燃え落ちた首里城、それぞれの思い(前編)(沖縄・東京二拠点日記 番外編)
炎に包まれた首里城
首里城が復興、再建したのは1992年で、ぼくが初めて沖縄に旅したのはその1年前だった。首里城にも足を運んだが、正殿などの建物が完成する一歩手前で、当時は埃くさい巨大遺跡という印象だった。
それからしょっちゅう沖縄に通うことになるのだが、落成した首里城、とくに正殿は眩いばかりの建物だった。内装の豪華絢爛さや歴史的展示物にも息を飲んだ。中国でもない、日本でもない琉球文化がそこに屹立していた。あきらかに独立した国家があったのだということを、感慨とともに実感できる場所だった。
それが、10月31日未明に—原因はいまのところ分電盤からの出火とみられる—起きた火災で、大半が消失してしまった。正殿を含め主な建造物は炎に包まれ、那覇の空の底を照らしたようだった。
首里城の燃えかす
ぼくは早朝にインターネットのニュースでその報を知り、ただただ唖然としていた。沖縄のアイコン的存在である首里城が、30年以上にわたって再建作業が続けられてきた首里城が、なぜ赤々と燃えているのか、何が起きているのかわからなかった。思考が停止した。同時に、悲しみの情を抱くというより、この沖縄の象徴的な建造物が失われることによって落胆する沖縄の友人・知人のことを思い、ぼくも落ち込んだのだ。
正殿の骨組が崩れ落ちるとき、ものすごい音が響きわたったことを首里に住む友人に後から聞いたし、燃えかすが風に乗って広範囲(周囲数キロ四方)に飛散したこともSNSで散見した。
実際に燃えかすの実物を見せてもらった。「はい、藤井さん、これ、首里城」と小さなビニール袋を差し出した彼はぼくと同い年だったが、一瞬、何かわからなかった。真っ黒な燃えかすが入っていた。人からもらったらしいが、大切にしている様子がうかがえた。 とはいえ神棚に祀るような扱いでもなさそうだった。
火災のとき「琉球新報」の「藤井誠二の沖縄ひと物語」のパートナーである写真家のジャン松元さんは、現場に急行していたことを彼のSNSで知った。炎に包まれる正殿の写真。彼の写真は翌日の一面を飾った。が、飾るという言い方がどうもしっくりこない。これも後でジャン松元さん本人から聞いたが、最寄りのモノレールの駅から望遠レンズを使って撮影したのだという。
沖縄の人、それぞれの思い
火災から1週間目の夜、那覇に着くと、毎日のように飲み歩いている栄町や安里近辺に向かった。親しい店の主たちに首里城のことを聞いてみたかったからだ。道端で偶然、会った知り合いにも質問した。上は70歳代、下は40歳代だった。
70歳代の男性は、「琉球が独立国だった象徴が燃えてしまった。それが残念でなりません」と嘆いていた。
「あれは 、沖縄が日本ではなかった歴史を持っていることの象徴。沖縄戦の空襲のときは幼子だったから、首里城が空襲で燃えたことは覚えていないけど、町中があんな炎に包まれていたよ。再建はこれから何年かかるかわからないけれど、できることをしていこうと思うし、寄付金の集まり方をみていると、日本中、世界中の皆さんに関心を寄せてもらっていると思う」
そう言って微笑み、泡盛の水割りをうまそうに飲んだ。単なる象徴というより、すさまじい数の沖縄の人々が殺された沖縄戦の「復興」の象徴が首里城だと言っていいだろう。それぐらい沖縄戦は、生々しい歴史の負の記憶なのである。
別の70歳代の男性はこんな記憶を語った。
「子どものころ、龍潭池とかで釣りをしたり、走り回って遊んだ思い出が大きいな。火災には驚いたけど、焼け残った宝物があることは救われたよ。ふだんは行ったことがなくて、世界で有名な沖縄の観光地と思ってきたけど、いま落ち込んでいる自分にびっくりしている」
40歳代の女性店主は、「ショックを受けたし、信じられない。現実なのかと思う。なぜ燃えたのかわからず、驚いている。いつも近くを通ったときに見上げると朱色の建物があった。いまは急なことだし、どうやって言葉にしていいかわからない」というようなことを、とぎれとぎに言っていた。
そして他の40歳代男性たち数人は、「この喪失感が今後、どういうかたちで沖縄に出てくるか心配している」といった沖縄全体を心配することを口にした。その通りかもしれない。
マブイ(魂)が落ちる
途中で会った友人(50歳代女性)にも心中を聞いたが、「実は自分では(首里城に)行ったことがない」と答えた。彼女は生まれてからずっと那覇に住んでいる。
「那覇に住んでいる私でさえ、内地から友人が来たときに連れて行ったぐらいで、とくに足を運ぶのではなく、いつもそこにあるものという感じだった。そういう人は多いと思うよ。ふだんは気にしないのに、なくなると胸に穴が開いたような感覚に陥る。失意をあらわす言葉が出てこなくて。沖縄の象徴だからという簡単な表現では表すことができない気持ちが胸の中にもやもやとある感じ」
そんな感情が、ぼくが質問をした友人・知人たちの中で渦巻いているようだった。
別の機会に会った友人(40歳代女性)はこんなことをこぼしていた。
「内地のテレビで、沖縄の人たちは本当は首里城に行ったことがない、というところだけを意図的に使ってたいたからムカついた。東京タワーとかと一緒にしている感じがした。行ったことがあるとか、ないとか関係ないよ」
実はその友人も内地から友人を観光的に案内したときに数回、行ったことがあるぐらいで、自分で足を運んだことはない。自宅マンションの窓からは炎と煙が見えたという。
「いまの気持ちはうまく言葉にならんさ。建物が復興されたのは20歳代のときだけど、ずっと首里城はそこにあった。マブイ(魂)が落ちるって沖縄では言うけど、そんな感じかな。でも、失って落ちこんでる気持ちは藤井さんにはうまく伝わらないと思うな」