『沖縄島建築』を片手に与那原を歩く(沖縄・東京二拠点日記 42)
1月11日 夜、那覇入り。20度以上あって暖かい。タクシーは冷房を入れている。空港から飛行機に搭乗してからもタブレットで映画『アイリッシュマン』を見続けた。3回目になる。3時間29分のマーティン・スコセッシの作品。アメリカ裏社会のカネと欲望と暴力と差別の歴史。マフィア化していったアイルランド系のシーランの回想を軸に描かれていく。原作はノンフィクション作品だそうだが、アメリカの近現代史のリアルを知るためにぼくは10時間以上かけたことになる。ネットの映画配信を宣伝するわけではないけれど、一流の大部な映画をそれなりに理解するためには、複数回見たほうがストーリーもアタマに入り、細部に気づくことも多くなり、演技を味わえ、じわじわと没入できる。少なくともぼくのような凡人にはそれがいい。
「すみれ茶屋」に直行。じゅんちゅんが先に着いていた。主の玉城丈二さんや常連さんと新年のご挨拶。シチューマチの塩焼き土鍋に白ネギを敷きつめた料理などを出してもらう。この数年はメニューがあってないようなもので、仕入れた食材を丈二さんがどう調理するかを決めて、それを客に供する。料理は全部おい美味しいから、食べる側は期待が高まる。常連さんにはいろいろな思想の人がいるが、沖縄の話になると、食い物から政治まで皆一家言持っていて、耳を傾けていると参考になる。酒場の沖縄論はためになるのだ。栄町市場場内の「おとん」に寄って、マスターや常連さんたちに挨拶してから帰宅。
首里城をとりまくもうひとつの現実
1月12日 夕方までインタビューの文字起こし仕事をして、栄町へ出かけ普久原朝充君と深谷慎平君と合流し、「一番餃子」の栄町市場場内の通路に出してあるテーブルに腰掛ける。中国人ファミリーの作る水餃子がおいしくて人気が出て、どんどん通路にテーブルを広げている。要は店の外で餃子を喰うわけだが、これがいい。場内を吹き抜ける風が気持ちよい。てきぱきと接客をこなす若い女性たちはネパールからの留学生。
そのあとは久々に「マンダレー食堂」に行って、松田長潤さんのつくるスパイシーなポテサラ。ミャンマーから来た妻のメイさんとも久しぶり。二人の子どもがすっかり大きくなっていてびっくり。お父さんとはウチナーヤマトグチ、お母さんとはネパール語もまじる。
深谷君のオフィスは首里城の近くにあるから、ぼくはたまに首里に出かける。連日、海外からの旅行者が観光バスで乗り付けてきて、あっと言う間に移動していく光景を見ている。ぼくはかつての首里を知らないが、普久原君はかつて首里高校に通っており、当時は商店街があったという。いまは老舗や名店はあるにはあるのだが、点としてだけ存在していて、線になっていない。沖縄最大の名所なのだから、古くからある商店街があってもよさそうなものだといつも思うのだが、それは昔の話らしい。
去年、首里城が燃えた。不慮の事故火災だった。そのあとに深谷君がSNS(2019.11.22)に反発されることを覚悟して投稿━時期が時期だけに炎上を覚悟で━について話をした。反発どころか、知らなかったという反応が多かったという。ぼくは彼のシニカルな批評眼には唸ることが多いのだが、首里の話は重要だと思うので、長めに抜粋して引用させてもらうことにした。彼は首里城火災という事態に哀悼の意を書き、沖縄の大きな「シンボル」としての首里城を重々理解した上で、あえて『周辺の地域は首里城が存在することで、長年多大な負担としわ寄せ』があったと書き出し、それは大きく分けると『渋滞』と『経済衰退』だと書いたのである。
『まず渋滞ですが、首里城には年間200万人もの観光客が訪れます。日本屈指です。その殆どは観光バスとレンタカーです。一気にどわっと車が押し寄せるピークが、首里城周辺には一日4回あります。しかも毎日ですよ。なので、事故のリスクも非常に高い。しかも、周辺の道路は極めて狭い。ということは、緊急車両が入れない、出られないんです。どんなに道を開けてもらっても、救急車とかは100%入れません。何を意味するかというと、周辺住民は4回の渋滞ピーク時に急病や火事になった場合、死ぬリスクが高いということなんです。首里城が焼失した途端、渋滞はかなり無くなりました。体感では50%減ぐらいです。悲しみとは別に、本音では安堵してます。』
次に経済問題。
『そして経済衰退。200万人も来るんだから、さぞかしそれで潤ってるんだろ、と思う方多いでしょう。しかし、一度でも周辺を歩いたことがある方は、こう思ったと思います。
「あれ、全然お店とかメシ食うところないじゃん…」
実は首里城というのは、バスとレンタカーで直接来させて、真下の地下駐車場に停めさせます。で、見学したら2時間で出ていけ、という運営なのです。ならば、周辺のコインPに停めればいいじゃんとなりますが、首里は場所柄、駐車場が非常に少ないし、むやみに作れない決まりがある。
そう、首里城の運営って、地域を周遊させないようになってるんです。なので、200万人が来る地域とは思えないほど、周辺は人が歩いていません。最近はさすがに増えては来ましたが、車に慣れていない外国人観光客がほとんど。政情不安になった途端、これもガクンと減るでしょう。
首里城の場所には戦後しばらくの間、琉球大学がありました。一時期は一大学生街だったんです。しかも、国際通りに匹敵するぐらいの商店街がありました。連日大盛況だったそうです。』
琉球大学が西原に移転し始めたのは1977年。やっぱりかつては、商店街があったんだ。ぼくは火災直後にある準キー局のレポーターとして首里城火災について地元のいろいろな声を拾ったが、こういった指摘をずばり言ってのけた人はいなかった。
『しかし、首里城が出来た途端、お客さんは激減。それに伴い、商店街はほぼ消滅し、ある意味、閑古鳥さえいない街になってしまいました。今は沖縄屈指の『買い物難民タウン』です。(もちろん首里城があるからこそ賑わっていたお店もありますし、今でも地域に根差して頑張っているお店もあります)
食堂のおばちゃんなんかは「昔の方が良かった。街には人が溢れていた。首里城はなんも地域に貢献しとらん」と言ってました。』
今後、首里城の復興とともに、こうした課題を街づくりにいかしてほしい。
辺野古のドキュメンタリー
しばらくするとNHK那覇放送局の二階堂はるか記者と、デザイン関係の仕事をしている宝田幸子さんが合流。宝田さんは移住してもう10数年。二階堂さんはまだ数年なのだが、去年1月に放送した『辺野古に住んで見えたこと〜移住先の町 4か月の記録』 で見せた彼女の粘りをぼくはすごいと思っている。4カ月間も辺野古のアパートに住み、基地建設について地元の反対派と賛成派のふところに入っていく。
最初はけんもほろろに相手にされないのだが、だんだんと相手は胸襟をひらいてくれて本音を語ってしまう。誰が賛成か反対かがわからなくなるほど「事情」を引き出し、国側の口約束が履行されないことに苛立ちを見せていく。番組は狭い地域の中の「対立」がぴりぴりとした空気感を伝えていた。
いろいろな番組(とくに内地の)が、数時間街を歩いてもほとんどインタビューに応じてもらえず、その印象だけを流す。ぼくも実はある番組でやったことがあるが、ほとんど収穫はなかった。感情が複雑に入り組んだ積年の問題のなかに1日で入っていこうとするほうが無理だし、取材する側が賛成派・反対派で色分けをしようとするから、余計にメディアに対してアレルギーが強くなる。
そこを二階堂記者は時間をかけてクリアした。若い彼女に地域に入り込んでいく過程で相当な精神的な負荷がかかったことは想像に難くないが、オンアエのあと「筋が通っていない」などの批判が聞かれたが、現場の前線の彼らの腹のなかをカメラにおさめたことだけでもドキュメンタリーとして成功していると思う。
取材者はどっぷりと問題につかると、価値観が変わるほどの衝撃を受け続ける。取材をしていく過程で自分が変わっていくのはルポルタージュの醍醐味であるという意味のことをルポライター・鎌田慧さんがどこに書いておられたが、それほど現場の磁力は強い。「内地」から現場に入って心身ともにくたびれ果てたジャーナリストをこれまで何人もぼくは見てきたが、ぼく自身もうねりの高い波のように自分の沖縄観が揺さぶられる。「沖縄を表層で語ると叱られ、深入りすると火傷する」とは作家・仲村清司さんのけだし名言だが、歴史的に背負わされた問題の本質をとらまえるのは、それぐらい心身を削ることなのだと思う。
全員で斜め前の「トミヤランドリー」に流れて、結婚したばかりの主の吉村慎太郎さんと、妻の平沼(旧姓)有佳さんにお祝いご挨拶。
『沖縄島建築』表紙の聖クララ教会へ
1月13日 買い置きしておいた野菜と島豆腐を炒めて食べた。昼に普久原朝充君と合流して与那原にある聖クララ教会へ。彼が監修した『沖縄島建築〜建物と暮らしの記録と記憶』の表紙にもなっている。表紙の角度から教会を撮るために、写真家の岡本尚文さんは向かいの建物の屋上に上がったらしい。
この本はいわゆる有名建築家が設計した建物だけではなく、無名の設計者が手掛けた民家も載っているのがいい。岡本さんが目を向ける建物のたたずまいがすばらしい。建物から時間の経過をダイレクトに感じることができる。クララのあとは周辺の街をふたりで歩く。建築家の解説を受けながらの街歩き。贅沢だなあ。
ついでに与那原駅跡を訪ねた。戦前、沖縄には「軽便」と呼ばれた県が運営する鉄軌道があり、ここ与那原線(那覇━与那原)以外に嘉手納方面(那覇━嘉手納)や糸満方面(那覇━糸満)などがあったが地上戦で破壊されてしまった。あちこちに線路の跡などが残っていて、探して歩くのも街歩きの楽しみになるなと思った。
壷屋にある「陶・よかりよ」に顔を出してスペイン出身の陶芸家、ラファル・ナバス氏の小鉢を買う。キム・ホノ(金憲稿)氏の花瓶も取り置きしてもらった。3~4年前の作品らしい。八谷(やたがい)明彦さんが「誰も買わないと思っていた」と笑っていたが、彼もキム・ホノ氏の作品と出会い、沖縄に移住してきて店をひらいた。伝統をぶち壊したような自由奔放さがゆがみや色調にはみ出している。
キム・ホノ氏以外の作家の作品にも欲しい焼き物があふれていて、ほんとうに困ってしまう。散歩をしていると買い物がしたくなってくるということを大好きな故・植草甚一氏はあちこちで語っているが、僣越ながらこの言葉を思い出した。沖縄の壷屋あたりを歩いていると、もうやちむん(焼き物)が欲しくなって仕方がなくなる。昔はやちむんを焼く登り窯があったところだから、一人でやちむん探しをしているときは夢中になりすぎて周りが見えなくなるのだ。
ジュンク堂に顔を出して森本店長と立ち話。栄町に「ルフュージュ」の大城忍さんが2号店として出したばかりの「二階の中華」へ。ルフュージュのビルの2階にあるのだが、豚のレバーを低温調理したものやジャンボ餃子など、品数を絞ったラインナップは逸品揃い。そしてリーズナブル。