脳卒中で倒れた私を迎えた、沖縄の空気にホッとする(沖縄・東京二拠点日記 33)
8月某日 7月は沖縄へ行くことができなかった。理由は2つある。1つは前回、沖縄から東京に移動して数日後の6月中旬、脳卒中の一種(右小脳出血)を発症して入院するはめになったからだ。2つ目は神奈川県内にある制作系大学の集中指導で身動きが取れなかった。
突然の激しい頭痛で病院の救急外来へ
モンダイだったのは1つ目だ。夜、1人で鰺フライ定食を食べていると両奥歯から後頭部にかけてこれまで味わったことがない痛みがじわじわと襲った。痛みはだんだんと強くなり、帰宅してからは右の視界が歪み、右足がいうことをきかなくなり、歩くことが困難になった。
これは脳だ、ととっさに思い、近くの総合病院の救急に電話しようとスマホを必死でいじった。この頃は呂律がまわらなくなっていたし、動揺していたこともあり、電話をかけた先(救急病院の案内)で近くの総合病院は開いていないことを告げられたが、ともかく行ってみようと財布とスマホだけ持ってタクシーに乗り、その病院の救急窓口に行ってみた。すると救急外来は開いていた。
ぼくは念のために救急車をその病院の正面に呼んでいたのだが、救急車が到着したときには、救急窓口で申込書を書いている最中だった。書き文字(住所や名前)が乱れ、ほとんど書けない。救急車にはお引き取り願い、救急医師(専門は小児内科)の問診を受けた。その間、意識は朦朧として、吐き気がマックスになり、シンクで食べたばかりの鰺フライ定食を嘔吐した。
すぐにCTを撮ることになり、脳外科専門の医師が駆けつけてくれた。CTを撮るとやはり、右小脳に3~4センチ大の出血が確認されたのだが、幸い意識ははっきりしていて医師とのやりとりはしっかりできたので、除去手術はしないことになった。その夜はICUに入り、各種の点滴で出血部分の血を止め、消毒を続け、脳圧を下げるという対処療法を取ることになった。
理由は高血圧と高脂血症。出血直後の血圧(上)は200を超えていた。血圧が高いことは長年、指摘されていたが放置していた報いか。スマホもなんとか操作できたのでパートナーを呼び、入院書類等にサインしてもらった。右腕の内側に2本の注射針をさし、大量の薬剤を点滴で体内に入れ続ける処置が始まった。
翌朝、寝られないまま入院病棟に移動した。大量の点滴を続けるため、歩行がままならず、人工的に排尿するチューブを付けた。その日の2回目のCTで出血が止まっていることを確認、すぐに理学療法士によるリハビリが始まった。手や腕を動かしたり、箸でちいさな豆粒大のものを横のトレイに移す療法など、いろいろだ。失語症ではなく、運動性構音障害だと言われ、これを書いているいま(発病から2月ぐらいが経過)も呂律がまわりにくいことがあるので、詩集を朗読するなどしている。
ぼくは6人部屋に入った。いろいろな病気の人が1つの空間に入院しているので、夜中や朝方に喚き叫ぶ患者さんはいるし、入院患者を見舞いに来たはずの親族が急に激しく詰問をし出して、その声が大きすぎて廊下に響いたりした。苦情も出たし、やんわり注意した看護士も食ってかかられていた。どうやら娘にあたる人が、歩けなくなった父親を責めているようだった。「食事を残すな!」といった罵詈雑言が聞こえてきた。
ぼくが入院して翌日の夜、「看取り」のようなことをする家族がいたのにもまいった。ぼくのベッドとはカーテンで仕切られているだけで、話し声で何をやっているかが伝わってきた。ベッドに横たわるのは集まってきた人たちの母親で、孫の女の子もいた。巡回してくる看護士も「まもなく逝くから」と明るく話していた。賛美歌のような音楽をちいさい音で流し、お香のようなものも焚いていた。
孫は興奮し、なにやら意味不明のことを口走っている。同じ相部屋の1人は独り言に聞こえるように「いいかげんにしてくれよ」と口走った。ぼくは点滴のチューブにつながれたまま、その気配をうかがっていた。何度もその女性は呼吸が止まりそうだったが、看護士が口の中を吸引すると蘇生したようで、それが夜10時ぐらいまで続いた。けっきょく「看取り」はできず、家族は帰っていった。そのベッドに無言で横たわる女性は生き続け━━寝たきりで意識もあるかないかわからないが━━翌々日に転院していった。
入院8日で退院
ぼくはほんとうなら1か月は入院のところを8日間で出ることになった。入院を続けるより一刻も早く日常生活をしたほうがいいと思えたし、入院生活に精神的に耐えられそうになかった。医師とはちょっとモメたけれど、8日目の朝のCTで病変がなければ退院をゆるしてもらえることになり、無事退院と相成った。ぼくは病院で会計を済ませて小雨の降る中、歩いて帰った。ふらつきがあり、ゆっくり歩いては休みの繰り返しだった。
退院したら、ぼくは杖をつきながら、発症前に始めていた神奈川県内にある制作系大学に通い、集中指導に復帰した。構音障害で学生にぼくの言葉は聞き取りづらかったと思うが、懸命にしゃべった。日常を取り戻したい一心だった。任期途中で病になってしまったので、退院したらすぐに復帰はしたが、同大学の先生たちには迷惑をかけた。
退院しての日常生活や制作実習指導は疲れたが、日常を少しでも早く取り戻すことこそリハビリだと実感した。多少無理してでも何かをひねったり、まわしたり、ひっぱったり、他人としゃべったりすることが病院ではできない。生活していく上での所作がぼくには必要だと思った。いちいち疲れたけど。制作実習の合評会が7月末に数日間開かれ、役目を終えた。
その期間内に名古屋へ移動した。名古屋でドリアン助川さんと、入院中に出版した人物ルポを編んだ拙著『路上の熱量』についての発刊記念トークイベントをやるためだ。『アエラ』の「現代の肖像」に書いた精神科医の齋藤環さん、一世を風靡した「うんこ漢字ドリル」を考案した古屋雄作さん、ドキュメンタリー監督の松江哲明さん、映画監督の富田克也さん、社会学者の岸政彦さん、教育社会学者の内田良さん、劇作家の松居大悟さん、漫画家の清野とおるさん、写真家の石川竜一さんと京都の亀岡で起きた交通犯罪の遺族・中江美則さん、プロサッカー監督の金鍾成(キム・ジョンソン)さんはヤフーの人物ルポコーナーに書いた。
版元は名古屋の風媒社。編集長の劉永昇さんが一冊に編んでくれた。トークイベントは名古屋市千種にある書店の「正文館」2階にあるイベントスペースで開いた。単行本にするにあたり、ドリアンさんとの長い対談も入れた。小説で人物を描くこと、ノンフィクションで人物を書くことを対話した。ドリアンさんの作品『あん』のハンセン病患者をどう描いたかを話した。ドリアンさん(じつは劉さんも)は高校の2年先輩なのだが、ぼくの病のことは事前に知らせておいた。お2人には気をつかわせてしまった。
退院後、那覇へ移動
8月某日 退院したあと、はじめて那覇に移動した。飛行機の気圧の変化が大丈夫か、脳に悪い影響をおよぼさないか心配だったが平気だった。空港から安里の拙宅へ向かう。タクシーの窓を開けて沖縄の湿気をふくんだむっとした空気を吸う。ホッとした。前にも書いたが、ずっと作家の仲村清司さんが拙宅を週に一度は使ってくれていたから、仲村さんの持ち物が置いてある。
入院中からメールで事情を知らせていた玉城丈二さんに生きている姿を見せなければと思い、安里の「すみれ茶屋」に向かった。すみれ茶屋では、丈二さんとじゅんちゃんが、10キロ近く痩せたぼくの顔を見て安心してくれた。もちろん酒はなし。丈二さんが沖縄近海であがったエビスダイを煮つけてくれた。じゅんちゃんに「天然石を数珠つなぎにしたブレスレットが切れたよ。不吉じゃない?」と言ったら「それって、いいことだって言われているよ」と逆の答えが返ってきた。
8月某日 入院してからというもの、酒を飲まなくなったせいか、朝が早い。そして、朝から何度も詩を朗読するようになった。声に出して読むことは、病を患ってから後遺症としての運動性構音障害━━若干だが発語がしにくいことがある━━がすこし残っているのでリハビリとしてやっているのだ。これはドリアン助川さんに強くすすめられた。
詩集を読むようになったのは病がきっかけだ。スチュアート・タイベックの『それ自身のインクで書かれた街』(柴田元幸・訳)を持ってきたのでひらいたページをなるべく声を張り上げて読む。タイベックの短編集『路地裏の子供たち』(同訳)も持っていったので、ずっと読む。
夕方は栄町に行き場内の「おとん」に顔をだした。病室からも連絡していたので心配をかけた。普久原朝充君と深谷慎平君も呼び出した。メバチ鮪の刺身とソーキ(豚のあばら)に煮つけなどと烏龍茶を飲みながら脳卒中について話をする。そうしたら宮古島に赴任中の知り合いの高校教員もたまたまやって来て━━夏休み中で、もともと勤務していた那覇に戻ってきていた。ちなみに関東出身━━ぼくらの病気話に混ざった。
8月某日 初日に買い込んでおいた島豆腐とゴーヤーを炒めて食べる。今日もタイベックの詩を朗読したり、短編を読み続けた。[場所というものに人がどう反応するかは、生まれに左右される偶然である。私はなぜか、自分でも気づかないうちに、シカゴという街を授かっていたのだ。]というタイベックの「『路地裏の子供たちを書いたころ」という日本語版に寄せた一文の一節がスっとからだに入って馴染んだ。1970年代のシカゴのすすけた路地裏が浮かんでくる。夕方、新都心まで歩いていって生活用品を補う。ついでに鮪をウリにしている回転寿司屋に行って何貫かつまむ。時間帯のせいか、一人で食べる回転寿司は落ち着く。なんだかちいさいが、自由を感じる。
てんでばらばらのアドバイス
8月5日 新都心メインプレイスに歩いていって球陽堂書房の店長・新里哲彦さんをたずねた。あらかじめ電話してあったので、彼の休憩時間に合わせて店内に入ると、新里さんは外のカフェスペースで食事をしていて「やっぱり暑いから中に入りましょう」とふたりで冷房のきいた屋内にはいった。小説家・真藤順丈さんを『アエラ』の「現代の肖像」で書くことになっているので、新里さんにもコメントをもらいに行ったのだ。新里さんは真藤さんに対して直に「直木賞を取る」と予言した人物である。
そのあとでジュンク堂那覇店に寄り、仲里効さんと仲宗根勇さん編集の新刊『沖縄思想のラディックス』を買って、店長の森本浩平さんと合流、すぐ近くの緑ヶ丘公園の脇にある「hinode」であれやこれや話をした。あとから琉球朝日放送の島袋夏子さんも合流してくれたが、もっぱらぼくの経験した小脳出血の話。
8月6日 洗濯などをしながら、また島豆腐を食べた。昨日購入したばかりの『沖縄思想のラディックス』を読みながら。評論集なのでスローリーディングで読む。こうして1人で本をゆっくり読むためにこの部屋をつくったのかもと思う。
早い夕方に泊の「串豚」へ。が、開店時間になってもシャッターが開かない。「おとん」のマスターの池田哲也さんと待ち合わせしていたので、「串豚」の隣にオープンしたばかりの「カフェ エバーグリーン」に入ったら、主が「串豚さんは休みたいですよ」と教えてくれた。臨時休業だ。
エバーグリーンはきわめて狭いテイクアウトの店だけど座れるスペースもあるので、そこで池田さんを待つことにした。まもなく池田さんがあらわれて「日本蕎麦でも食べたいねえ」という話になった。そうしたらお客さんの中年の女性が「歩いて20分ほどの店が美味しい」と教えてくれた。池田さんもそこに前から行ってみたかったそうで、二人でふうふういいながら炎天下を歩く。
住宅街の中に「目白大村庵」という暖簾だけ出ているせいか迷ったが、那覇でじつに美味しい手打ちの日本蕎麦が食べられた。食事後に同店の主と話していると、東京の老舗、目白大村庵の三代目だそう。店の外に出てみると、おもろまちの新興住宅地まで来ていることがわかった。
8月7日 「琉球新報」の月イチ連載の取材で、空き地で珈琲屋台「ひばり屋」をやっている辻佐知子さんをたずねる。昼頃に雨が降っていたので、事前に辻さんにメールをしてみると雨があがりそうだから開けるという。普久原朝充くんと、ひばり屋の近くの桜坂劇場内の「珊瑚座キッチン」で待ち合わせた。ここではぼくが非常勤で教えている名古屋の私大の学生だった山田星河さんが働いている。彼女もぼくの病気を心配してくれた。SNSで病室からかんたんに知らせておいたおかげかな。
辻さんは取材を了承してくれて、具体的なインタビュー&撮影などを打ち合わせた。夜は「すみれ茶屋」に寄り、快気祝いで晩飯をごちそうしてもらった。常連さんは玉城丈二さんの同級生たちで、だいたいが70歳代前半なのだが、中に脳梗塞体験者がいたり、まったく病気と無縁で生きてきた人もいて、みなさんがてんでばらばらのアドバイスをくれた。
8月8日 東京の銀座へ移動。沖縄県のアンテナショップ「わしたショップ」で、沖縄民謡歌手の宮里英克さんとトークライブ。『沖縄アンダーグラウンド』をめぐって。宮里さんは18歳で沖縄から東京に出てきたそうだ。宮里さんはトークの終わりに「一九の春」を三線(サンシン)を弾いて唄った。