おでんを食べると感じる「沖縄の冬」(沖縄・東京二拠点日記 41)

「BOOKSじのん」店主の天久斉さんと
「BOOKSじのん」店主の天久斉さんと

揃わない本のない「BOOKSじのん」

12月9日 モノレールに乗って、延伸して完成したばかりの終点「てだこ浦西」駅で降りた。降りた時間帯のせいか、ぼくと観光客らしき2~3人しかいない。駅前はまだ造成工事をしていて、人影はほとんど見当たらない。グーグルマップの計算だと目的地まで歩いて40分ぐらい。腕時計を見ると、まだ約束の時間まで1時間以上ある。よし、歩こう。

さいわい天気はいいし、そよ風が吹いていて涼しい。沖縄ではそこに暮らす人も、観光などで外からやってくる人も関係なく、クルマが主な移動手段だ。行き交う歩行者もめったにいない。ぼくも沖縄でこうやって長時間ひとりで一定の距離を歩くことはめったにない。が、歩行でしか気がつかない街の細部が見えるとうれしくなってくる。

iPhoneに目を落としながら歩くと、いつもクルマで通る幹線道路に出た。これなら、もう自力で行ける。目指すは宜野湾市真栄原にある古書店「BOOKSじのん」。「じのん」とは「宜野湾」を沖縄の方言では読み方が「じのーん」となり、それをデフォルメしたものだ。「琉球新報」のぼくの月イチ連載「藤井誠二の沖縄ひと物語」で店主の天久斉(あめく・ひとし)さんを取り上げるために、あらためてインタビューしにきたのだ。

同店にはぼくが沖縄に通い出したころからよく来ていたが、天久さんとの面識を得たのはずっとあとになってからだ。天久さんの「沖縄本」に関する博識のおかげで、ずいぶん助けてもらった。佐野眞一さんも『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』などで、この店に来れば揃わない本はなく、この店を知らない同業者はもぐりだという旨のことを言っている。「沖縄」を取材するときに資料を探すためにまず訪ねるのがこの店なのだ。天久さんの助言がもらえたら、僥倖なりだ。

社会学者の岸政彦さんのデビュー作ともいえる『同化と他者化―戦後沖縄の本土就職者たち―』という、沖縄から大阪へ働きに出て、再び沖縄へ帰ることになった人々などから聞き取り調査をした傑作というしかない分厚い本があるが、そのあとがきには天久さんへの謝辞が綴られている。

【実は、たまたま私が見つけた二つの記事ー一九五四年の『朝日新聞』と二〇〇〇年の『沖縄タイムス』の記事ーの関連性を指摘し、即座に大城勲氏の歌集の存在を教えてくれたのが天久さんです。そして、歌集に記されてあった連絡先をたどって大城氏に直接お会いすることができました。あの記事の「少年」と実際にお会いしたときの感慨は忘れられません。この出会いから本書が生まれたといっても過言ではありません。天久さんの途方もない記憶力と信じがたいほどの親切に対して、心からお礼を申し上げます。】

記事の少年とは、本書の導入部分に触れられている、1954年に朝日新聞社の招待で上京した大城勲さんである。当時は沖縄の少年と県外の市民が交流することは珍しく、大城少年が朝日新聞に投稿した文通募集の手紙がきっかけだった。大城少年の上京はペンフレンドに支えられ、憧れの東京見物=「祖国への帰還」は終わる。

大城少年は大喜びだった。沖縄の地元紙にも取り上げられた。当時のこの少年の「受け入れ方」こそが戦後の日本と沖縄との「関係」をあらわしていると岸さんは指摘している。大城さんはその後、教員になっていくのだが、天久さんは大城さんが出した歌集の存在を知っていたのである。天久さんはこのエピソードについて「実力以上に褒めてもらって」と謙遜しているが、岸さんが書くように、ぼくから見れば天久さんの記憶力は砂漠の中から針を拾うようなもので、もう感嘆しかない。

すぐ近くの大謝名にある「3びきの子ぶた」という天久さん行きつけの喫茶店でインタビューしたあと、「じのん」に写真家のジャン松元さんが合流。天井まで本や行政関係の冊子類で埋めつくされた店内。まさに好きな人にとってはワンダーランド。そこで撮影をした。

酒を飲まないということ

そのあとは那覇市内へ。いつもの泊にある「串豚」へ。最近は主の喜屋武満さんの顔を見るとホっとする。「おとん」の池田哲也さんとばったり。約束していた落語家の立川こしらさんと、一人落語イベンターの知花園子さんがやってきた。

左から、知花園子さん、立川こしらさん、筆者。池田哲也さん撮影

こしらさんは下戸ではないが、酒をいっさい口にしない。シラフでない状態の自分の思考が嫌だからという理由らしい。それを聞いて町田康さんが30年間1日も休まず呑んできた酒をきっぱりやめた話を書いた『しらふで生きる』を思い出した。

町田さんがジャパニーズパンクロックバンド「INU」時代、町田町蔵という名前で1981年だけ活動していて、ぼくは10代の頃に聴いていた。『しらふで生きる』は自分の認識を変える、ということが主題のひとつだと思うが、こしらさんに通じるものがあると思った。ちなみに、こしらさんも元パンクロッカーという過去を持っている。一度だけ荒木経惟さん主催の飲み会で町田さんとお会いしたときはまだ、浴びるように酒を呑んでおられた。

おでんを食べると感じる「沖縄の冬」

12月10日 今日もジャン松元さんと一緒だ。普久原朝充君を彼が現場の監理を担当している工事現場で撮影することになり、小禄まで出かけた。新しく那覇市保健センターを建設しているのだが、ここには沖縄の旧軍用地問題が横たわっている。旧日本軍が土地を軍飛行場として接収したが、それによって受けた傷や損害などをめぐって戦後、地主たちと国が対立をしていた。

撮影に応じる建築家の普久原朝充さん

裁判でも争われ地主会が大幅に譲歩した結果、今回の苦渋の選択になった。強制的に接収され何の補償もされなかった側への「慰藉事業」としての意味合いもある。地域社会に役に立つ施設をつくるということになり、老朽化していた那覇市保健センターを建てることになった。長い時間がそこには流れている。

ぼくとジャンさんは市の許可を得て現場に入れてもらった。もちろん、ヘルメット着用。ヘルメットを被り、作業服姿の普久原君を初めて見たが、別人のような感覚になった。

撮影が終わったあとは「串豚」にふたりで行った。「おとん」の池田哲也さんも来たので3人で12月から供される串豚おでんを食べる。これが出ると沖縄も冬だなあと感じる。

「串豚」のおでん

『i-新聞記者』を見に行く

12月11日 昼まで原稿を書いて、また桜坂劇場へ『i-新聞記者』を見に行った。ドキュメンタリー作家の森達也さんが東京新聞社会部記者の望月衣塑子(もちづき・いそこ)さんに密着したドキュメンタリーだ。望月記者は官邸記者会見で菅官房長官に蛇蝎のごとく嫌われている。なぜなら、政府与党にとって「うっとうしい」質問をし続ける記者だからだ。森さんがその望月さんに張り付いた。映画の案内状は森さんからもらっていたが行けなかったので、運良く那覇で観ることができてよかった。

このドキュメンタリーはいきなり辺野古問題で始まる。投入されている土砂に赤土が混じっている問題について望月記者が政府を追求していく。レイプ被害者のジャーナリスト・伊藤詩織さんの裁判も並行して撮られている。というのは、伊藤さんをレイプした元TBSの山口敬之氏に望月氏が直撃する取材をしているからだ。映画には森さん独自の対象に対する「斜め目線」はなかったが、望月記者の活動を通じて政治家や記者たちの「忖度」が際立って見えてしまう。その構成の手法がさすが、森さんだと思った。

記者クラブではあえてエッジの立った質問をせず、隠し玉を持っていて、政治家や官僚に直に当てるのが政治記者のスクープだと、ある先達の元新聞記者が言っていたことを思い出した。その言い分もわからなくもないが、権力を監視するという記者の役割を忘れてしまう者もいるのではないか。

映画を見ていて考えたのは、望月記者と他の「一般的」な記者との質問の仕方の違いだ。多くの記者は、どうお考えか、というあらかじめ逃げ道を用意したような曖昧な質問をすることが多い。しかし、望月さんは取材してきた事実を述べたあとに逃げ道をふさぐようにシロかクロかを迫る。だから嫌われる。無援の前線だ。望月記者に援護射撃をしない記者たちは、ふだんは官邸の会見で人畜無害にふるまって、官邸から睨まれないようにしているのだろうかとは穿った見方すぎるか。官邸記者会見に自由に出席できる記者クラブ加盟のメディアの記者たちの気概に、どこかで期待したい自分がいる。

夜は「すみれ茶屋」でひとりで久しぶりにチヌマンを焼いてもらい、喰った。チヌマンのたっぷりの脂が燃えて、小火のような煙が立ち込める。チヌマンは焼き魚にしてこそクセのある脂身が引き立つ。

「すみれ茶屋」の焼きチヌマン

家に歩いて帰った。トイレに入ると、子どものヤールーがいた。ヤモリだ。しばらく、じっと見ていた。かわいいな、と思った。沖縄に通い始めた頃はいちいち追っ払っていたのに。玄関のドアを開け放しておいたらデカいゴキブリが入ってきて照明に向かって飛翔し、声を上げて驚いていた頃を思い出した。この部屋はまだがらんとしていて、友だちを招いて泡盛ばかりを呑んだくれていた。

ウチナーヤマトグチ

12月12日 県議会開会中だ。沖縄市選出の玉城満議員を議員会館に訪ねて、コザに勢いがあった時代の話を聞いた。玉城さんは故・大山朝常氏(元コザ市長)の孫にあたるが、ある世代より上の人は、お笑い芸人やリンケンバンドのボーカリストとしての玉城さんをよく覚えている。「笑築過激団」を率いて、「お笑いポーポー」(1991~93年・RBCテレビ)という番組を見て育った。

いわゆるウチナーヤマトグチでコントを展開する。ガレッジセールのゴリさんもどこかでこれを見てお笑いを学んだと言っていた。ウチナーヤマトグチは、1990年代には一世を風靡した、伝統的な沖縄方言でも標準語でもない新しい「方言」だった。多くの沖縄県外の人が「沖縄っぽい喋り方」と思っているのは、このウチナーヤマトグチだと聞いたことがある。

県議会の建物の1階にはカレー専門店の「AJITOYA」が1店だけ入っている。2019年の那覇カレーグランプリで優勝したそうだ。ここで野菜カレーを食べて、疲れた身体を引きずるようにして空港へ向かった。

「AJITOYA」の野菜カレー

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