さらば沖縄「デカ盛り文化」元祖の食堂(沖縄・東京二拠点日記 28)

波布食堂のカツが二重に盛られた「デカ盛り」カツ丼
波布食堂のカツが二重に盛られた「デカ盛り」カツ丼

3月17日 『琉球新報』で月イチ連載している「藤井誠二の沖縄ひと物語」の取材で、栄町の超人気店「アラコヤ」、「トミヤランドリー」、「ベベベ」を出展してきた松川英樹さんと「アラコヤ」で待ち合わせた。若いスタッフたちが仕込みで肉をカットして、串に打っている。

インタビューと撮影をしたあと、松川さんと2人で栄町市場場内にある「野菜の酒場 クサワケ」で1杯やり、「潤旬庵(うりずんあん)に移動して、写真を担当してもらっているカメラマンのジャン松元さんと合流した。

栄町ボトルネックの名物の一つ、沖縄そば。やかんからダシ汁をかけて食べる。

松川さんはいまや栄町のリーダーだけでなく、沖縄の飲食業界を牽引するような立場を自負しているが、この間の苦労を聞いた。新報の連載にも、ここにも書けない辛い話がたくさんあった。彼の料理人としての腕前はもちろん天才的だけど、人を引き寄せる魅力の裏側には人生の悲喜こもごもがある。ジャンさんと「栄町ボトルネック」で沖縄そばを食べて、その日は終わった。

どれも量が2~3人前

3月18日 昼前に起き出して、野菜と豚肉、沖縄そばを炒めて、焼きそばをつくって食べた。そのあとは沖縄の出版社ボーダーインクの新書『沖縄[泡沫候補]バトルロイヤル』(宮原ジェフリー)と、同社編集長の新城和博さんの『ぼくの沖縄[復帰後]史プラス』を読む。テレビは通販番組ばかりなのでつけない。

すみれ茶屋で一人ビール。

夕方になり腹がすいてきたので、いつもの「すみれ茶屋」に出かけていって、地魚を煮つけてもらって酒を飲む。主の玉城丈二さんとあれやこれや世間話をする。

この店は常連度がとびぬけて高い店なのだが、ぼくが最近メディアで紹介していることもあり、それを見て訪ねてくる方がときおりおられる。ほろ酔いになったところで、サンエーに寄り、日用品を買って帰宅。

深谷くんと波布食堂へ。

3月19日 今月いっぱいで閉店になる、泊にあるデカ盛り食堂「波布食堂」に深谷慎平君と出かけてみた。創業27年だそうだ。初めて行ってから20年ぐらい経っていると思うが、閉店と聞くと行ってみようという気分になった。

カツが二重に盛られたカツ丼、麺にたどりつかない肉野菜そばなど、この店の名物はどれも量が2~3人前はある。港湾労働者相手の店だから量がハンパないのもうなずけるが、沖縄のデカ盛り食文化の元祖的存在といってもいいだろう。

波布食堂へ。

開店30分前にいったら30人以上が並んでいたが、なんとかワンクール目に入れた。ぼくらのうしろには70~80人が行列しているではないか。みんなラスト波布食堂で、最後のデカ盛りを喰う目的できている。

ぼくはカツ丼を頼んだが、3分の1でダウン。持ち帰りにしてもらった。深谷君はタッパーまで準備してきていて、あらかじめ上にのった肉野菜炒めをそっちに移し、麺から食い始めるという作戦。肉野菜炒めは残ったらそのまま持ち帰ればいい。さすがだ。

BAMBIの照屋有紀さん。

いったん帰宅して、ふくれあがった腹を抱えて寝ていた。夜に竜宮通りで照屋有紀さんが経営するバー「バンビ」に寄って軽く飲む。70~80年代の歌謡曲のシングル版コレクションがすごい。何百枚か何千枚か。なつかしの80年代アイドルの曲をあれやこれやかけてもらいながら焼酎を飲んだ。帰りに、博多ラーメンの名店「一幸舎」が那覇にできたので喰って帰った。

博多・一幸舎のラーメン。

人間が生きることの強さを思う

3月19日 『琉球新報』のぼくのツキイチ連載「藤井誠二の沖縄ひと物語」の取材で、沖縄民謡の唄者・大城琢さんをたずねる。ジャン松元さんと合流して識名園を抜けて、真地へ。

思えば、琢ちゃん(そう呼んでいる)との出会いは古くて、たぶん90年代の後半だったと思う。ぼくは大阪の情報番組でコメンテーターをしていて、毎週大阪に通っていた。自分の取材コーナー「事件後をいく」もやっていたから、週のうち半分ちかくは関西をうろつきまわっていた。

民謡歌手・大城琢。

あるとき四貫島に行き、ある沖縄料理屋をさがしていた。この一帯は沖縄から引っ越してきた人や、沖縄にルーツを持つ人たちが多く住んでいて、沖縄料理の店も何軒もある。ぼくは目指す店とは違った民謡居酒屋に入ってしまい、そこで知り合ったのが琢ちゃんなのだ。

琢ちゃんはそれまで務めてきた精肉卸し会社を辞めて(現在は復帰)、この民謡酒場に働きにきていた。沖縄民謡を歌い、たまに厨房にも入る。だだっ広い畳の部屋にひとりで正座していた。彼は大城美佐子さんの弟子で、夜は「島想い」で唄ってきた。

「島想い」は那覇市西町にある美佐子さんの店だ。美佐子さんの師匠である嘉手刈林昌さん(故人)や、嘉手刈さんを日本社会に紹介したルポライター・竹中労さん(故人)の話で盛り上がり、琢ちゃんが沖縄で帰る1年ほどは毎週のように通うようになり、公私を含めて付き合いが始まった。

ありふれた近所の街並み。

3月20日 この日も「藤井誠二の沖縄ひと物語」の取材で、秋吉晴子さんにインタビュー。沖縄に移住後、シングルマザーとしての環境の整備を求める運動を続けてきた方だ。あるとき、連絡をいただいて、たまにご飯を食べたり、何かの集まりでばったり会うようになった。

前にも書いたが沖縄はシングルマザー率がほかの都道府県に比べてとても高い。取材の前に腹ごしらえをしようと「堂幻」でラーメンを食べて、県庁前で待ち合わせた。今日のカメラマンは又吉康秀さん。県庁前のスクランブル交差点で撮影をしてもらった。

3月21日 午前中の飛行機で羽田へ。そのまま横浜へ向かう。18年前に起きた池田小事件━宅間守(死刑執行)という男に8人の児童が殺害された━の遺族が、その後、カウンセラーになり、その講演を聴きにいくためだ。

本郷由美子さん。壮絶な体験をどういまの仕事に変えていったのか…。たぶん彼女のような例はレアケースだと思うが、大きな喪失体験を経て、それを抱えながら人間が生きることの強さを思う。

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