美術館はデートには最悪に不向き。そこで相性を測ろうなんて愚の骨頂である

先日、米サイトの翻訳記事を読んだ。タイトルは「初デートの場所は美術館をおすすめする理由」。ある男性への気持ちが盛り上がった筆者は、近現代アートのコレクションで有名なニューヨークのグッゲンハイム美術館をデート場所に選んだ。

その結果、2人は別れた。筆者いわく「2人の美術鑑賞スタイルは、お互いが根本的に相容れないことを示していた」。彼女には「ゴミばかり積み上げた作品」としか思えないものを、彼は「とりつかれたように観る」「不愉快な人」と映ったという。

美術館はひとりで行くところだ

靉光「眼のある風景」(1938年)

しかし文章を読み返すと、真の問題は「お互いの出す合図に応えていない」点だったようだ。彼女が退屈している様子を察知して、気を利かせて一緒に早く出てほしかった、ということである。

実際に同じ場面に遭遇したら、彼女と同じ感想を持つ人は多いだろう。もちろん男性側に立てば「ゴミはないだろ」となるが、女性はこう反論するに違いない――これはデートであって、大事なのは相手(私)を思いやることでしょ?

彼女の提案は、いますぐ美術館にパートナーを連れて行き、自分に合う人かどうか見定めようというものだ。そこで目の前の作品に没頭せず、常に相手のことを最優先に考える人なら合格だ。

私は、美術館は「ひとりを楽しむ」ところと決めている。お気に入りは東京・北の丸公園の東京国立近代美術館だ。30年以上通うお目当ては、日本人画家による常設の所蔵品展である。個人的な記録に限り、スマホでの撮影もOKだ。

館外から有名作品を借りてくる企画展にはあまり入らず、同じ作品を何度も見ている。「また来ました」「しばらくですね」と挨拶したくなる関係だ。作品は変わらなくても、時とともにこちらの印象が変わるものもある。

作品はすべて傑作とは限らない

岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915年)

2月の終わりの所蔵品展の冒頭に飾られていたのは、加山又造の「千羽鶴」(1970年)だった。黒と銀の背景に金色の鶴が群舞している。琳派を思わせる鮮やかな、寒い季節に合った美しい屏風絵だ。

それが5月には、安田靫彦の「黄瀬川陣」(1940/41年、重要文化財)に入れ替わっていた。源頼朝と義経が相対した場面を描く、六曲一双の大作である。張り詰めた空気とともに、兄弟の行く先を暗示した姿が描かれる。

人混み嫌いな私にとって、所蔵作品展がいつも空いているのは大きな魅力だ。作品とじっくり対峙しながら、会田誠の「紐育(ニューヨーク)空爆之図」って「千羽鶴」が下敷きだったのかも、なんて妄想を巡らすこともできる。

この美術館に飾られた作品は、国際的にはあまり知られていない。特に油絵はヨーロッパから画材や技術、手法まで輸入しており、本場から「猿真似」と辛口に揶揄されそうなものもある。

飾られた作品がすべて傑作とは限らない。大半が失敗作かもしれない。そういう見方も美術鑑賞のひとつの可能性だろう。私たちの先輩たちは、果敢に挑戦し続けた。その過程を破棄せず、国の重要文化財として残しているのである。

それを後世の人たちが仔細に検証するとき、私たちがどこから来てどこへ行くのか、思考をめぐらす大切な材料になる。読み直しの作業を通じて、実は世界的に貴重な文化遺産であったと再評価される時代が、いつか来るかもしれない。

「すごいね」「うん」と言えばいいのか

竹内栖鳳「飼われたる猿と兎」(1908年)

そんな社会的な価値は脇に置いても、自分で心から好きと思える作品を見いだせれば生涯の幸運だ。そんな作品とともに過ごす時間は、誰にも邪魔されたくない。1200円の年間パスポートを買えば、繰り返し通うこともできる。

最近は「奇想の系譜」の伊藤若冲や曽我蕭白あたりが注目され、外国人観光客の人気がかなり高い。一方で、グローバルな人気がなくても、日本文化の魅力はやっぱり伝統的な日本画で発揮されていると感じさせる作品がある。

私が愛してやまない村上華岳の「日高河清姫図」(1919年、重要文化財)は、そんな逸品である。安珍清姫伝説の一場面を描いた掛け軸で、これから蛇に化けて火を吐き川を渡るように見えない可憐な少女像だ。次回の公開時期は、残念ながら決まっていない。

そんな多様な作品が並ぶ美術館デートでは、どういう会話が求められるのか。「すごいね」「うん」、あるいは「ピンとこないな」「だね」なのか。いずれにしても相手への同調は欠かせない。さもなくば「不愉快な人」とジャッジされてしまう。

自由な鑑賞が許され、他人と感想が異なるのが当然な美術館で、相性を品定めされるのは苦痛の極みではないか。私は誰かと行ったとしても、ペースが自分と同じ人などいるわけがないと諦めて、出口で待ち合わせる約束をするようにしている。

意見の違いを楽しめればいい

飯田操朗「婦人の愛」(1935年)

それでは美術館デートは、どのような場合でも失敗に終わるのか。可能性はわずかに残されている。たとえば冒頭の記事を書いた女性は、男性にちゃんと不満を訴えればよかったのである。「こんなゴミみたいな作品に、なんで何十分もかけるの!?」

そう言った後、彼が穏やかに「それはね、こういう風に見たら面白いんだよ」と答えてきたとしたら? その説明が知的で説得力があったとしても、耳を傾ける気にならなかったのだろうか。

大事なことは、2人の意見が異なったときに、どういうコミュニケーションをとるかである。男女の違いかもしれないが、こんな会話も悪くない。

「なかなか面白かったね」
「私はそうは思わないわ。絶対ダメでしょ。だって、あれは……」

こういう言動は、最近では「頭ごなしの否定」とか「価値観の押し付け」と嫌われがちである。でも、自分のスタンスが確かなら、多少意見がぶつかってもさほど気にしないのは私だけだろうか。むしろマゾ的な楽しみもあるし、他人の偏見を聞くのは楽しい。

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