写真家と建築家と浮島通りを街歩き(沖縄・東京二拠点日記 45)

左から筆者、写真家の岡本さん、建築家の普久原さん。浮島通りにて
左から筆者、写真家の岡本さん、建築家の普久原さん。浮島通りにて

古書展で「ゆんたく」

1月30日 起きてからバルコニーにある植物剪定やら洗濯やらをして、島豆腐と野菜を炒めて食べる。たまりにたまっているインタビューの文字起こしをやる。脳卒中を経験してから右手の筆圧が上がってしまう傾向があり、メモを素早くとるというのを避けるようになった。片麻痺の一種なのだろうが、インタビューのたびに事情を説明して、録音をさせてもらっている。内容を整理しながら起こしていくのだが、そのときにうっかり聞き逃していたことを相手がしゃべっていて興奮することがまれにある。いま仕事を4~5本並行してやっているが、文字起こしの量を考えるとこれが限界。

「陶・よかりよ」で購入したキム・ホノ氏の作品

「陶・よかりよ」で取りおきしていたキム・ホノ作品を引き取り、ついでに同氏作の黄色のマグカップを買った。ジュンク堂の地下で開催中の新春古書展にいくと、出店している店主が交代で店頭にいて、その日は小原猛さん(作家でもあり『琉球妖怪大図鑑 上・下』、『おきなわ妖怪さんぽ』などの作品がある)と櫻井寿枝さんがいたのでしばらく「ゆんたく」(おしゃべり)していたら、店長の森本浩平さんも合流。ぼくは、沖縄戦ー沖縄を学ぶ100冊刊行委員会が編集した『沖縄戦ー沖縄を学ぶ100冊』(1985)と、石原昌家さんの『大密貿易の時代ー占領初期沖縄の民衆生活』(1982)を買う。

ジュンク堂地下で開催されていた新春古書展

そのあと栄町に移動して「下町ライオン」で普久原君と合流、「二階の中華」で琉球朝日放送の島袋夏子さんとジュンク堂の森本さんも時間差で合流。「ブーシェ」に移動して、オーナーの大城忍さんにごあいさつ。島袋さんが帰路についたあと、3人で「トミヤランドリー」、「チルアウト」、「スナック 雅代」と流れた記憶があるが、久々に帰宅は3時をまわっていた。

1月31日 今日もバスでコザに向かう。かつてコザでFMチャンプラを立ち上げた新崎康裕さんに会う。一番街の屋台で合流したら、となりにいた方が玉城デニー知事が内装業をしていたときに、同じ仕事を余所でやっていたいう方だった。3人で最終の那覇行きバスまで話し込んだ。帰りに「串豚」にひとり寄って帰還。

「串豚」で食べたおでん

浮島通りを3人歩き

2月1日 今回の滞在では、青木隼人さんのギターソロのアルバムをずっとかけている。たまたま、RBCで「九州・沖縄ドキュメントムーブ」(再放送)で『燃える石と緑の煉獄ー西表石炭坑島の記憶』をやっていた。昭和から明治になるまで「生きて入った2度と出られない」と言われた圧政炭坑の西表炭坑。国策で三池物産が手掛けた。近くに幽霊が出ると聞いたことが調査を始めるきっかけだったと、三木健さんという沖縄在住のジャナーリストが記録を続けている。三木さんがその跡地を案内するダークツーリズムにカメラがつき、証言者にも会う。

恥ずかしながらぼくは三木さんのことを存じあげなかったが、こういう地道な仕事を長年やってこられている人がいて、地方の番組がそれを敬意をこめて流す。こういう営為こそ、「東京」中心主義におもねらない、その地域でしかできないいい仕事だと思う。インターネットで三木さんの『西表炭鉱写真集』をカートにいれた。

東京から実家に帰省している双葉社の箕浦克史さんーパートナーが那覇出身ーと栄町「おとん」で会う。東京では会う機会がないのだけど、那覇ではご近所さんという関係になり、タイミングよく居合わすと会う。普久原朝充君も合流。ちょうど那覇にやってきた 『沖縄島建築』の写真家・岡本尚文さんが森本さんと牧志の居酒屋で合流したという連絡が入ったので、ぼくらも移動した。そのあとは栄町の「ブーシェ」へ河岸シを変えた。岡本さんも浦添市に部屋を持っていて、ぼくと同じぐらいのペースで東京と行き来していることを初めて知った。

2月2日 岡本さんと普久原君と昼過ぎに合流して3人で街歩きすることになった。『沖縄島建築』の写真家と監修者と街歩きできるぜいたく。浮島通りをそぞろ歩いて「ブンコノブンコ」店長の饒波夏海さんにごあいさつして、「ガーブドミンゴ」に立ち寄って、中村かおりさんの器を見て、ひとつ購入。浮島通りには見るべき、たぶん60~70年代のビルがあり、意匠を観察していくとこだわったデザインが楽しい。「ブラヌラ」で三人でお茶をして、解散。

ガーブドミンゴにて。左から普久原さん、岡本さん、筆者

ぼくは栄町「アルコリスタ」でNHK沖縄放送局の二階堂はるか記者と会う。国策によって「分断」されたちいさな街・辺野古へ記者一人で入って4カ月生活をした。まだ30歳前半の彼女にとって、分断の隙間に入っていくことはすさまじい精神の消耗があったろう。しかしそれがジャーナリストとしての彼女を惹きつけるのだろうと思う。

2月3日 荷物をまとめ空港へ。早めに着いてタコライス弁当を喰う。機内誌を開いたら、毎日聴いていたギタリストの青木隼人さんが作家・翻訳家の駒沢敏器さんの『語るに足る、ささやかな人生ーアメリカの小さな町で』を選書していた。駒沢さんは51歳で亡くなってしまったが、彼の本はぜんぶ持っていて那覇の部屋に置いてある。ぼくは『アメリカのパイを買って帰ろうー沖縄58号線の向こうへ』が好きだが、駒沢さんの人間の「声」の聞き取りかたがやさしくて素敵だ。

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