初代「成田空港駅」に漂う「昭和の匂い」(京成東成田駅を歩く・後編)

東成田駅のスカイライナー専用ホーム階段にあった広告(撮影・吉野太一郎)

1978年から91年まで、初代「成田空港駅」として使われていた京成東成田駅。前編で紹介したホームの取材を終えてコンコースに戻ってみると、スカイライナーが発着していた昭和の時代を刻むものが、あちこちに残っています。平成も終わろうとする今、改めて探ってみました。(取材・吉野太一郎)

【京成東成田駅を歩く・前編】 「成田空港駅」の表示が残る「幻のホーム」

有人改札、灰皿…昭和の名残あちこちに

スカイライナー専用ホームの案内表示(撮影・吉野太一郎)

ホームに残っていた公衆電話の案内表示。日本で携帯電話のサービスが始まったのは1979年ですが、普及が進んだのは端末や通信料金が値下げされた1994年以降。回線数が固定電話を追い抜いたのは2000年のことでした。

コンコースに残っていた「東京銀行」の看板(撮影・吉野太一郎)

今は街の至る所にある外貨両替ショップですが、1998年までは特別に認められた銀行しか扱えませんでした。東京銀行は、かつて日本で唯一の外国為替専門銀行でした。バブル崩壊後の銀行再編で、1996年に旧三菱銀行と合併して「東京三菱銀行」に。2018年に「三菱UFJ銀行」となって、歴史ある銀行の名前は消えました。

東成田駅コンコース部分に残っていた有人改札(撮影・吉野太一郎)

コンコースに残っていた有人改札。

コンコースに残っていた案内表示(撮影・吉野太一郎)

日本初の自動改札は1967年3月の阪急北千里駅(大阪府吹田市)ですが、乗り換えが複雑な首都圏では長い間、有人改札が主流でした。本格的に導入が進んだのは1990年代初頭からです。

東成田駅コンコースに残る広告(撮影・吉野太一郎)

コンコースのクレジットカードの広告には、東京23区の電話番号が局番3ケタで記されていました。4ケタになるのは1991年からです。

コンコースに残っていた灰皿(撮影・吉野太一郎)

ホームやコンコースに灰皿が置かれ、乗客が自由にタバコを吸っていた時代がありました。健康増進法の施行で、首都圏の私鉄各社が駅構内を全面禁煙にしたのは2003年5月1日からです。

コンコースにあったコーヒーショップ(撮影・吉野太一郎)

コンコースにはコーヒーショップがありました。

コーヒーショップ内に貼られていた時刻表(撮影・吉野太一郎)

店内に当時の時刻表が貼られていました。

連絡バスはまだ、空港まで走っていた

広大な東成田駅コンコース(撮影・吉野太一郎)

改札の外へ。成田空港の玄関口だったコンコースは広大です。

空港第2ビル駅へ直結する地下通路(撮影・吉野太一郎)

東成田駅は、空港第2ビル駅から約500メートルの距離にあり、直結する地下道もあります。空港職員や関連施設従業員のほか、空港と行き来する地元住民も使っています。

フェンスに囲われた東成田駅(撮影・吉野太一郎)

外に出ると、高いフェンスが駅や道路を取り囲むように広がっています。東成田駅が成田空港の敷地内にあることが分かります。

千葉県警の警察犬施設(撮影・吉野太一郎)

駅には千葉県警の警察犬の施設があります。かつてここが検問所でした。反対運動や過激派のテロを警戒していた名残です。

空港連絡バス乗り場へ向かう途中にある検問所(撮影・吉野太一郎)

かつて海外旅行客らの重要な足だった空港連絡バスは、現在も走っています。そこへ行くまでに検問所を通らなければなりません。

今も走っている空港連絡バス(撮影・吉野太一郎)

バスは約10分間隔で、第1・第2ターミナルと東成田駅を結んでいます。

ところで、東成田駅は終着駅ではありません。ここから先は第3セクターの「芝山鉄道」です。空港建設の見返りとして、国が1977年に地元に建設を約束した鉄道路線ですが、予定地に空港反対派の土地などがあり、開業は2002年と大幅に遅れました。東成田駅から約2.2キロ、終点の芝山千代田駅の周辺には航空機の整備施設が並んでいます。

芝山鉄道の終着駅、芝山千代田駅(撮影・吉野太一郎)

今は閑散とした東成田駅。1時間に1~3本しか電車が来ませんが、反対闘争や幻の新幹線計画など、紆余曲折を繰り返した成田空港問題のものものしい爪痕を、至る所に残す駅でもありました。

【京成東成田駅を歩く・前編】 「成田空港駅」の表示が残る「幻のホーム」

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