「妻が死んだ、俺は自由だ!」そんな気持ちも分からなくもない「ひとり酒」の快楽
妻から逃げる男たち
19世紀のフランスの詩人、シャルル・ボードレールの詩集『悪の華』に収められている「人殺しの酒」(le Vin de l’Assassin)という詩はこんなフレーズで始まります。
Ma femme est morte je suis libre!
Je puis donc boire tout mon soûl.
妻が死んだ、俺は自由だ!これで好きに酒が飲める。(拙訳)
妻殺しのこの詩を初めて読んだ大学生の時分は、「なんて奴だ!」くらいにしか思っていなかったのですが、今では気持ちが分からんでもありません。一応、念のために申し上げておきますと、私自身は妻に悪意を抱いているわけでは毛頭なく、むしろつつがなくやっている方だと思うのですが、ひとり身になることで誰にも気兼ねすることなく思う存分酒が飲めるという考えは、分からないでもないのです。
この詩と同時に頭に浮かんでくるのが、太宰治の『桜桃』という短編小説です。「子供より親が大事、と思いたい。」というフレーズで始まるこの小説の主人公は、まだ幼い子供たちがありながら苦労の見える妻を尻目に、逃げるように行きつけの飲み屋へ行っては店の女をからかうのです。いわゆる「イクメン」とは真逆の男なのですが、本音を言うと彼の気持ちも分からなくはないのです。
時折、あらゆる関係性をあたかも初めからなかったかのように棄却して、ひとり身を味わいたくなることがあります。もちろんそれは、本当に孤独ではないからこそ可能なお遊びに過ぎないのかもしれません。とはいえ、自分はたったひとりきりなんだと思う瞬間を持つことは、それほど無駄なことでもないのではないでしょうか。
大衆酒場には孤独を愛する者たちが集う
私がひとりきりを味わうためによく訪れるのが、いわゆる大衆酒場です。それもまだ明るいうちから。まだ多くの人が働いている平日の早い時刻から酒場へ行くと、同じようにひとりをたしなむ諸先輩方がたくさんいらっしゃって、思い思いの酒に興じております。その中で、友人も家族も職も何もかも捨て去ったかのような佇まいでお酒をちびちびと飲むのです。「俺は自由だ!」とつぶやきながら。
なぜ大衆酒場へ赴くのか。それはまさに妻や子供、職場の同僚などといったあらゆる関係性を捨てた(かのように見える)男たちが集まってくるからにほかなりません。もちろん、友人と語らう御仁もいらっしゃいますが、明るい時間の大衆酒場にはなぜかひとり身を謳歌(おうか)している人が多く集うのです。少なくとも私が足を運ぶところは。
もう子育てをとっくに終え、あるいは初めから子育てなんてしていないような男たちが、風のように現れてはカウンターに腰を下ろし、2、3杯飲んではいつの間にか立ち去っている。そこにまぎれ込んでいると、自分もまた、たったひとりで気ままに生きているような気分に浸れるのです。
人生の孤独に慣れ親しむために
くり返しますが、これは本当に孤独なわけでなく、帰る場所があるからこそできる思考遊戯に過ぎません。その意味では、「いい気なもんだ」と思われても仕方ありません。
ですが、私がこの遊びをやめないのは、単に大衆酒場が好きだということもありますが、人間はしょせんひとりきりの存在なのだと実感し、そのことと戯れながら徐々に慣れ親しんでいくためなのです。いわば孤独の予行練習です。
……まあ、くどくどと書いてしまいましたが、結局はひとり酒の自己正当化に過ぎません。明るいうちから飲みたい日もあるのです。
ちなみに冒頭で引用したボードレールの詩ですが、途中にはこんなフレーズが出てきます。
Elle était encore jolie
Quoique bien fatiguée! et moi
Je l’aimais trop! voilà pourquoi
Je lui dis: Sors de cette vie!
ずいぶんやつれてはいたものの、あいつはまだまだ綺麗だった。俺はというと、
あまりに愛しすぎていた!だからこそ、
こう言ったのだ。「この世から出て行ってくれ!」(拙訳)
なんとも倒錯した男ですが、これはこれで分からないでもないな、と思うのです。