コロナの閉塞感から抜け出す「ひとり美術館」のススメ

コロナ禍で我々の生活が一変してから一年近く経つ。都市圏では「巣ごもり生活」を送っている人も多いはずだ。テレビでは逼迫した医療や窮乏する飲食業界の話題が日々取り上げられている。

その一方で、文化施設、特に美術館の現状に焦点を当てた報道に接する機会はほとんどない。だが、コロナ禍にあって美術館も打撃を被っている。入場制限や緊急事態宣言中の閉館といった措置をとる館もある。

知人が勤務している美術館は昨秋から今冬にかけて、来館者が通常の2割程度まで落ち込んでしまっているという。曰く「来客減のしわ寄せによって、将来、館の運営規模が縮小してしまうのが怖い」という。これは極端な例かもしれないが、全国各地、どの館も厳しい様相を呈している。特に都市圏では極めて深刻だろう。

来客減少が恒久化すると収益源に直結し、美術館の運営に深刻な影響を与えることは必定だ。こうした事情を踏まえ、美術鑑賞についての意識改革を提言したい。

「美術館はひとりで行く場所ではない」という思い込み

コロナの感染者が多い欧州の国々では、政府のロックダウン施策によって、美術館を含む文化施設が軒並み閉鎖されている。一方、日本では現時点でそうした強硬措置がとられておらず、美術館に来館する否かは個人の判断に委ねられている。

しかし日本でも来館者の減少は不可避であった。美術館関係者の嘆きは先に紹介したとおりだ。読者の方も「この一年で美術館へ足が遠のいてしまった」という人が少なくないだろう。

その理由の一つとして考えられるのが、「美術館はひとりで行く場所ではない」という、もはや無意識のうちに刷り込まれている自己暗示的な価値観である。誰かと一緒に訪れる以上、会話による感染リスクがある。それを避けるため、いまは美術館に行くべきではない。そう考えているのではないか。

美術館に足を踏み入れるとき、あなたの隣に親しい人はいないだろうか。家族、友人、恋人……。特にこの一年、美術館にほとんど行っていない人ほど、一緒に行く誰かの顔が思い浮かぶはずだ。

現在開催中の大阪市立東洋陶磁美術館の「特別展 黒田泰蔵」より

なぜ「ひとり来館者」が少ないのか?

実際、館の立地や展覧会の内容などによって差はあれども、「ひとり」で美術館に行く人は多くない。

例えば、熊本市美術館の2017年度のアンケートによると、来館者のうち、ひとりで来た人は全体の24%にとどまっている。あくまで私の肌感覚であるが、特に若い世代にこうした傾向が顕著なように思われる。

なぜ、美術館にひとりで行く人は少ないのか。誰かと一緒に行くことを好む人が多いのはどうしてなのか。

理由はいくつか考えられるが、背景にあるのは「美術館は神聖な芸術に接する非日常の空間」という意識だろう。柳田國男的に言うなら「ハレ」の場だ。故に、人はなるべく小ぎれいな服を着て、親しい人と一緒に美術館に赴くのだ。

平時ならば、鑑賞後にそうした同行者とお茶をしながら感想を語り合うのもよいだろう。だが、いまはコロナ禍という緊急事態だ。美術館を「ハレ」の場と捉える人が足を運ぶのを控えるのは、ごく自然なことだといえる。

もちろん美術の研究者など、ひとりで美術館を訪れることに全く抵抗感がない人もいる。一方で、美術館が身近ではない人は、何人かで訪れるべき場所という意識が知らず知らずのうちに刷り込まれてきたのではないだろうか。

デートにせよ、修学旅行にせよ、ツアー旅行にせよ、多くの人にとって、美術館での鑑賞は複数人で行われるものだ。さらにほとんどの人にとって、美術館での原体験は小学校での団体鑑賞か、親に連れられて訪れた経験である。明らかに我々の美術館での経験は、集団での鑑賞に偏重しているといえるだろう。

コロナ禍にこそ勧めたい「ひとり美術館」

そうした状況を踏まえて、私はいまこそ、「ひとり」で美術館に行くことを推奨したい。

先程も述べたように美術館の来客は激減し、経営的に厳しい状況にある。今日明日にでも廃館になるというわけではない。しかし運営のあり方が見直されたり、サービスの質が低下したりする恐れがある。

コロナ禍で最大限配慮されるべきなのは、集団行動を避けることである。会食などの集団的行為が感染リスクを高めると指摘されている以上、グループで美術館を訪れてランチも楽しむ……といった行動には慎重になるべきだろう。

こうした状況下で美術館をサポートするには、飲食業界での「孤独のグルメ」と同じように、来館者が「ひとり鑑賞」を意識的に行うのが望ましい、というのが私の見方である。

そもそも、現代の日本において美術館は公共施設だ。すなわち、万人に開かれた場所である。必ずしも襟を正して鑑賞するべきではないし、ひとりで足を踏み入れづらい雰囲気を有するべきではないのだ。

大阪・中之島の国立国際美術館前

「ひとり美術館」で得られるものとは?

美術館はひとりで訪ねた場合でも、多くのものを与えてくれる。

落ち着いて好きなだけ作品を鑑賞するという点では、ひとりで鑑賞することに勝るものはない。誰かと絵の感想を語り合うのも楽しいが、ひとりで絵をじっと見て、自分がどう感じるかを観察する思考実験に興じるのは格別な体験だ。

もし普段の生活に孤独を感じていたとしても、美術館に行けば、孤独そのものをテーマにした作品に出会うことができるかもしれない。そうした作品が、ひとりで生きることを後押ししてくれることもあるだろう。

優れた芸術作品にふれることで、無味乾燥な日常を、たとえ一時的でも忘れることができる。特にほとんどの人が海外に渡航できない今、異国からもたらされた作品を通じて見果てぬ地に思いを馳せることは、閉塞した世の中で我々にできる数少ない「抵抗」となるはずだ。

本来、美術館に行くことには目的など必要ない。

単なる息抜きであってもいいし、完全なる無目的でも構わない。仮に自分が芸術に疎かったとしても問題ない。作品の予習もしなくていい。見終わった後に何かを学んでいる必要もない。

そもそも美術館は、すべての人のためにある「公共の場」である。老若男女問わず、散歩のついでにふらっと立ち寄れる場所であってほしい。特別展を意気込んで見にいくのではなく、常設展を数百円払って見て帰る……そうしたひと時はきっと、息が詰まるような日常のささやかなスパイスになるだろう。

いまのような状況だからこそ、美術館に馴染みがある人もない人も、「ひとり」で美術館に足を運んでみてほしい。コロナが収束してからも「ひとり鑑賞」が習慣となれば、人生がより豊かなものとなるだろう。

そして、いま岐路にある美術館も、ぜひ「ひとり」での来館者に焦点を当てた施策を打ち出してもらいたい。

それは短期的に、新たな来館者を開拓するだけではない。中長期的に見ても、美術館をより開かれた場にして、社会における意義を確保することにつながるはずだ。

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安積柊二 (あさか・しゅうじ)

1995年生まれ、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程在学中、日本学術振興会特別研究員(DC1)。専門はフランツ・フォン・シュトゥックなど世紀転換期のドイツ美術。現在美術館でインターン中。趣味はファゴット演奏。

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