なぜ日本海のハタハタは「九月に限る」のか?

ハタハタは卵を抱く前もおいしい(イラスト・古本有美)

ハタハタといえば、日本海の冬の味覚だ。まだ五月だというのに、なぜいまそんな話題を、と思うかもしれないが、忙しいみなさんに今のうちから予定を押さえて食べに行って欲しいものがある、東北の日本海側に。

その味を知ったのは、昨年の夏の終わり。所用で山形県の湊町、酒田を訪れたときのことだった。地元の方々との懇親会を終えて会場を出ると、まだ宵の口。宿に帰るには惜しいので、顔見知りの『貳番丁』(にばんちょう)という小さな居酒屋にタクシーで滑り込んだ。

往年の漁獲量がようやく戻った

暖簾をくぐってカウンターに座り、女将さんに、きょうは何がいいですか、と声を掛けたら、あとはおまかせ。まずは地元で「もってのほか」と呼ばれる紫菊の酢の物と、地酒「菊勇」の吟醸酒。菊・菊コンビとは粋なチョイスだ。

次に、黒森の松林で珍しく採れたというハツタケに、地酒「杉勇」を合わせてもらい、さらにイカの刺し身とみょうがで二杯目の酒を平らげると、店主が見計らったように声を掛けてきた。

「きょうはハタハタあるんだ。食べるかい?」

もちろん、大好物だ。子供の頃には大きな身をお腹いっぱい食べたものだが、酒田の大火があった昭和五十一年あたりから急に獲れなくなり、食卓にものぼらなくなった。その後、平成に入って禁漁などの資源管理を行ったおかげで、いまでは往年の漁獲量が戻っているそうだ。

しかしハタハタといえば寒い時期のもの。初秋にもならない九月の終わりに、美味しいものなど獲れるのだろうか。それも、メニューのどこにも載っていないのに。

これはオスなのか、それともメスか

しばらく待っていると、焼き上げられて皿に乗った大ぶりの二匹が、湯気をたてて現れた。なんとも言えない香ばしい匂いがするが、どうもアレが見当たらない。メスがお腹に抱える「ブリコ」だ。

ハタハタといえば、味わいのある白身とともに、独特の粘りと弾力の卵を食べるのが醍醐味のひとつといっていい。それがないということは、これはオスなのだろうか。

いや、これは卵を抱えていないメスなのかもしれない。やっぱり、まだ早いんじゃないですか。そう訝しげに訊くと、店主はニヤリとしてこうつぶやいた。

「ハタハタはな、九月に限るんだよ」

そう言われてまじまじと見ると、鱗のない茶色の薄い皮に包まれた身は、まるで太ったアカガエルのようにパンパンに張っている。箸先をスッと入れてレア気味の新鮮な白身をほぐし、口に運んで噛むと肉汁がジワーッと湧き出てきた。日本海の魚を知り尽くした店主の絶妙な焼き加減だ。

これまで食べたハタハタの中で、一番うまみが乗っているのは間違いない。なんだろう、これは――。目をつぶって堪能していると、店主いわく、「ハタハタは、卵を抱く前が一番美味いんだよ」。

ぬめりのある白身がぬる燗に合う

厳密にいうと、九月の終わりから十月ごろがいいらしい。ブリコは入っていないけれど、これもれっきとしたメスのハタハタなんだとか。あのプチプチもいいけれど、その栄養をすべて身に溜め込んだこれもいい。

いや、これは美味しいですねと唸っていると、お酒のお代わりとして、菊勇の「三十六人衆 出羽の里」をお燗にしたらうまかったんだけど試してみるか、と勧めてくれた。

その日は東北とはいえ、それほど冷え込みを感じなかったが、このお燗が実にハタハタに合う。ぬめりのある白身と、香りとうまみのバランスの取れたぬる燗が、上顎と舌の間でひとしきり混ざり合ってから、喉を通り、食道を押し拡げながら胃の腑へグーッと落ちていく。食の快楽で脳みそが痺れる瞬間だ。

宿に帰ってネットを検索してみると、平成十九年九月十二日の記事が、荘内日報社のウェブサイトに転載されていた。タイトルは、まさに「ハタハタの『身』なら今」というもの。地元水産物卸売市場の関係者は、記事の中でこう語っている。

「ハタハタのおいしさには2種類あると思います。身がおいしいという人とブリコ派に分かれるようです。身を食べるなら、今の時期は脂が乗っていて最高です。子を食べるなら11月以降です」

「陸の孤島」に残る独特の食文化

記事によると、ハタハタは季節によって漁場や水深が変わり、ブリコねらいの漁は海面近くで行うが、九月の漁は底引き網で漁獲するのだそうだ。昨日までブリコ派だった私も、これを味わってしまうと、もう戻れない。庄内の人たちは、こんな美味いものを食べているのか。東京に帰るのがバカらしくなってしまう。

店主が勧めてくれた菊勇の「三十六人衆 出羽の里」についても、ネットで調べてみた。なんでも市場に広く流通する手頃なお酒から選ぶ「第5回日本全国美酒鑑評会」のお燗部門で、大賞に輝いた逸品だとか。なお、出羽の里というのは、地元庄内で作っている比較的新しい酒造好適米の名前である。

いまや山形は秋田と並んで、最も人口減少率の高い地域のひとつだ。江戸時代には「西の堺、東の酒田」といわれた海運の拠点も、東京からの鉄道は上越新幹線と特急いなほを乗り継がなければならず、「陸の孤島」状態になっているからだろう。

しかしその分、北前船でもたらされた関西文化と、日本海の幸、最上川と庄内平野のお米、鳥海山の伏流水といった東北の天然資源、それに江戸時代から連なる「肥えた舌」の伝統が手を組んで、独特の食文化を守り続けている。それが残っているうちに、一度は味わっていただきたい味覚だ。

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氏家英男 (うじいえ・ひでお)

編集者。1967年生まれ。書籍編集、専門誌編集長、ネットニュース編集長などとして、紙とデジタルのメディア立ち上げと運営に長年携わる。コロナ禍で完全テレワークとなり、房総の海の近くへの移住を考えている。

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