東京・江東区で進む地下鉄「新線」構想 待望の南北縦断路線は実現するか?
1923年に発生し、首都・東京に甚大な被害をもたらした関東大震災。そのときに生まれた大量のがれきを使って造成された東京湾沿岸の埋立地は、豊かな土地に育って欲しいという願いを込めて「豊洲」と名付けられました。
それから95年、東京メトロとゆりかもめが乗り入れる豊洲駅の前では、造船所跡地再開発の総仕上げとして、オフィスやホテル、商業施設が一体となった「超高層複合ビル」の建設が進んでいます。
豊洲の変化は有楽町線(東京メトロ)豊洲駅の利用者数に顕著に表れています。再開発計画が決定した2002年には1日平均約5万人だったのが、2017年に約21万人へと増加。15年で4倍以上になりました。豊洲は今後もビジネス拠点として、また臨海部の交通ハブとして、一層存在感を増していくことでしょう。
そんな豊洲駅ですが、同駅と半蔵門線の住吉駅を結ぶ「新線構想」が水面下で進展しているのをご存知でしょうか。
豊洲駅に設けられた「謎の空間」
まだ正式な名前もついていない地下鉄計画ですが、みなさんはこの新路線の一部を目にしたことがあるかもしれません。
有楽町線豊洲駅にある、一部の列車以外は使わない2番線・3番線ホーム。そして、半蔵門線住吉駅の柵でさえぎられて乗降できないホーム。両駅にはこのような謎の空間があります。実はこれ、両駅をつなぐ新線のために開業時から準備されていたホームなのです。
しかし有楽町線と半蔵門線を運営する東京メトロは、副都心線を最後に新線建設は行わないと表明して、計画から撤退。新線は幻で終わると見られていました。しかし、そこで諦めなかったのが、豊洲駅を抱える江東区でした。区が中心となって路線を建設し、東京メトロに貸し付ける形で実現させようと、具体的な検討を進めています。
舟運の拠点からベッドタウンへ
江東区は江戸時代、江戸城に物資を運ぶ舟運(しゅううん)の拠点として開発されました。小名木川(おなぎがわ)や横十間川(よこじっけんがわ)が直線状に流れているのは、水路として開削された名残です。
近代に入ると水運を生かして川沿いに工場が進出。工員の通勤の足として、水路に沿うように路面電車が開業しました。
江東区には複数の緑道公園があります。砂町緑道公園や大島緑道公園、亀戸緑道公園は、路面電車の線路跡を転用したものです。緩やかなカーブにレールが敷かれていた頃の面影を感じます。
このように工業地域として栄えた江東区ですが、1960年代に大きな転機が訪れます。
公害対策で工場立地の規制が強化され、大規模工場は区外に移転。跡地には次々と団地が建設されました。大手町や日本橋といった都心部を通る地下鉄東西線が江東区内の東陽町まで延伸して、オフィス街への通勤が便利になったこともあり、江東区は都心のベッドタウンへと変化していきます。
南北を結ぶレールは復活するか
江東区がベッドタウン化したことにともない、区内を東西に走る鉄道には、都心と団地を往復する役割が期待されました。一方、南北方向については、都電の撤去が進み、3本存在した南北を結ぶ路線が廃止されました。使命は地下鉄へと受け継がれますが、南北方向の路線は、都心よりの大江戸線以外整備されませんでした。
江東区の面積は戦前の70年間で2倍に拡大。戦後の70年間でさらに2倍に増えたにもかかわらず、区を南北に縦断する交通機関はバスだけとなり、区内より都心の方が出やすい「南北に分断された街」になってしまったのです。
こうしたなか期待されているのが、南北を縦断する地下鉄の新路線です。2000年代の都心回帰と再開発により、東陽町、木場、錦糸町、押上、豊洲と都心の東部にいくつもの核が誕生し、これらを接続する交通網がようやく現実味を増してきました。江東区を南北につなぐレールが復活するのか、その答えは年度内にも示される見通しです。