僕がフリーランスで国際協力に挑む理由 「一人でも、きっと世界は変えられる」(ひとり国際協力 1)

2014年の春、大学1年生だった僕はフィリピンの首都マニラに滞在していた。

「就活で使える話題作りができればいい」。そんな薄っぺらな動機から参加したスタディツアー。そこで出会ったある一人の少女が、僕の人生を大きく変えた。

ツアーがはじまり、最初の5日間はただ活動を楽しんでいただけだった。ストリートチルドレンに炊き出しを行い、スラム街の子どもたちにお菓子を配って写真を撮り、孤児院で折り紙を教える。日本のNGOが学生向けに実施する「お試しプログラム」としてはありきたりな、大学生のボランティアだった。

マニラ滞在最終日の昼。午前中に最後の活動を終え、僕は日本への帰路に就くため空港に向かっていた。

「楽しかった」「日本に帰ってもやれることを続けよう」。初めての海外ボランティアを終えた僕は、心地よい疲労感を感じながら、6日間の思い出を振り返っていた。

孤児院に暮らす子どもたちと筆者(2014年撮影)

そんな時だった。車の渋滞に巻き込まれ、ふと窓から外を見ると、ボロボロのワンピースを着た7歳ぐらいの小さな女の子が、渋滞で止まっている車の窓ガラスを叩きながら物乞いをしていたのだ。

彼女は裸の赤ん坊を抱えていた。顔は笑っていなかった。それまでに出会ったどの子どもよりも悲しく、みすぼらしい格好に見えた。

言葉が出てこなかった。「なぜこんな危ない場所で彼女は物乞いをしているの?」。そんな疑問が芽生えるとともに、「僕がやってきた活動はいったい何の意味があったのか」「他にも目を向けるべき問題があったのではないか」と、強い後悔に襲われた。

その時、自然と心の中に芽生えた言葉が“世界の不条理”。

クーラーの効いた教室で、興味が持てない授業をダラダラ聞いている僕のような学生がいる一方、飛行機でほんの数時間移動した先には、危険を冒してまで物乞いをしなくてはならない小さな子どもがいる。

どうしてこんなにも世界は不条理なのか、アンバランスなのか。僕は空港に着くとトイレに駆け込み、涙をこぼしていた。

それからの学生時代、僕は駆け抜けるように「国際協力」を続けた。

学生団体を立ち上げ、貧困問題がより深刻とされるバングラデシュで、ストリートチルドレンの生活支援に取り組んだ。アメリカに渡って1年間国際政治学を勉強し、マクロな視点から世界が抱える課題を研究した。ウガンダに5カ月滞在し、元子ども兵の社会復帰支援に携わった。

大学4年生の時には就職の道を捨て、アフリカ支援のNGOを起業した。クラウドファンディングでお金を集めて南スーダンの難民に衣(医)食住を支援し、日本各地でアフリカの実情や国際紛争の解決を訴えて講演するなど、学生ながらバリバリ活動していたほうだと自負している。

南スーダン難民の人道支援に携わっていた時の筆者

在学中にNGO立ち上げ…卒業直後にうつ病に

ただ、そんな順風満帆に思えた僕の「国際協力」も2018年、一度ストップしてしまった。ウガンダに渡航する直前の5月30日、会議中に突如パニックに陥ったのだ。プレッシャーが限界になり、泣き叫んで、そのまま過呼吸になった。

正確に言えば、「適応障害抑うつ」という心の病気を発症した。在学中からのハードワークに加え、周りから感じるプレッシャーや大学卒業という環境の変化に体が追い付かず、「一度休んだほうがいい」と脳がブレーキをかけたのだと思う。

仕事から完全に離れ、ひたすら休むだけの生活が続いた。朝起きると鉛のように体が重く、何もやる気が起きなかった。空を見上げると、まるで雲が自分にのしかかってくるような、そんな沈むような気持ちになったのを今でも覚えている。

その一方で、がむしゃらに働いてきたからこそ「何もしない」という状態にしばらくは馴染めず、休んでいる自分を見てはどこか罪悪感に襲われていた。

「消えたい」「死にたい」と、泣き叫んでしまった日もある。

その後半年間休んだのちに、僕は、自ら立ち上げた団体から離れることを決めた。自ら起業した団体を、自らの意志で辞める。この決断をするには、言葉では表せないほど大きなエネルギーを使った。

でも、もうその頃には「組織で働いている自分」を想像することは難しくなっていた。

フリーランスで国際協力。この働き方は、きっと新しい

サバンナの夕焼け

それから4カ月が経ち、僕は、アフリカのウガンダでこの記事を書いている。2019年から僕は「フリーランス国際協力師」という肩書を名乗り、個人で活動を再開することにした。

これまで国際協力は、国際機関やNGOをはじめ、どこかの「組織」に所属しながら実践する活動とされてきた。それに対して、僕は「フリーランス」として働きながら世界を変えることを試みる「新しい国際協力」を追求している。

時には現地NGOに入って公衆衛生の啓発など草の根支援を行い、時にはウガンダ人とYouTubeでアフリカが抱える経済格差や子ども兵などの問題を発信し、時には日本で学生対象に講演活動を行い、時にはブログで活動の様子を記事にしている。

この働き方は、きっと新しい。おそらく、まだ誰もやったことがないだろうし、少なくとも僕は先例を知らない。

「お前がやっている活動は国際協力じゃない」と批判されることもある。正直、組織のチームワークと資金力で国際協力の王道を進む人からしたら、現地で雇用の一つすら生み出していない今の活動は理解しがたい働き方かもしれない。

まだ駆け出したばかりの身ではあるが、個人での国際協力には可能性と限界、どちらも感じている。でも、新しい分野を開拓していくこの感じにワクワクするからこそ、もう一度自分を信じながら進んでいきたい。

ひとりでも、きっと世界は変えられる。フリーランス国際協力師としての活動をこの連載コラムで伝えていきたい。

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原貫太 (はら・かんた)

1994年生まれ。フリーランス国際協力師。早稲田大学卒。フィリピンで物乞いをする少女と出会ったことをきっかけに、学生時代から国際協力活動をはじめる。これまでバングラデシュのストリートチルドレンやウガンダの元子ども兵、南スーダンの難民を支援してきた。

大学在学中にNPO法人コンフロントワールドを設立し、新卒で国際協力を仕事にする。また、出版や講演、ブログを通じた啓発活動にも取り組み、2018年3月小野梓記念賞を受賞した。

大学卒業後に適応障害を発症し、同法人の活動から離れる。半年間の闘病生活を経てフリーランスとして活動を再開。現在はアフリカと日本を行き来しながら、国際協力をテーマに多様な働き方を実践している。著書『世界を無視しない大人になるために

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