京王線を西へ。森や草原が誘う「癒やしの異世界」(大都会の黙考スポット 10)

片倉城跡公園の丘の上に広がる大草原
片倉城跡公園の丘の上に広がる大草原

ふだん東京のネットベンチャーの慌ただしい現場に身を置いている筆者が、大都会の喧噪から離れ、ゆっくりと物思いにふけることができる「黙考スポット」を探索するこのコラム。今回は、京王線を西に向かってみた。

普段乗ることのない京王線で西に向かい、降りたことのない高幡不動駅で降りる。

高幡不動尊金剛寺の境内をそぞろ歩き、自然豊かな多摩丘陵に登って、スタジオジブリの映画で見るような風景に出会う。「ご神木」や「森の神」のような大蛇に遭遇する。

その日は朝から打ち合わせと称して、知人も一緒に「黙考スポット」の探索に付き合ってもらっていた。近所に住む知人の車に乗って、引き続き、この京王線の西側地域を巡ってみることにした。

大きな空き地に「この木なんの木」

高幡不動駅の北側を流れる「浅川」

高幡不動駅の北側を流れる「浅川」沿いを車で走る。多摩川の支流である「浅川」。それほど大きな川ではないが、川辺に緑が溢れ、コサギなどの野鳥も多い。僕らが都心で見かける「川」たち、また僕がイチオシしていた隅田川や善福寺川と比べても、圧倒的に癒やしレベルが高い。100年前から変わっていないであろう光景。「憧憬なる川」だ。

しばらく車を走らせると川のそばに、大きな空き地があった。雑草が生い茂っている、だだっ広い「空き地」。都会で働き始めて20年。日常「空き地」を見ることなどない。誰もいない空き地、真ん中に1本大きな木がそびえたち、「この木なんの木気になる木」のようだ。近くには浅川が流れ、閑静な住宅街で空が広い。何もない「空き地」がまさかの黙考スポットになる。

浅川近くの空き地

川沿いを散歩してみる。遠くの空を優雅に飛んでいるのは鳶(トンビ)だろうか。都会だとカラスに見えてしまうだろう。歩きながら顔に当たる風がとても柔らかい。

平日の温泉施設でリフレッシュ

都心の川とはレベルの違う癒やしを満喫したのち、知人から「近くの日帰り天然温泉でも寄って解散しますか」と提案があった。自然に心が癒やされたあと、温泉でカラダを癒やすというフルコースだ。

おじさんとは不思議な生き物だ。若い頃好きじゃなかったものが、おじさんになると自然に好きになってくる。歴史ものだったり、漬物だったり、スナックだったり。僕にとって「温泉」もその一つだ。

京王高尾線の京王片倉駅近くにある「竜泉寺の湯」という温泉施設に入った。都心にある小さな銭湯と比べると、この東京郊外にある温泉施設は、想像以上に広くて綺麗だった。露天風呂はもちろんこと、高濃度炭酸泉や岩盤浴、電気風呂、ジェットバス、漢方サウナなど種類が豊富で、時間の許す限り堪能できる。

最近は「サウナブーム」もあって、仕事の付き合いの一環として、会食やゴルフの代替のように、サウナやスーパー銭湯にお誘い頂くこともある。後楽園「スパ ラクーア」、新宿「テルマー湯」、錦糸町「東京楽天地」。施設が綺麗でお酒も飲めるし、都会のエンタメ・交流スポットとしては満足できるけれど、お客さんがたくさんいて猥雑としていて、「ひとりスポット」として黙考することは難しい。

それに比べて、都心から離れた京王線の片隅にたたずむ温泉は、平日であればお客さんもまばらで、一人で考えごとが出来る。入浴料も都心と比べると安い。電車の移動時間が気になるが、今日のように通勤タイムに逆行して向かえば、閑散とした車内で考えごとが出来るので、混み合った通勤電車に乗ってオフィスに向かうよりも、実はコスパもいいのではないだろうか、などとふと思う。

サウナと温泉は、入浴と休憩を何回か繰り返すと、カラダが「ととのう(整う)」らしい。僕は熱いのが得意ではなかったけど、基本ルールに則って繰り返した。毎日の入浴なんて20分ほどで終わってしまうが、いろんな湯を試してみたり、休憩のインターバル(とても重要らしい)を入れたりしていると、気づくと2〜3時間は経ってしまった。

これが『ととのう』ということか」

湯上がりで外に出ると、日が傾きはじめている。涼しげな風が湯上がりの肌を通り抜ける。

「ん、なんだこの感覚は…。風が異様に気持ちいい。これが『ととのう』ということなのか…」

自然の風に当たることを楽しむように、帰りの最寄り駅までゆっくりと歩き出す。なるべく風に当たっていたいので、このまま電車に乗りたくない気持ちになる。スマホでグーグルマップを確認すると、近くに小川が流れている。

湯殿川

午前中に散歩した「浅川」よりも小さな川で、都心で言えば神田川ほどだろうか。小川沿いをゆっくりと歩く。どこか懐かしさを感じる夕暮れ。「湯殿川」という、奇しくもトンビ舞う「浅川」の支流であった。川沿いは住宅街のようだが、人気はあまり感じない。静寂だ。

昭和にタイムスリップしたような森

歩き進めると右手に大きな森が見える。田んぼや水車も見え、小さい子供が水辺で遊んでいて、昭和にタイムスリップしたようだ。最近、森を見ると入らずにはいられない僕は、日の暮れる森に入ってみる。その日の朝に高幡不動近くの多摩丘陵に登っているので、本日2軒目の森であり、森のハシゴだ。

雑草をかき分けるように古代人が作ったような段を駆け上るのは、もうだいぶ慣れた。夕刻の森は朝の森とは異なり、鳥のさえずりよりも、蛙や虫の鳴き声が目立ち、昼と夜で違う顔をのぞかせる。

水車のある風景

木片で作られた階段を淡々と登っていくと、そこに普段見かけない茶緑の物体が、どっしりと設置されていた。僕が森に登っていくのを阻むかのように、その物体は堂々と構えている。円形なのか四角なのか、近づくまでその形態はハッキリとせず、とぐろを巻いているかのように見える。

それは、本日、2匹目の大蛇だった。

一応、ここは住所では「東京都」である。東京都で1日2回、大蛇に遭遇することなどあるのだろうか。檜原村や奥多摩ではない、東京都下の住宅街近くの森である。

その大蛇は細い道の真ん中で、森を守る守護神のように、とぐろを巻いていた。

「この道はとおらせんぞ!」と通せんぼをしているように感じた。僕はひるんだ。このままおとなしく引き返すべきなのだろうか。

本日2匹目のヘビ

いや、東京で1日に2回も大蛇に遭うなんてことはスーパーレアで、これはむしろ、わざわざ玄関口まできて「ようこそおいでやす」とウェルカムサインを送っているのではないだろうか。

僕は大蛇さんに足首を噛まれる想像をかき消しながら、そーっと大股でまたいで、足早に森の中へ駆け上がった。森の中に分け入る小道は、丘を登るようにして上へ上へと続き、クネクネと蛇のように蛇行していて、ゴールがいつまでも見えない。草木をかき分けながら、夕暮れ時の森をひたすら進んでいくと、人間社会に生きていたことを忘れ、タヌキになってしまったような気分だ。

丘の上に広がる草原

森の上にある草原に異世界を感じる

その一帯は「片倉城跡公園」で、もともとは高台にあるお城だったようだ。

斜面を登り続けて、ふくらはぎが少し痛み始めたところで、頂上近辺に近づいたようだった。森の木々が視界から消えて、目の前に牧草地のような草原が広がった。

「丘の上にこんなにも広大な草原が…」

そもそも「草原」なるものも、人生でほとんど見たことがない。整備された公園の「広場」は訪れたことはあるが、「草原」は僕の生まれた茨城県でも見たことがない。アニメ「アルプスの少女ハイジ」でしか観たことがない。

広場に生える雑草とは異なる、柔らかな緑の草が、小高い丘の頂上に吹く風に揺れて、音を立てる。木々の葉が擦れ合う音とは異なる、初めて聴く「風の音」だ。草原に吹く風が奏でる初めての音。天高く、青空と真っ白な雲がいつも以上に視界に飛び込んでくる。空の青、草の緑、白い雲、風の音。

サウナで身体が十分にととのっていた僕は、精神も異世界に飛んで、ととのってしまいそうだった。

丘を降りて、一人で黙考しながら、湯殿川沿いをゆっくりと歩きながら帰路につく。

小さい子供3人組がまだ水遊びをしている様子が遠目に見え、明るい声が聞こえる。

夕焼けを見ながら、都会の雑踏では気づかなかった、人生で大切なものがちらりと見えた気がした。

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