枠にはまって、こうでないとかああでもないとか、そういうものに囚われて会社にい続けることが、私には向かなかった。最後は自分なので。やりたいことをやらないまま悔いを残すより、やって失敗するほうが、自分で納得できるんです。

ーー『カメ止め!』で人生観が変わったところもあるのでしょうか。

どんぐり:上田監督は「生きにくそうな人を選んだ」って、いろんなところでおっしゃっています。そのおかげで『カメラを止めるな!』に出られて、「あ、このままでいいんだ。このまま生きていっていいんだ」って思えるようになりました。結局、コンプレックスは自分が決めているもので、他の人から見たら、「背が低いから何?」「目がちっちゃいからどうしたの?」ってことなんですよね。

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土井大輔 (どい・だいすけ)

ライター。小さな出版社を経て、ゲームメーカーに勤務。海外出張の日に寝坊し、飛行機に乗り遅れる(帰国後、始末書を提出)。丸7年間働いたところで、ようやく自分が会社勤めに向いていないことに気づき、独立した。趣味は、ひとり飲み歩きとノラ猫の写真を撮ること。好きなものは年老いた女将のいる居酒屋。

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