「好きなことを続けただけ」米国出身の「不良留学生」が狂言師になった理由

米国・ミズーリ州で生まれ育ったクレイグ・キングスリーさん(60)は、日本で30年以上のキャリアを持つ現役狂言師です。福岡を主な拠点として、国内外で数多くの舞台を踏んできました。クレイグさんは1985年、交換留学生として初来日。日本に特別の関心はなく、日本語も勉強しない「不良留学生」だったといいます。

そんな彼がなぜ、異国である日本に住み続け、狂言師にまでなったのか。「自分は特別じゃない」というクレイグさんに、話を聞いてみました。

初めて狂言を見たとき、言葉がわからなくても大笑いした

――狂言師として長年活躍されていますが、この世界に入る前から日本とのつながりがあったんですか?

クレイグ:まったくのゼロです。つながりも興味も、全然ありませんでした。日本文化についてもほとんど知らなかった。スペインに住んだことがあったので、外国語としてはスペイン語が流暢に話せて、スペイン語圏の方に興味がありました。

――ではなぜ日本に住むことに?

クレイグ:交換留学の行き先が日本だったんです。こう言うと「やっぱり日本に興味があったんでしょう」と思われそうですが、そうではなくて。

アメリカの大学を卒業後、大学院に進むことが決まっていたんですが、入学までに1-2年くらい時間がありました。その間なにをしようかなと思っていたときに、父親に交換留学のプログラムに参加するよう勧められたんです。

父は当時、交換留学プログラムの運営をしていて、日本に送る学生の数が足りず困っていました。1980年代半ばの日本は、行き先として全然人気がなかった(笑)。私が行けば頭数が揃うからと説得されて、「じゃあ行くよ」と日本行きを決めました。

日本行きの飛行機の中で、<Yesは「はい」、Noは「いいえ」と言う>と覚えました。あと知っていた日本語といえば「スシ」と「カラテ」くらいかな。

<片言すら話せない状態で始まった日本での暮らしに、クレイグさんは大きな戸惑いを覚えたといいます>

クレイグ:ひどいカルチャーショックでした。ミズーリから比べると、とにかくなんでもサイズが小さい。アパートの部屋なんか実家の自分のベッドルームの半分くらいしかないわけです。

そもそも日本に興味があったわけでもなく、言葉も分からない。大学で勉強せずパーティーばかりの不良留学生でしたね。

<そんなある日、目的もなくぶらぶらしていたクレイグさんを見かねた大学の先生が、彼を能楽堂のある住吉神社(福岡市)へと誘います>

クレイグ:そこで、生まれて初めて狂言を観ました。何を言っているのか言葉はさっぱり分からなかったけど、とにかく面白くて大笑いしました。「うわー!これ、自分でもやってみたい!」って思ったんです。

<これまでに狂言の海外公演を多数こなしてきたクレイグさんによると、日本語を解さない観客ばかりでも、客席には笑いが沸き起こるそうです。字幕がある場合とない場合で、笑いの大きさにほとんど差はないと言います>

クレイグ:だから私は特別じゃないんです。狂言が扱うのはつまり、人間の性(さが)。それは言葉が違っても、世界どこに行っても同じ。

誰かが、別の誰かから、何かを奪おうとする。衝突と和解。泣き、笑い。文化によって細かい表現の仕方は違うかもしれないけれど、感じる本質は同じなんですね。

狂言は「30年やったら、なんとなくできるようになる」世界

――日本の生活で感じていた居心地の悪さは、狂言との出会いで解消されましたか。

クレイグ: まあ、解消されたというか、気にならなくなりました。目的ができて、ここ(日本)にいる意味ができたのが大きいでしょうね。

それに、プロジェクトみたいにゴールに向かって行くのが好きなタイプなんだと思います。狂言ができるようになりたい一心で、日本語を真剣に勉強するようになりました。

2年間本気で日本語を勉強した後、狂言ができるところを調べたら「福岡大蔵会」というのが出てきました。

――入会したいと言ったとき、会の方の反応は?

クレイグ:んー、少し驚いたかもしれないね。でも、そういうことはあまり考えませんでした。ただ、そのときに渡された狂言の台本を読んだけど、よく分からなかったんです。

大蔵会の先生はちょっと申し訳なさそうな顔で「この台本は子ども向けなんですけどねぇ・・・」と言いました。こりゃまだ駄目だな、と思って、もっと日本語を勉強しないといけない、と。今振り返ると、子ども用といっても、日本人でもよく分からないと思うけど(笑)

<大学院進学のために一度は米国へ戻ったクレイグさんですが、卒業後に再び来日。大蔵会・茂山忠三郎氏の弟子となり、日本で狂言師としての活動を続けてきました>

クレイグ:狂言をはじめてしばらくして、師匠が「狂言は30年やったら、誰でもなんとなくできるようになります」って言ったんです。「えー!30年で『なんとなく』かよ?」ってびっくりしたんだけど、まあ、彼は正しかった。こんなに時間をかけるとは思わなかったけどね。

狂言は「型」の数が多いんです。手を広げたときの指と指の幅のわずかな差で、表す意味が違ってくる。型になっていないと、いくら観客を楽しませても、それは狂言ではなくなってしまう。30年以上経って、私も「なんとなく」できるようになりました。

ーーそういう意味でも、クレイグさんは特別じゃない、と。ただ、日本独自の「型」に窮屈さを感じたり、もっと自由なパフォーマンスをやりたいと思ったりしたことはありませんか。

クレイグ:感情を表現する演劇の手法には、自分の内側をじっと観察して外へ表出する方法と、まず外側の表情や恰好を作ってから、それに合う感情を見出す方法があります。

私はもともと後者のタイプだったけど、狂言の型っていうのは、その究極の形という気がしますね。私は現代劇の劇団を主宰したこともありますし、宝塚と狂言で共演をすることもあります。

「日本人より日本人らしいですね」とよく言われます。でもね、私はそういうのがなんかよく分からない。

友人に、筑前琵琶の最後の演奏家の一人という人がいるんだけど、彼も外国人です。昔、(福岡の)中洲でカントリーウェスタンのバーをやっていた日本人の知り合いは、その後アメリカに渡ってCDまで出しました。

そのほかにも色んなことを色んな人が勉強したりしてるけど、みんな自分の好きなものを見つけたってだけ。ただ好きなことをやり続けているというだけです。だから私は特別じゃないと思ってます。

これからも狂言を世の中に広める活動を続けたい。世界にも、そしてちょっと悲しく聞こえるけど、日本国内にも狂言の魅力を伝えていきたいですね。

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むらまつまどか

大学卒業後、通信社での報道記者・英文記者を経て、南アフリカ大使館やオーストラリア大使館などで広報業務に携わる。時々、ヨガインストラクター。旅、お風呂、チョコレート、歌、恐竜などが自分の機嫌を取るキーワード。九州暮らしを機に、焼き物やコーヒーにも心惹かれている。

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