オーストラリアの不思議な民族楽器「デジュリドゥ」に魅せられて〜アーティストGOMAの紡ぐ世界(前編)

「デジュリドゥ」という楽器を知っていますか。オーストラリアの先住民族・アボリジナルに代々伝わってきた楽器で、シロアリの侵食によって空洞になったユーカリの木を吹いて独特の音色を響かせます。

1990年代に世界的アーティストのヒット曲に使われたことがきっかけで注目され、今では様々な音楽シーンで用いられています。

このデジュリドゥという楽器が世界的な知名度を獲得する前に、その音色に魅了され、オーストラリアの先住民族居住区に滞在しながら、プロの演奏者になった日本人がいます。アーティストのGOMAさんです。

アボリジナルの伝統的な暮らしを送るデジュリドゥ奏者に師事し、世界を股にかけて活躍するようになったGOMAさんですが、2009年に大きな交通事故に遭い、人生が一転します。脳に障害を負い活動停止を余儀なくされたのです。

数年間のリハビリを経て復帰したGOMAさん。現在はデジュリドゥ奏者としての活動に加え、点描画を描く画家としても活躍するGOMAさんですが、なぜデジュリドゥを追求することになったのでしょうか。

(注)オーストラリアでは近年、「アボリジニ」という呼称は差別的であるとして公的な場で用いられなくなっています。先住民族を表す際は「アボリジナル・ピープルズ」などとすることが多いため、この記事では「アボリジナル」と表記することにします。

誰も知らない楽器「デジュリドゥ」との出会い

ーー日本でも知られるようになってきたデジュリドゥですが、そもそもGOMAさんがこの楽器を始めたきっかけは?

1994年くらいかな。20代になってまもないころですね。僕はダンスをずっとやってたんですけど、ダンススタジオに行ったら、誰かが(オーストラリアから)お土産で持って帰ってきたデジュリドゥがあったのね。「ちょっとやらせてくれ」とやってみたら、すぐ吹けちゃった。デジュリドゥを演奏するには「循環呼吸法」っていうのができないといけないんだけど、それがすぐできちゃったんですよね。

ーー循環呼吸法とはなんでしょうか。

「息を吸いながら吐く」っていう呼吸法です(笑)。言葉にすると「どうやるの、それ?」って感じだけど、そういう方法で音を出すんです。

デジュリドゥは近年、オーストラリア先住民族の呼称である「イダキ」と呼ばれることも多くなっている。(写真:Tourism Australia)

ーーその特殊な呼吸法がすぐにできたと。日本ではマイナーな楽器だったと思うんですが、そこにあったデジュリドゥを譲り受けて、本格的に始めたという感じですか?

それがね、筒があれば作れると聞いて、僕、竹ですぐに作ったんですよ。僕の実家の近くに竹林がいっぱいあって、竹でも作れるって聞いたから、じゃあ竹でやってみようと思って。

ーー作り方はどうやって分かった?

独学です。というか、見よう見まねで。デジュリドゥって、ユーカリの木の中がただの穴になってる作りだから、密度と長さとマウスピースの割合さえ合わせれば多分同じのができるだろうなって思って。なんとなく勘でやってみました。そしたらできたから。

ーーできたから!(笑)

そのころの日本ではデジュリドゥがまず売ってないし、楽器屋さんもそんな楽器のことは知らない。誰に言っても絶対通じないっていうのがスタートでしたね。

ーーまさにひとりで始めたんですね。

そうそう。まだインターネットもなかったから、オーストラリアのカルチャーショップに手紙を送ってCDを送ってもらって、それを聞いて練習するとか、そういう感じでしたね。

ーーそうやってオーストラリアまでコンタクトしないと練習できない状況が続いた中で、知っている人もほとんどいないような楽器を演奏し続けるのって大変かなと思うんですが、途中でやめようとは思いませんでしたか?

やめようって感じにはならなかったですね。循環呼吸が習得できてやってくとね、すごい気持ちよくなるんですよ。マインドがすっきりするというか。

今、ヨガとかマインドフルネスとかって流行ってますけど、デジュリドゥの循環呼吸も結局は呼吸法だから、吹いた後のなんともいえないその爽快感に、魅力を覚えたんでしょうね。

それで、どんどん竹で(デジュリドゥを)作るっていう作業をはじめました。実家の近くに竹林があったから、そこから竹をもらってね。父親が漆をやってたから、その漆を塗ってオリジナルのデジュリドゥを作って売るってことをはじめました。

ーー売ると言っても、そんなマイナーな楽器をどこで売ったんですか?

自分でお店を始めたんです(笑)

大阪の南堀江ってところで、自分でもうお店をやるぞってなって。僕はレコードも好きだったから、デジュリドゥとレコードを並べて売ったりする店を始めました。

ーー楽器は、売れましたか?

全然売れなかった(笑)。本当にごくごくたまに、マニアックな人が噂を聞きつけて来るっていう感じで、まったく売れませんでした。そのお店は結局、2年くらいしか続かなかったんですよ。ほんでお店を閉めて、オーストラリアに行ったんです。

デジュリドゥ発祥の地、オーストラリアへ

ーーデジュリドゥをやりたいっていうのが、渡豪の第一目的だった?

そうそう、日本だとあまりにもマイナーすぎるっていうことで(行った)。ほんとに誰も知らなかったからね。

ーー自作しないと手に入らないくらいですもんね。オーストラリアに行って、まず何から始めましたか?

デジュリドゥのショップがダーウィンにたくさんあるという情報は分かってたから、そこに行きました。その当時はダーウィンのスミスストリートってところにショップがめちゃくちゃあったんですよ。

そこらへんを毎日回って「どこがいいかな」「ここがいいかな」みたいな感じで狙いを定めました。今はもう無いんですけど、「indigenous creation」っていうショップがあって、そこに毎日通って「働かせてくれ」って言いました。

最初は英語も全然しゃべれなかったから難しいんじゃないかって言われたんですけど、店員のひとりの人が日本人の観光客相手にいいんじゃないかと言ってくれるようになって。英語も勉強して、それで雇ってもらえるようになったんです。

デジュリドゥって野菜みたいなもので、蟻がユーカリの木を食べて自然にできるもの。シェイパー(デジュリドゥの製作や仕上げなどをする人)が「きょうの収穫はこんな感じです、どうですか」って、ショップに持ってくる。それを僕が吹いてみて、目利きみたいな感じで「これはいいですね」「これをいくらで買います」みたいなことをやってました。

色々と見せてもらって吹かせてもらって。そこではじめてアボリジナルの人たちとも実際に交流が持てたし、そこから広がりました。

デジュリドゥを受け継いできたアボリジナルの部族・ユルングの人々の伝統的居住地・豪州アーネムランドの海岸(写真・Tourism Australia)

インターネットと伝統コミュニティ、そして「デジュリドゥ・バブル」

ーー先ほど「当時はショップがいっぱいあった」と言われましたが、現在はダーウィンにはお店はないんですか?

今はそういうショップはほとんどないですね。何店舗かはあると思うけど、インターネットが普及してから、がらっと変わりました。本当にがらりと変わりましたね。

ーーというと?少し詳しく教えていただけますか。

ダーウィンで売っていたデジュリドゥは、(アボリジナルのヨルング族の居住区)アーネムランドから仕入れてたんです。アボリジナルの人たちが作って売っている値段って、ダーウィンで売る値段の10分の1くらいだったんですね。

それで、1998年の終わりか99年くらいのときに、オーストラリア政府からの支給で、インターネットがアーネムランドのコミュニティの中でもつながったんです。それを見てアボリジナルの人たちは「俺たちの作ったものがこんな値段で、ダーウィンで売ってる、海外ではさらにものすごい値段で売ってる」って気づき始めた。

そこでちょっとバトルみたいなものが起こったんです。「俺たちのカルチャーこれでいいのか」みたいな議論が出てきて、いろんなショップとも一悶着あってね。

そんなことが色々あって、もうインターネットも通じたから、そこで直接売ればいいじゃないかってなりました。そういう風にして、インターネットの普及とともに、本当にがらりと変わりましたね。

ーーオーストラリア先住民族のコミュニティの過渡期を、デジュリドゥと一緒に見たという感じですね。

まさにそう。それはすごく良かったなと思ってる。本当に最後の最後の、伝統的な生活を見られたと思ってるから。

僕がオーストラリアにいたときに、ちょうどデジュリドゥ・バブルがあったんですよ。特にヨーロッパとかが中心ですね。この楽器を使ったジャミロクワイっていうアーティストが2000年代にワールドツアーを大成功させて、この楽器を使った曲が世界中で売れました。「When you gonna learn」っていう曲があるんだけど、これが世界中で大ヒットした。

僕はそのときダーウィンのデジュリドゥ屋にいた。なんでアメリカとかヨーロッパとかからオーダーが増えてきたんだろうって思ったら、それだったんです。そのとき楽器の値段が10倍くらい上がったんです。

僕がオーストラリアに行った当時は、日本円にすると数千円くらいで売られていました。高いもので1万円か、たまに2万円いくかな、くらい。それが一気に20万とか、30万とかのものが出だした。それをネットで売ってるのをアボリジナルの人が知った。自分たちが必死でブッシュに行って作って、2000円とか3000円で売ってたやつが、20万とかであちこちで売ってるって知ったら、そりゃ怒りますよね。

写真・Tourism Australia

ーーGOMAさんはその大きな変化の前後をどう見ていますか?

物価もそうだし、アーネムランド内にいろんなお店ができて、いろんな企業も入ってきた。若い人たちが急に(スポーツブランドの)NIKEとかのものが欲しくなって、自分でも身につけるようになって。言葉遣いもネットの中の世界の影響を受けたものに近づくようになってきて。ライフスタイル全般的に、伝統がどんどん薄くなってきたというのは感じてますね。

僕らもそうだけど10代後半とか20歳くらいになってきたら都会に憧れて、みんなそっちに出て行くんですよ。それである程度の歳になったらまたアーネムランドに戻ってくる人は戻ってくる、みたいなね。

ダーウィンのショップで働いていたGOMAさん。デジュリドゥ発祥地のひとつである豪州・アーネムランドに住むヨルング族の族長で、後に国際的なデジュリドゥ製作者・奏者として名を馳せるジャルー・グルウィウィ氏に師事することになります。

ーージャルーさんのところでデジュリドゥを学ぶことになった経緯を教えてもらえますか?

ショップで働いていたときにね、仲良くなった友達がたまたまジャルーさんの息子とその兄弟だったんです。「アーネムランドにセレモニーがあって実家に帰るから、よかったらお前もくるか」ってことで誘ってもらった。

それで行くことにしたんだけど、僕そんなに遠いところに行くって思ってなかったんですよ。「車でちょっと行く」って話だったんでね。そしたら、三日三晩くらい、道なき道を行くんですよ。全然ちょっとじゃないやん、みたいな。

ユルング族の居住地・アーネムランド沿いの海岸(写真・Tourism Australia)

ほんで着いたところに、ジャルーさんがいた。そのときはまだ今みたいに名前が出てなかったというか、有名になってなかったから、単に族長のお父さんって感じだったんですけどね。

ーージャルーさんに会って、それで弟子入りしようと思ったんですか?

いや、もう普通に帰り方が分かんなかったの(笑)。ちょっと行くっていうから、何にも持たずに出てきていた。荷物とかも全部ダーウィンに置いたままだったけど、帰るに帰れないぞっていう感じになって。

でも、デジュリドゥのことが好きだったからね、ここでこんないい機会があるからいいかって思いました。ダーウィンにシェアハウスを借りてたし、ショップもそのままだったから、急に来なくなって「あいつどこいったんだ」って思ってたんじゃないかと。でも連絡もできなかったんですよ。

それでちょっと行くつもりが何ヶ月にもなった。最初はジャルーさんのところに2ヶ月くらいいて、1回ダーウィンに戻って、またアーネムランドに行ってという生活を、2年間の間でしばらく繰り返してましたね。最初はワーホリ(ワーキングホリデー・ビザ)で入ったから、2年くらいいられたんです。

師匠の故・ジャル―・グルウィウィ氏(右)

転機、そしてロンドンへ

1998年、GOMAさんはオーストラリアにて開催されたデジュリドゥの国際大会で、ノン・アボリジナルの(アボリジナルではない)奏者として初の準優勝を果たします。

そのときのデジュリドゥの仲間がね、みんなその大会に参加するっていうから僕も行ってみようと思って参加したって感じですね。そんな賞もらえるなんて全然思ってなかった。たぶん物珍しかったんだと思う。「謎のアジア人がきよったぞ」みたいな。

大会のジャッジがギャラウェイ・ユヌピングさんっていう方だったんですけど、アボリジナル界のガンジーみたいな存在の人で。そこが結構、僕のターニングポイントでしたね。ユヌピングさんの「デジュリドゥのことを、帰って人々に伝えなさい」っていう言葉と一緒に賞をいただいたんです。

賞をもらった後も、そのまましばらくショップで働いてたんだけど、自分の中で次の展開を考えたときに、その言葉がずっと気になってたんですよ。帰ってデジュリドゥのことを伝えるんだってことが、なんかずーっと心にひっかかっていて。自分は、日本にこの楽器のことを知ってる人がいなくて、日本を飛び出してきたんだけど、広めるために帰んないとだめなのかな、みたいな、そんな気持ちになってきて。

写真・Tourism Australia

でも、日本では誰も知らないような状態で広げていくにはどうしたらいいかっていうことを考えたとき、やっぱり音楽の力が必要だなって考えたんです。そのときに、ヨーロッパでジャミロクワイがミリオンセラーで大ヒットしてってのがあって。じゃあ彼らがどんな活動をしてるのか、1回イギリスに見に行こうって思いついて、それでロンドンに引っ越ししたんです。

ジャミロクワイのヒット曲「When You Gonna Learn?」。冒頭に登場するデジュリドゥが話題を呼んだ

ーーイギリスに行ったらどんな風でしたか?

ロンドンに行ったらね、道端でデジュリドゥ吹いてる人が多かった。ヨーロッパ中にプレーヤーもいてね。その中で何をしようかと考えたとき、まず大きなマーケットに行って、そこでバスキング(即興演奏活動)をするっていうのを始めたんです。

そしたら自動的に、そういうカルチャーに興味がある人が集まってきて。音楽のセッションをしたりとか、一緒に盛り上げていこうぜという仲間ができてきたりとかして、そこから広がっていきました。

ーー日本に帰ったタイミングは?

だんだん、日本ではフジロックフェスティバルが大きくなって立ち上がってきたころで、そういうイベントに呼ばれることが増えてきたんです。それまでの日本だと、デジュリドゥで何万人も集まる大きなイベントに呼ばれるなんてことは「まず」なかった。

ーー「まず」なかった(笑)

そう(笑)。「まず」なかったの。それで、日本がすごい変わってきたなということを肌で感じたんですよ。その頃ジャミロクワイ自体もちょうど日本に呼ばれて、東京ドームでライブしたんです。それを見たときに「今帰っても、もう大丈夫じゃないかな」と思って、ロンドンから日本に帰りましたね。

ーー帰ってみたら、前の日本と比べてどうでしたか?

全然違う。デジュリドゥっていう言葉を知ってる人が増えてるんですよ。

デジュリドゥのライブをすると、お客さんが見に来てくれる。楽器屋さんで「デジュリドゥ」って言ったら、その名前が通じる。

あとは、空港の荷物検査とかでもこの楽器のことを分かる人が出てきた。

それまでは日本に帰ってくるたびに、全部荷物を開けられて「なんやこの怪しい筒は?」みたいな感じで、毎回その場で吹かされてた。で、吹いたら吹いたで、ぶおーーーんって音がして余計に怪しいっていう(笑)。

そんな風だったのが、まず日本に帰ってくるときの荷物検査のときに「デジュリドゥ」っていうことばで通じる人が出てきた。僕が日本を出てから5、6年くらいで劇的に認知が上がったんですね。それからは日本に拠点を移して、海外にもイベントとかフェスとかに行くっていう生活で、世界中をずっと飛び回ってました。

日本を拠点に、デジュリドゥ奏者として国際的に活躍をはじめたGOMAさん。しかし演奏活動が乗りに乗っていた2009年、都内で移動中に大きな追突事故に見舞われます。全身、そして脳にも損傷を受ける大怪我を負い、日常生活を送ることもままならなくなりました。

(後編へ続く)

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むらまつまどか

大学卒業後、通信社での報道記者・英文記者を経て、南アフリカ大使館やオーストラリア大使館などで広報業務に携わる。時々、ヨガインストラクター。旅、お風呂、チョコレート、歌、恐竜などが自分の機嫌を取るキーワード。九州暮らしを機に、焼き物やコーヒーにも心惹かれている。

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