取材後に亡くなった中学生「忘れられない」 フリーライターの追憶

フリーライターの渋井哲也さん
フリーライターの渋井哲也さん

新聞社を辞め、フリーライターになった渋井哲也さんは、「アコムという友達」からお金を借りる日々を乗り越えて、20年間フリーランス生活を送ってきました。渋井さんの取材テーマは、若者の生きづらさや自殺問題、震災など様々ですが、繰り返し現場に足を運ぶことを大切にしています。

渋井さんにとって、何度も同じ場所を訪れ、同じ人と会うことにどのような意味があるのでしょうか。また、長いフリーランス生活のなかで、深く印象に残っている出来事とはなんでしょうか。ジャーナリストとしての渋井さんに迫りました。

【前編】フリーランスは「アコムが友達」 キャリア20年のライターが語る「お金」の話

「後悔というよりは、覚えていたい」

ーーこの20年のなかで、個人的に「忘れられないこと」はありますか?

渋井:僕が取材してきたなかで、一番最初に亡くなった人です。自殺願望を持っている子を取材していて、そのなかに中学2年生の女の子がいました。2002年6月だったかな。その子のことが忘れられないですね。

ーーなぜ、忘れられないのでしょう。

渋井:当時、僕の頭のなかでは、そういう「苦しさ」を自分でしゃべって表現できていれば、ある程度共感する人も集まってくるので、支えられるものだと思っていた。でも、支えられるとしても24時間そばにいられるわけじゃないから、彼女にも落ち込む時間がある。そういうとき、その子が亡くなった。

ーーそこに一種の後悔があるということですか?

渋井:なんですかね。後悔というよりは、覚えていたい。その子は「援助交際をしたい」と言ってたんです。結果的にはしなかったんだけど。僕が「なぜ援助交際したいのか聞きたい」って言ったら、「私は取材がイヤだ。でも、友達としてなら会ってもいい」と。その後、彼女が参加する集まりがあって、そこで2、3回会ったときに「やっぱり取材してほしい」と言われた。その取材をした2週間後くらいに彼女は亡くなったんです。

2週間後だから、最初は取材が影響したのかなと思ったんですけど、聞いてみると亡くなる前日、お母さんに叱責されてたんですよ。(自殺のきっかけは)それだろうって、亡くなった子のお兄さんが言っていて。取材と直接的な関係はないのかもしれないけれど、いずれにせよ、最初に亡くなった子のことは忘れられないです。

ーーその後も、取材対象だった子が自殺をしたケースはあるのですか。

渋井:知りうる限りでは、僕が取材した人で亡くなった子は40人くらいいます。ピークは2003年〜2005年くらいですね。2003年は日本の自殺者数のピークだから、それだけ多いというのもありますが。

ーーその年が多いのには、どんな背景があったのでしょう?

渋井:ひとつは世紀末を超えたけれど、政治・経済がまったくよくならないとか、勉強したところで先が見えないとか、あるいは、家族のありようが変質していった感覚がありました。あとは、いわゆる「いい大学を出て、いい就職をする」みたいなのが崩れた感じですね。

ーー取材していた子が亡くなることで落ち込むこともありますか?

渋井:ありますよ。落ち込みますよ。人が亡くなると、虫になって飛んでくるって言いません? 沖縄あたりだと、亡くなったあと虫になって最後のあいさつに来るっていうんです。ある子が亡くなったとき、僕の部屋にゴキブリが出たんですよ。でも殺せないんです。その子が最後のあいさつに来たのかもって、気にかかって。

インタビューに答える渋井哲也さん

ーーそもそも、渋井さんが「若者の生きづらさ」を取材するようになったのはなぜですか?

渋井:新聞記者時代から子供の話は書いていたんですけど、最初は「子供の人権」みたいなものを考えていたんです。子供の人権問題を考えている人って、虐げられているわけじゃないですか。でも、そういう人たちの発表の場に行くと、苦しんでいる様子があまり感じられなかった。発表できる人ってのは、ある程度なにかをクリアしているんですよね。

ーーだから虐げられている人のなかでも、自ら発信できない人に興味を持った、と。

渋井:僕の意識のなかでは、そういう人がしゃべるまでの物語のほうに関心を持っちゃった。そういう人たちって、自分から人権問題を語ろうとしないんです。

震災を取材し続けるのは「知り合いがいるからという感じ」

ーー渋井さんは震災も継続的に取材されていますね。なぜ、そこまで力を入れているのですか。

渋井:阪神大震災の場合は、震災が起きる前、1年に1回くらい神戸に遊びに行ってたんです。好きな街が燃えちゃったっていうのがありました。最初に取材に行ったのはそういう動機だけども、行けば人に会う。その人がその後どうなったのかな、というのが気になるっていうのがあります。

たとえば被災当時、小学6年生だった子を取材して、それから年賀状のやりとりをしていたことがあって。新聞社を辞めて年賀状のやりとりがなくなってからも、いつかまた会いたいなと思っていたら、東日本大震災が起きた。

そのとき、その子の名前をSNSで検索したら見つかって、フェイスブックで連絡したら返事があった。その子は「1月17日には神戸にいないようにしている」って言ってましたね。原爆の被曝者のなかには「8月6日は広島から離れる」という人がいるんですけど、それに似ている感じで。思い出したくもないんですね。

ーーいま話に出た東日本大震災の場合は?

渋井:僕は栃木出身なので、子供のころ遠足で東北に行っていましたし、旅もしていましたから、神戸と同じ感じです。よく行っていた場所がなくなったっていう。しかも範囲が広い。プラスそこに人もいる。でも僕は最初、福島県は取材しないって決めてたんですよ。原発の問題は大手メディアがやるだろうって思っていたので。だけど(2011年の)3月末に、南相馬市の市長がYouTubeでSOSを自ら発信していたのを見て、「あ、大手も消えちゃったんだ」と思って、福島県に行くようになった。

東日本大震災と取材について話すフリーライターの渋井哲也さん

ーー継続して取材することの重要性は、どこにあるのでしょうか。

渋井:生活の変化と心情の変化を両方、リアルタイムで見られますよね。こちらがリアルタイムで見ているということは、話し手(取材対象)のほうも知っていてくれるから、何か変化があったら教えてくれる。変化を追っていくと、結果として信頼関係が作ることができるんです。

たとえば、最初は「1日3人に話を聞こう」と決めて、1週間東北に滞在したら、計21人に2時間ずつくらい聞くことになる。でも、21人全員とずっと付き合えるかというと、お互いの相性もあるし、連絡先が変わっちゃったりして、話を聞く人の数は絞られていく。だから、あとのほうになると、東北だからというよりも「知り合いがいるから行く」という感じになっています。

フリーライターとしての「ベスト」とは?

ーー取材を続けるなかで、危険な場面に出くわすこともありますか? そういうときはどう対処しているのでしょうか。

渋井:ヤクザの取材をしていたとき、ちょっとトラブったことがあります。そのときはひとりでエレベーターに乗らないようにしたり、電車に乗るときになるべくホームの前のほうに立たないようにしたりとかしてました。

ーー脅迫電話がかかってくることもあるのでしょうか。

渋井:電話がヤクザからかかってくることもありましたよ。ほかに脅迫までいかないような文句のメールもきます。あと、悩みを聞いていた子が亡くなって、その親と会ったとき「どうしてもっと早く私の前に現れなかったの!」って言われたことがあります。子供の悩みを知ってるのであれば、早く知りたかったっていうのがあるんでしょう。でも、たぶん亡くなる前に会っていたとしても、親は話を聞かなかっただろうなと思います。どうなっていたかはわからないですけど、そんな感じがしています。

ーー渋井さんはいまの仕事をしていて、幸せですか?

渋井:……難しいことを聞くね。幸せだと感じたことはないかもしれない。

ーーでも、面白くはある?

渋井:うん。面白くはある。

ーー渋井さんにとって、何がどうなれば、フリーライターとして「ベスト」と言えるのでしょう。

渋井:難しいですね。結果だけ見ると、売れればいいんじゃないでしょうか。まあ、満足できる取材が重なっていけば、ベストに近づけるかもしれません。取材して、自分が書きたいように書けたとか、発表する場所があって、届けたいことが届けられたという感覚があれば、そこに近づいていると思います。

【前編】フリーランスは「アコムが友達」 ライター歴20年・渋井哲也さんが語る「お金」の話

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土井大輔 (どい・だいすけ)

ライター。小さな出版社を経て、ゲームメーカーに勤務。海外出張の日に寝坊し、飛行機に乗り遅れる(帰国後、始末書を提出)。丸7年間働いたところで、ようやく自分が会社勤めに向いていないことに気づき、独立した。趣味は、ひとり飲み歩きとノラ猫の写真を撮ること。好きなものは年老いた女将のいる居酒屋。

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