「人は『正しい』を愛するとは限らない」AV業界から東大大学院へ 作家・鈴木涼美さん

新刊を出した文章家の鈴木涼美(すずみ)さん(撮影・斎藤大輔)

「ブルセラ」と呼ばれた制服を売る女子高生時代から慶應大学へ。キャバクラ勤務、AV出演、東大大学院に進学、日経新聞勤務と異色の経歴を持つ作家・鈴木涼美(すずみ)さん。

今年に入って上梓した『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』(東京ニュース通信社)はバラエティに富んだ内容で、ネットなどで話題になっています。幅広いジャンルで活躍する鈴木さんに、この本に寄せる思いや、執筆のスタンス、そして、ひとりであることについて話を聞きました。

「新聞社を辞めて自由な文体で書けることが嬉しかった」

――雑誌連載などを収めた新刊『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』では、エッセイは軽やかにポップに、書評はシャープにと文体を変えていますね。

鈴木:雑誌での連載が始まったのは新聞社を辞めたばかりのころですが、既定のフォーマットに沿ってわかりやすく伝えるというセオリーがあり、文章の執筆において、文体にそれほど自由があったわけではありません。その枠組みから自由になり、何かを書こうという時に文体から設定できることは大きかったですね。

水彩画、線画、油絵、ペン画といろんな絵があるように、文章も文体を見直すことによって表現の幅は伸び縮みします。私の本を読んだことのある人から「あの本とこの本は同じ人が書いたなんて」と感想をいただきますが、それくらい、文体によって沸き起こるイメージというのは違いがあります。わかりやすさを重視することよりも、文体も含めて表現としての面白さを重視しています。

夜のお姉さんか社会学からの視点なのか。書評は求められている視点を意識して書く(撮影・斎藤大輔)

――時代と逆行する執筆スタイルとも感じられますね。

鈴木:今は短くてわかりやすいものが読まれやすい時代ですが、私自身は必ずしもわかりやすい本こそ良い本だとは考えていません。何度読んでもすべて理解した気がしないような本でも好きなものはたくさんあります。わからない部分と格闘する、そこを読み解くということも含めて読書体験だと思っています。わからない部分が何を意味しているのかというところも味わい深いものです。

文章は、文体と内容が半々でひとつの表現になるんです。例えば『身体を売ったらサヨウナラ』(幻冬舎)であれば、女子同士の会話で知ったエピソードが多いので、主語と述語の間がぐらぐらするような、話し言葉の思考回路を表現したんですね。その一方で今回の本に収録された『テレビブロス』の連載では自己紹介も兼ねて自分が好きだったギャル文化やJ-POPの良さが伝わるような文体にしました。

「自分が息苦しい」ことに捉われると反対からの視点を見失う

――鈴木さんはジェンダーの問題についても世の男性を断罪することなく、優しい視点を持ってユーモラスに描いていますね。

鈴木:意見や思いがある時でも、私自身が最も心がけているのはフェアであること。冷静なフリをして男性を断罪するだけで彼らの痛みにまったく無頓着というのでは、その発言に価値を感じられません。一方の傷をクローズアップするあまり、もう片方の傷に無頓着であったとしたら、それは女性の人権を踏みにじってきた男性のしてきたこととまったく変わらないのではないでしょうか。

もちろん、何かに味方したいとか、誰かを責めたいという思いは誰にでもあるし、結論はアンフェアなものになることはあります。それでも、少なくともフェアな思考回路を見せることが社会に問題提起する者の責任だと考えます。「自分が辛い」「自分が息苦しい」ということに捉われると反対からの視点を見失ってしまうので、複数の視点を持つこと、そのために自分と立場の違う人間の言葉を尊ぶことはとても重要だと思いますね。

その作業は結果的に、自分や自分の仲間のことを「斬る」ことにも繋がりかねません。誰しも自分や自分の味方の非を認めることは抵抗を感じますが、その覚悟がないのであれば、発言は「愚痴」や「戯言」の域を出ない。簡単に例えるなら、「男は若い女が好きだし趣味が悪いし腹立つけど、そんな男にうつつを抜かしている女は私たちでしょ」という視点が時には必要なんです。

――言われてみれば確かにそうですね。

鈴木:露出の多い格好をしていて男性に胸を触られたとき、その男性を非難すべきだとは思います。「ファッションは男のためにしているのではない、自分のためだ」という論理も、ある側面では真実なのでしょうが、そもそも家で胸を出したりミニスカートを履いたりする人はとても少ない。やはりファッションは他者があってのもので「自分がどう見られたいか」に深く関係しているし、触ってきた人がイケメンだったら怒らないということもあり得ます。私たちも大概アンフェアなんです。

社会的な問題を提起する時、自分が擁護したいものにとって不利な情報にも目を向けるというのは、記者であろうが作家であろうが必ず持っているべき視点だと思います。私はたびたび男性批判をしていますが、現代的な「フェミ」と呼ばれる人たちに距離を置かれがちなのは、ダメな女だってダメな男と同じ数だけいるという思想が根底にあるからでしょう。

例えばAV強要問題で「女も賢くなるべき」と言うと、まるで女性に非がある言い方だと批判されるので、そういうことを言えない雰囲気になっています。でも、それを言ったところで彼女たちが傷ついたという事実が否定されるわけでも、女性の地位が落ちるわけでもないですよね。そういう意味で私は「フェミ」と呼ばれる人たちよりも女性を強く信頼しているのだと思います。それは私自身がともすれば「被害者」となる経験をしながら、「被害者」としての人生を生きていたくなかったからかもしれません。

最愛の母の死から3年以上が経つ。議論相手の不在の大きさを感じる日々を送る(撮影・斎藤大輔)

AV女優を「作り出す」業界の構造

――鈴木さんは東大大学院時代に執筆した論文を元にした『AV女優の社会学~なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』(青土社)で文章家としてデビューされていますね。

鈴木:『AV女優の社会学』は東大の北田暁大先生のもとで書いた修士論文を直して本にしたものですが、その大元になったのは慶應の学部生時代、(社会学者の)小熊英二先生のゼミにいたときに書いた論文『現代日本のポルノ業界における女性の意思の成立過程』でした。AV女優をやっていた時期の後半に差し掛かった頃に書いたものです。

大学2年からキャバクラ嬢とAV女優をやっていたのですが、そういう業界に長くいるとそれはそれで刺激がなくなってくるので、4年生になった頃、大学に戻ろうかなという気分になったんですね。

AVをテーマにした論文執筆を思いついたのは、なぜあの業界に勇んで入ったのか、なぜ楽しかったのかを振り返りたかったからなんです。

小学生の頃からイケてる文章を書いているキレイなお姉さんになりたいと思っていた(撮影・斎藤大輔)

――『AV女優の社会学』は世間がAVに出演する女性に期待する像と「自分の存在を知ってほしい」という女性たちの欲望の接点を描いていると感じました。

鈴木:論文では面接という経験を通して、AV女優が自分語りを獲得していく過程を書きました。性の商品化の議論や売買春、性的搾取などの議論において、「自由意志」や「選択」と「強制性の有無」が問題になりますが、実際の「現場における意志」は、業界の構造や世間が手にする情報などが複雑に絡まりながら成立していくという思いがあって、その構造を明らかにしたかったんですね。

その際に性の商品化についての是非の判断についてはあえて留保しています。従来の性の商品化の議論は、擁護派や否定派などの立場を取らずに現場の空気を切り取るフェアな視点が欠けているように思えたからです。

空中戦的に行われている議論はかならずしも現場の雰囲気を言い当てているとは限らず、語られている対象の多くが不在のまま、無意味な対立が起きていることもあります。私がそういう視点を獲得していった過程こそが、今回の新刊でも繰り返し登場する、ひたすら「現場」の空気を吸っていた10代や20代の頃の経験でもあるわけです。当時、ギャルやブルセラ女子高生、援助交際などは、大いに「語られる」対象でしたから。

「苦しいと思うことが正常だ」と言いたい

――経済的に成功した男性が、若くて美しい女性を求めることもある意味「性の商品化」と感じます。

鈴木:歴史や国際状況から、現代的な意味での「正しさ」を導き出すことは可能です。その中では、若さや外面的美しさよりも内面的な実力などで女性を評価することが「正しい」。ただ、人は正しいことを愛するとは限らないし、正しさに興奮するわけではないので、男性が、女性が若く美しく見える化粧やハイヒールから解放されたりすることを正しいと思ったとしても、彼らの下半身がその通りに行動するかどうかはまた別の問題です。

女性の側の「美しくありたいという欲望」も男性に支配された定義のものだと言い切ることは難しい。最初がそうであったとしても、それを楽しいとか可愛いとか感じてきた私たちの生身の感覚もまたリアルなものです。一時期までは理論を学んでいたからこそ理論に回収できないものに興味があります。その態度は理論への絶望と取られるかもしれませんが、その絶望のなかで生きることが大切なのではないかと。

現実を生きる上で理論が私を救って来たかというと、そうとは限りません。私は新刊に盛り込んだあらゆる街場のカルチャーや大衆文化にもずいぶん救われてきました。少女漫画だったり、J-POPだったり、違う時代を生きた女性達の小説だったり。そこに感じる魅力は必ずしも現代的な「正しさ」にそうわけではないけど、その矛盾から目を逸らさないということを常に考えています。

ホストクラブに通っていた女の子たちの話もいつかまとめて書きたいとのこと(撮影・斎藤大輔)

――鈴木さんは、アカデミックな環境の一家に育ち、中学校までは厳格な女子校で過ごしています。夜の世界に入ったのは素手で世の中に触れる感覚を味わいたかったからでしょうか。

鈴木:あまりそういった意識はなかったのですが、自分に見えている世界が絶対的なものではないという感覚を、自らの手で立証したいという気持ちがあったのかもしれません。

学者になるのが嫌だったわけではないし、アカデミックなアプローチへの敬意は常に持っています。例えば私の父も含めて研究分野に身を置く友人達は一度も大学から出ないかわりに理論的な葛藤や毎日国会図書館に通うような気の遠くなる作業で何十年を費やしたりしていました。私はそのような作業はしていませんし、出来ないと思いますが、尊敬はしています。あるいは今でも厳しいジャーナリズムの世界で格闘している新聞社のかつての同僚たちの仕事も尊いものです。私にできるのは、自由に世界にアクセスしながら、水を差すことぐらいなのではないでしょうか。

――鈴木さんにとって「ひとり」であることはどのようなものでしょうか。また、「ひとり」でいる人に本ができることについてお聞かせください。

鈴木:私は母親を失って会社員も辞め、結婚もしていませんからいろんな意味でひとりですが、人が「ひとり」ということを意識するのは家族といようが会社にいようが、自分のことを理解してもらえない孤独と向き合った時のような気がします。

もちろん、人と人とが分かり合うなんていう奇跡はおこらないし、人間はみんな孤独なのですが、過度に孤独を感じて苦しいと感じている人には「苦しいと思うことが正常だ」ということを言いたいです。最近は息苦しさについてフィーチャーした本が多数出ていますが、「私はこれだけ苦しかった」という語りよりも「苦しくていいんだ」という方が希望が持てる気がします。

ひとりでいる人に対して本ができることがあるとしたら、「人間は基本的に愚かで苦しい」と伝えることなのではないでしょうか。みんな愚かでみんな苦しい。でも、その上で生きることにこそ価値があるということを、豊かな言葉で楽しく書きたい。最終的にはそれが読者にとっての救いになると信じています。

【鈴木涼美さんプロフィール】
1983年、東京都生まれ。厳格な女子小中学校を経てブルセラ女子高生となった後、慶応大学環境情報学部に入学。キャバクラ店勤務、AV出演を経て社会学者の小熊英二ゼミに入室、本格的に論文を書くため東京大学大学院へ。大学院修了後は日本経済新聞社に入社。同社を退社後は、『身体を売ったらサヨウナラ~夜のオネエサンの愛と幸福論』(幻冬舎)、『女がそんなことで喜ぶと思うなよ ~愚男愚女愛憎世間今昔絵巻』『非・絶滅男女図鑑 男はホントに話を聞かないし、女も頑固に地図は読まない』 (いずれも集英社)などを執筆。

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