「成田空港駅」の表示が残る「幻のホーム」 (京成東成田駅を歩く・前編)

東成田駅ホームの向かいに、今は使われていないホームが(撮影・吉野太一郎)

東京の都心から成田空港へ向かう京成電鉄。その本線から、京成成田駅を過ぎて分岐するのが「東成田線」です。唯一の駅、東成田駅に乗降客の姿はまばらですが、かつてはここが「成田空港駅」でした。広報担当者の案内で2019年3月、今は使われていない「幻のホーム」に入りました。その様子を2回に分けて、レポートします。(取材・吉野太一郎)

【京成東成田駅を歩く・後編】 初代「成田空港駅」に漂う「昭和の匂い」

まだ残る「成田空港」の駅名表示

東成田駅に到着した電車(撮影・吉野太一郎)

京成電鉄の都心の始発駅・京成上野から、成田山新勝寺参拝の玄関口・京成成田駅まで約1時間。そこで各駅停車に乗り継いで約5分で東成田駅に着きます。平日日中に停車する列車は1時間に1~2本。1日の乗降客は1723人(2017年度)で、ホームに人影はほとんどありません。

東成田駅ホームの向かいに、今は使われていないホームが(撮影・吉野太一郎)

10両編成の電車が停まれる長大なホームの向かい側に、現在は使われていないもう一つのホームが見えます。1978年から13年間、成田空港と都心を直結する「スカイライナー」が発着していたホームです。

東成田駅の改札口付近(撮影・吉野太一郎)

閑散とした駅のコンコースは広々としています。改札口の脇にある壁で囲われたスペースは、スカイライナーを降りた乗客が空港への連絡バスに向かう、もう一つの改札でした。

京成電鉄の広報担当者の案内で、壁の向こう側へ(撮影・吉野太一郎)

京成電鉄の広報担当者の案内で、壁の向こう側へ入ります。

東成田駅の、今は使われていないコンコース部分(撮影・吉野太一郎)

スカイライナー専用ホームの真上にあたるコンコースは現在、資材置き場になっているほか、当時使われていた用具が残っています。

スカイライナー専用ホームへ通じていたエスカレーター(撮影・吉野太一郎)

ホームは空港と都心を直結する「スカイライナー」と、その他一般列車で分かれていました。スカイライナー専用ホームへと続いていたエスカレーターの、ホームへの入り口は封鎖されています。

今は使われていないスカイライナー専用ホーム(撮影・吉野太一郎)

階段を降り、かつてスカイライナーが発着していたホームへ。京成電鉄によると、テレビドラマの地下鉄の場面の撮影などに、ときどき貸し出すことがあるそうです。

スカイライナー専用ホームの駅名表示板(撮影・吉野太一郎)

駅名表示板は「成田空港」のままです。

スカイライナー専用ホームにある車両止め(撮影・吉野太一郎)

このホームは深夜に一時的に車両を停めておく「留置線」として使われており、線路や信号、架線は現役です。2016年には2代目スカイライナー「AE100形」のさよなら運行で、乗客を乗せた臨時列車が入線しました。

「成田新幹線」と反対闘争に翻弄され…

開業当時の京成成田空港駅。過激派のテロを警戒して機動隊が警備する厳戒態勢だった(京成電鉄提供)

初代「成田空港駅」の東成田駅は、空港ターミナルの直下ではなく、連絡バスに乗り換えて空港まで約10分かかる場所にあります。その経緯をたどると、成田空港の建設を巡る激しい反対運動や、幻の「成田新幹線」計画などに翻弄された苦難の歴史がありました。

成田空港2期工事用地内にあった反対派の要塞撤去に、反対派学生が火炎瓶で抵抗。炎に包まれる道路(1978年2月6日付朝日新聞夕刊から)

高度経済成長で飽和状態になりつつあった東京国際空港(羽田空港)を拡充するため、現在の千葉県成田市付近に新たな国際空港を建設する計画が閣議決定されたのは1966年。騒音や立ち退きなどへの懸念から、地元を中心に反対運動が起きます。

一方、成田から都心へ向かう既存の交通機関は、道路も国鉄も混雑が激しくなっていました。政府は東京駅まで新幹線を建設して約35分で直結する構想をまとめ、東北・上越新幹線とともに1971年に基本計画が正式決定されました。

京成電鉄も、空港乗り入れ計画をまとめましたが、都心までの所要時間の長さなどがネックとなり、空港ターミナルに直接乗り入れるのは新幹線のみとされました。京成の終着駅は、第1ターミナルと、当時計画中だった第2ターミナルのおよそ中間地点となりました。

過激派に放火されたスカイライナーの車両(1978年5月6日付朝日新聞夕刊より)

1972年秋に京成の延伸工事は完成しますが、空港反対運動は過激化して死者・負傷者が続出し、用地取得は遅れ開港が延期されます。京成も新線の橋梁が爆破されたり、スカイライナー車両が放火されたりする被害に遭い、線路や駅は完成から5年以上、使われませんでした。

一方、成田新幹線計画も、騒音を懸念する沿線住民や「途中駅がなくメリットがない」という自治体、特に東京都江戸川区や江東区、千葉県浦安町(現在の浦安市)などの反対運動に遭います。空港付近など一部が着工したものの、こちらも用地取得が進みませんでした。

開業当時の京成成田空港駅(京成電鉄提供)

成田新幹線は1987年に計画が失効しました。主に空港職員や関連施設従業員の輸送手段と見込まれた京成の成田空港駅が、結果的に唯一の空港アクセス鉄道として機能し続け、バブル経済や海外旅行ブームにも乗って、1990年度には2万6126人の乗降客を記録しました。

転機は1988年。当時の石原慎太郎運輸相が「空港利用者の利便性の向上を図るため」として、京成とJRを延伸して、すでに一部が完成していた成田新幹線用の駅に乗り入れる構想を提唱。1991年3月に2代目「成田空港駅」が開業し、京成は悲願の空港ターミナル乗り入れを果たしまします。同時に、初代成田空港駅は「東成田駅」に改名されました。

余談ですが、1990年に開業したJR京葉線の東京駅や、東京~新木場間の一部線路用地は、本来は成田新幹線が走る予定でした。2010年開業の「成田スカイアクセス」にも、成田新幹線の用地が使われています。

東成田駅コンコースに残る広告(撮影・吉野太一郎)

そんな成田空港を巡る激動の歴史に思いをはせながら、再び東成田駅のコンコースへ上がると、成田空港への玄関口としてにぎわった名残が、至る所に残っていました。

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