ぼくが毎月の3分の1を「沖縄」で過ごすワケ(沖縄・東京二拠点日記 1)
大好きな沖縄と東京で二拠点生活がしてみたいと思い立ったのは、今から10年ちょっと前のことだ。半年ぐらいさがしまわり、築40年の老朽化したマンションを見つけた。那覇市の国際通りにほど近い高台。そこを地元の若手建築家集団にリノベしてもらい、仕事場をこしらえた。それから毎月一人で那覇に行って、一週間ぐらい過ごして、また一人で沖縄を離れる生活が始まった。沖縄のあらゆることを楽しみ、沖縄で取材もして、こもって原稿を書き、目の前で起きるいろいろな問題に直面して悩む。そんな日々の生活を日記風に書きつづって、随時お届けしたいと思います。
沖縄のノンフィクションを初めて出すことになった
【2018年6月某日】 急遽那覇へ東京から飛ぶ。空港からタクシー乗り場に出ると、いつものムワっとした湿気に包まれて、顔が濡れたような感覚になる。かれこれ200回以上は来ていると思うけれど、このムワっを空港で感じると、ああ沖縄に来たなあと思う。
ぼくは沖縄について、作家の仲村清司さんと建築家の普久原朝充くんといっしょに、『沖縄オトナの社会見学R18』(亜紀書房)や『肉の王国 沖縄で愉しむ肉グルメ』(双葉社)を書いたり、仲村清司さんと社会学者の宮台真司さんの対談本『これが沖縄の生きる道』(亜紀書房)をセッティングしたりしてきたが、単著の長編ノンフィクションは書いたことがなかった。
が、やっと出ることになった。『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』(講談社・8月末刊行予定)だ。沖縄最大といわれた宜野湾市の「真栄原新町」と沖縄市の「吉原」という売買春街が、2010年頃から官民一帯となった「浄化」運動で壊滅していくさまを記録しながら、それまでどこにも出なかった街の人たちの「語り」を聴き取り、街の歴史━つまりアメリカ占領時代の沖縄━をさかのぼった。着想から6年近い時間を経て、やっと世に送りだすことができる。
急遽、沖縄に飛ばなければならないはめになったのは、その本の初校ゲラが4~5日後に出ることになり、校閲担当部署から「引用した資料で東京で手に入りにくいものをすぐに揃えてほしい」と連絡がきたから。資料を揃えておけとは前から言われていたのに、延ばし延ばしにしていたぼくが悪い。初校のときに突き合わせる資料がないと校閲作業が遅れてしまうから、東京での約束をいくつかキャンセルさせてもらって、急遽、那覇の仕事場へ。『沖縄アンダーグラウンド』資料の大半はそこにまとめて置いてある。
友が集まる立ち飲みのモツ焼き屋
二泊できる時間を確保して、初校ゲラと突き合わせながら、資料・史料をダンボールに詰め込んでいく。初校ゲラを見ながら、当該資料の在り処をさがす。使った資料類は大きめの本棚一つ分ぐらいあるが、校閲作業に必要だと思われるものだけを抜いていく。丸二日は時間がかかると思っていたが、わりと資料の整理はいいほうなので、意外にはやく終わった。二日目の夕刻にダンボールを講談社へ発送すると、泊にある「串豚」へ、ゴム草履を履いてぶらりと出かけた。基本、近所はすべてゴム草履で出歩く。
「串豚」は立ち飲みのモツ焼き屋。ぼくと同い年の喜屋武満さんがひとりで仕入れ、丁寧な下処理を施し、焼き上げる。メインの豚の内臓類はどれも絶品だ。16時開店。立ち飲み屋はこの時間帯に暖簾を出すのがベスト。ぼくが17時すぎから誰もいない店内でホッピーを飲んでいると、安里の栄町市場内の「おとん」という居酒屋の主、池田哲也さんがふらりとあらわれ、やがて作家の仲村清司さんも姿を見せた。この店は那覇の友人知人のたまり場の一つになっている。
数年前まで、沖縄に立ち飲み文化はほとんどなかった。沖縄では大勢で集まって腰を据えて飲むというスタイルが一般的だが、「ヤマトスタイル」である立ち飲みがこの数年ですっかり定着した。「串豚」はモツの美味さでも、立ち飲みでも今や草分け的存在で、『肉の王国 沖縄で愉しむ肉グルメ』では「我々の会議室」として取り上げさせてもらった。今は夜になると連日満席になる人気店になった。
東京などでは立ち飲みの店は常連度が高すぎて、ぼくは敬遠しがちだ。『串豚』も例に洩れず常連度はそれなりにある。が、ここは互いに挨拶する程度でべたべたしたところがないし、泥酔者がいない。これは喜屋武さんの目配りが行き届いているからだと思うのだけど、味も雰囲気も名店といっていいと思う。一見さん大歓迎だ。
二拠点生活を始めたきっかけ
毎月、三分の一ぐらいを沖縄で過ごす「二拠点」生活を始めてどのぐらいになるのだろう。ときどき仕事の都合や病気で2~3カ月来れないこともあるが、もう十数年そんな生活を続けている。二拠点生活というとなんだか今風かもしれないけれど、ぼくの場合は、90年代初頭に沖縄が好きになりすぎて、いわゆる「沖縄病」にかかったのが大きい。同じように沖縄発の情報が入り口になって沖縄にハマり、移住してくる人が多いのだが、ぼくは「半移住」というか、「通い婚」のように毎月何日か必ず沖縄で生活をするというスタイルを選んでいる。仕事の都合でそうなった。
ぼくは20代の前半に沖縄を大好きになってしまい、30代の終わりから毎月沖縄で暮らすようになったが、生活や取材で沖縄のさまざまな地肌に触れるうちに、「好き」の意味を考えるようになった。そして「好き」の温度は常に変化して、相対化されてもいった。自分が勝手に刷り込まれていた沖縄のイメージも解体されるようになっていった。沖縄に来ると相変わらずわくわくするけれど、悶々と考え込むことも増えた。
話を戻さにゃいかん。沖縄が好きになって、しょっちゅう沖縄に通ううちに、一人で思う存分いられる空間がほしいと思うようになった。とりつかれたように半年ほどかけて賃貸物件と分譲物件両方で探し、最後に見た、国際通りから徒歩数分の小高い丘にある築40年の老朽化したマンションをローンを組んで衝動的に購入してしまった。
そして、ほぼ同時期にぐうぜん知り合った(道に迷って、たまたま彼らの当時の事務所の前に出たのがきっかけ)若手建築家集団「クロトン」の下地鉄郎・洋平兄弟に依頼し、和室中心の2DKの壁をすべて取り払って広いワンルームにリノベーションしてもらった。クロトンはまだ発足して間もない頃だったけど、事務所には若き才能が集まっていた。
のちに『沖縄オトナの社会見学 R18』や『肉の王国 沖縄で愉しむ肉グルメ』をいっしょに書くことになる建築家の普久原朝充くん(今は別の事務所で働いている)ともこのときに知り合った。ぼくは普久原くんと馬が合い、沖縄各地の「街歩き」をいっしょに始めるようになった。観光客が行かないような、ありふれたごくふつうの街や村。そこをうろつくのだ。沖縄の方言ではマチマーイだ。そのうちにウチナンチュ二世作家・仲村清司さんとぼくが知り合い、三人で「街歩き団」のようなユニットを結成して、さきの二冊をつくることになる。遊びが本になったようなもの。
ずっと複数拠点生活に憧れていた
あらためてうんと昔をふりかえると、ぼくが20代前半で、評論家の岡庭昇さんがまだTBSにいたころ、ディレクターだった彼に声をかけられて、彼の番組を何度か手伝ったことがある。そのとき、映画評論家の故・荻昌弘さんのお宅にお邪魔をする機会があって、少しだけお話をさせてもらった。
荻さんは、日本各地に仕事場を持っていて、東京で三カ所、それ以外に軽井沢と大分県の杵築にあると言っていたことを今でもよく覚えている。国東半島の眺めはいいよ、と。ウィキペディアを見たら、「せっかく自由業なんだから、いろいろと視点を変えて住んでみるということも必要なんじゃないか」という理由が書いてあった。自分の名字にちなんで大分県萩町(当時)にも別荘を所有していたという記述もあった。
あちこちを移動しながら生活できるように、生活の拠点をいくつか持てたらいいなあ、という憧れがぼくのどこかに残っていたのかもしれない。一カ所に居つくのではなく、もっと自由に移動しながら生活したい。そうしたらインターネットによって、それが実現しやすい時代になってしまった。
本当に住みたい土地や街に住んでいるだろうか
ぼくは20歳ぐらいから、ずっと東京に住んできた。大学に入るために名古屋から出てきたからで、べつに好きで東京を選んだわけじゃない。東京に人が多いのは、そういう流れでそのまま住んでいるか、企業が集中しているからだろう。主体的に選び取ったかというと、きっとそうじゃない。
ぼくはけっきょく大学をすぐにやめてしまい、20歳すぎには週刊誌の「兵隊」記者になって、あらゆるところに飛んでいかされた。駆け出しの記者稼業。出版社はほとんど東京に集中しているから、離れることができなかった。ぼくは小学館や集英社の仕事をしていたので、「一ツ橋系」といわれるエリアで働いていた。働きだしたころは、まだインターネットがなかったから、世田谷区内に借りたアパートと一ツ橋界隈の往復がぼくの東京生活のスタート時期の日常だった。
現・世田谷区長の保坂展人さんが東京の代々木で若者処みたいな事務所を開いていた。ぼくは高校時代から彼に私淑していたこともあり、東京に行くとすぐに飛び込んだ。あるとき保坂さんの事務所に、ミュージシャンの喜納昌吉さんがふらりとあらわれた。保坂さんと喜納さんは当時昵懇の仲だったから、東京にくるたびに保坂さんの家に寝泊まりしていた。
喜納さんはときどき事務所に来て、三線(サンシン)を弾いた。このとき沖縄の伝統楽器である三線を初めて聞いて、虜になった。喜納さんは自身の名曲「花」を床に座りこんで唄ってくれた。鳥肌が立つような感覚を覚えた。たぶんそれが「沖縄病」になるきっかけの一つだったと思う。
すぐにでも沖縄に行ってみようと思った。1990年ぐらいだった。当時、よく仕事をしていた「ヤングサンデー」(廃刊)の編集者で同い年の菊池一さんといっしょに、原付バイクで何日も沖縄を走りまわった。道に迷ったら迷ったまま、気ままに走り続けた。知らない街にずいぶん迷い込んだ。
それから沖縄通いが続くようになり、さまざまな沖縄の文化や歴史、自然、人と出会っていくうちに、この土地に住んでみたいという気持ちがちょっとずつ芽生えていった。郷里の愛知県を出てから初めて、自分の意志で住んでみたい土地ができた。うれしかった。それが沖縄だった。
人生の一部になった「沖縄生活」
ぼくは元来、大勢で何かをやることやどこかに「たまる」ことが苦手だったため、保坂さんの事務所からだんだんと足が遠のいた。が、四畳半のアパートだけは保坂さんのマンションの隣に借りていて、当時生まれたばかりの長男の世話によくかりだされた。保坂さんの代理で保育園の運動会に出たこともあった。保坂さんも沖縄が好きだったから、保坂さんの「沖縄経験」を聞くのも楽しみだった。
そのころから沖縄通いが始まった。1年に1回が数カ月に1回になり、やがて毎月になった。沖縄関連の本をむさぼるように読み、友達もできた。沖縄で地元出身の友達ができたこともあれば、大阪や東京でできたこともあった。たとえば、『沖縄アンダーグラウンド』にも登場する畏友の民謡歌手・大城琢は、彼が大阪の四貫島にある沖縄民謡クラブに「出稼ぎ」に来ているときに知り合った。ぼくはほんとうは別の沖縄料理屋を目指していたのだが、間違えて入ったその店の誰もいない座敷に、着物を着た琢ちゃんがいた。正座をしたまま「いらっしゃいませ」と出迎えてくれたのが最初の出会いだった。
いつか沖縄で暮らしてみたい。そう思うようになっていった。ずっと暮らすことは無理でも、人生のうちの何分の一でも住んでみたい。十数年そう思い続けて沖縄に通い、十数年前にやっと実現できた。この十数年は一カ月の三分の一を沖縄にいるわけだから、もう人生の一部になっているといってもいいかもしれない。