シングルアゲインの「ひとり時間」ふと顔を出す喪失の記憶

「アラフォー」と言われる年齢になった。最近、同い年の友人と約10年ぶりに再会した。

カメラマンとして世界各地を飛び回って活躍してきた彼女だが、コロナ禍のため国内で足止めをくい、ひょんなことから私の田舎に立ち寄ることになった。そして、私の両親をまじえた4人で食事をすることになったのだ。

温泉話などで盛り上がった夕飯の席。中盤、母が友人におもむろに質問した。

「ひとりで寂しいと思うことは、ないですか」

友人は真っ直ぐな黒髪と大きな瞳が印象的な美人で、これまで結婚はせずに独身を通している。

初対面の人にぶしつけなことを、と少しヒヤリとしたが、両親ともすっかり打ち解けていた友人は特に気に留める風もなく、さらりとこう答えた。

「うーん、寂しいということは、あんまりないですね。ひとりでいることがデフォルト・・・あ、つまり普通なので、そういう思考にならないというか。それに、ひとりだったら『仕事でどこどこに行ってほしい』って言われたら、『はーい、行きます!』ってぽんっと行けるから楽だし。家族がいたら、そうはいかないかなって」

「ねぇ?」と明るく同意を求められた私は、「うん」とも「うーん」とも聞こえる曖昧な音を出して、なんとなくその場を凌いだ。こういうとき、つくづく日本語って便利だ。

私にはそれ以前に、それなりの期間、結婚生活を送った経験があった。そしてその結婚生活を維持するために、膨大なエネルギーを費やした。

8年間の結婚生活は突然、終わりを告げた

20歳のとき、旅をしていたインドで前夫と出逢った。25歳になってすぐ、当時の私の赴任先だった沖縄で、籍を入れた。前夫は外国人だった。気の遠くなるような諸手続きを経て、正式に「夫婦」と認められたのだ。

しかし8年後のある日、その結婚生活はなんの予告もなく、突如として終わりを告げることになる。私には唐突に、再び「ひとり」の時間が訪れた。

「ひとりで寂しいと思うことはない」と明快に言い切る友人の言葉に、素直にうなずくことができなかったのには、そんな背景がある。

私は「ひとり」という言葉に身構えることが多くなった。屈託なくさらりと、「ひとり」について語ることができればどんなにいいことか。そんな憧れにも似た気持ちで、友人を見た。

こんな風に奥歯にものが挟まったような言い方になるのは、一度目の結婚生活の幕引きと関係していると思う。ただ、精神分析の専門家ではないので、はっきりと断じることはできない。

ひとつだけ確かなのは、「ふたり」であることが生活のあらゆる側面における前提だった状態から、突然「ひとり」の状態に変化したことに、心身が追いつかなかったことだ。やっと乗れるようになった自転車のタイヤが脱輪して、急に一輪車の運転を強いられたかのような移行劇に、私はついていくことができなかった。

「自分」まで手放すまいと、あらゆることを試した

脱輪後の一輪車運転になんとか慣れようと、思いつく限りのありとあらゆることを試してみた。

結婚していた8年間は、ひとりでぼーっと過ごす時間はなかった。仕事と家のことに加え、前夫と日本社会との「橋渡し」の役割も担っていたからだ。言語以外の文化的・社会的側面を含めた通訳業務が、私のエネルギーと時間の多くを削り取っていた。

一輪車生活になったとたん、私の日常には、ぽっかりと余白が生まれた。

急にできた「ひとり時間」。私は現実と自分をつなぎ合わせる手段として、それまで遠ざかっていた読書を再開した。前にそうしていたように、バスタブの中でページがしわくちゃになるまで本を読んだ。

狼狽する私を見かねた職場の友人に勧められて、アマゾンプライムに加入(当時は今ほど普及していなかった)。ジュリア・ロバーツ主演の映画「食べて、祈って、恋をして」は、離婚した主人公が世界を旅して自分を取り戻してゆく話だが、何十回も何百回も観た。

学生時代によく行っていた一人旅にも、再びせっせと行くようになった。それこそ思い立って、アーユールヴェーダの施術を受けにスリランカまで行ったりもした。気づけば3回も行っていた。

細々と10年ほど続けていたヨガは、別に仕事のあてもないのに、わざわざ200時間のトレーニングを受けてインストラクターの資格を取った。

休みの日には、希望していた人たちに英語を教えるようになった。

「一輪車」の運転もだいぶ上手になった

20代から30代にかけての失われたひとり時間を取り戻すかのように、私は「一輪車運転の上達」という大きな目標をかかげ、これでもかという感じで、ひとり課外活動に邁進した。

それは事情を知っている人から見たらーーあるいは自ら冷静に振り返ればーー痛々しい様だったかもしれない。

しかしそんな様子も板についてきたのか、近ごろは、子育てに追われる姉たちから「あんたは自由に色々できていいね」と言われる始末だ。私は「いや、自ら望んでこうなってるわけでもないんだけど」と心の中で言い返す。たまに、本当に言い返す。

二輪車の脱輪後、私は意識的に練習を重ねたことによって、ひとり時間の楽しみについての考察を深めてきた、ような気がする。

その意味では「ひとりを楽しむ」メディアであるDANROに書く資格があると言えるだろうか(あると言ってほしい)。

時々、心地よい「ひとり時間」の最中に、記憶の向こうのひりつく喪失の記憶が、素知らぬ顔でひょっこり顔を出す。

そういうときは、私も素知らぬ顔で、ひょいと気づかないふりをする。

気づかないふりが前より上手になって、記憶が徐々に、かさぶたになる。

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むらまつまどか

大学卒業後、通信社での報道記者・英文記者を経て、南アフリカ大使館やオーストラリア大使館などで広報業務に携わる。時々、ヨガインストラクター。旅、お風呂、チョコレート、歌、恐竜などが自分の機嫌を取るキーワード。九州暮らしを機に、焼き物やコーヒーにも心惹かれている。

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