市場を切り開く「自信のない確信」があった 3000個のラジカセを収集した男

(撮影・中村英史)
(撮影・中村英史)

もはや懐かしさを感じさせる言葉になった「ラジカセ」。東京・足立区に暮らす松崎順一さん(59)は、そんなラジカセをはじめとするオーディオ機器を集めています。「集める作業が楽しくて、綺麗に飾ろうとか自慢したいという気持ちはない」という松崎さんは、「コレクター」ではなく「蒐集(しゅうしゅう)家」と名乗っています。

子供のころ、連れられて行った大阪万博(1970年)で「未来の世界」に触れ、学生時代はラジオや無線にハマった松崎さん。デザイン会社で働くかたわら、家電を集めました。

42歳のとき会社を辞めて「蒐集家」となった松崎さんのもとには現在、TVドラマやCM、ファッションブランド店のディスプレイに、松崎さんが集めた家電を使いたいという依頼が舞い込んでいるそうです。家電を集めることそれ自体が楽しいという松崎さんに、話を聞きました。

コレクターではなく”蒐集家”

ーー松崎さんはどういった家電を集めているのですか?

松崎:ここには約3000アイテムあるんですが、僕が好きなのは1970年代後半から1980年代前半のものが多いですね。特に1975年〜85年は、僕のなかで「家電の黄金期」と勝手に呼んでいるんです。

(撮影・中村英史)

ーー「ウォークマン」が出たあたりでしょうか。

松崎:「ウォークマン」は1979年発売なので、その真ん中ですね。家電メーカーの勢いがよくて、いろんな製品が生まれた。もっとも華やいだ時期だったと思うんです。1970年代は高度成長期の終わりくらいで、まだ経済もよくて。それが下火になったころ、80年代後半のバブルに向かって、また違う景気の良さになって。バブル景気に入ると、家電は僕が考える方向と違う方向にいっちゃうんで、そこはあまり好きじゃないんですけども。

ーーその時代のものでは、他にどんなものがありますか?

松崎:ソニーのラジカセ「ジルバップ」なんかがそうですね。1978年くらいですかね。

ーーアメリカのいかつい人が肩にかついでる感じのラジカセですね。

松崎:そうです。当時、アメリカでヒップホップの人が抱えてたラジカセは、ほとんどが日本製なんです。Run-DMCとかLL・クール・Jとか、オールドスクール・ヒップホップのアルバムジャケットにラジカセが写っていることがありますが、だいたい日本製です。海外のカルチャーにも影響を与えたという意味でも、日本の家電ってすごかったのかなって。「すごかった」って、過去形ですけど(笑)

ーーオーディオ機器に囲まれながら「コレクターではない」というのは、なぜですか?

松崎:僕の場合、集めるまでが活動範囲なんです。綺麗に飾ろうとかコンプリートしようとかいう気持ちはなくて。集めに行ったところに、たまたま気に入るものがあったら、それを持ち帰ってくるだけ。その行程が楽しいんです。

釣りの「キャッチ&リリース」みたいな感じですね。釣りをする方って、コレクションっていう概念がないですよね。それと一緒で、いろんな魚がかかったときに、これは持って帰る、これは海に返すと決める。

(撮影・中村英史)

ーーだから、集めたものを売ることにも躊躇がない。

松崎:そう。欲しい人がいれば売っちゃうんです。昔のプロダクト、工業製品に対して、過去にこういうものがあったとか、何年にこのメーカーでこういうものが発売されたとか、そこから現代に通じるヒントみたいなものが得られればいいというのが僕の活動なんです。

ーー売る場合は、修理して使えるようにしているとか。

松崎:昔の工業製品が動かないままっていうのは、あまりに面白くなくて。どうせだったら直して、使いたい方に使ってほしいという思いがあって。もう一度使える状態に命を吹き込むみたいなところも僕のポリシーというか使命だと思っているんです。

「ゴミを高値で売ってる」と叩かれたことも

ーー家電を修理して売るほかにも、TV局などから依頼されて、家電を集めたり貸したりしているということですが、そういう形態は独立したときから考えていたものですか?

松崎:会社を辞めて最初にやったのは、僕が集めた古い家電とかプロダクトを売るお店です。リサイクルのセレクトショップみたいな。家の近所でたまたま空いていた場所を借りただけだったので、誰も来ませんでした。

僕が始めた2003年ごろは、そういう世界観というか、ラジカセとか古いものの価値観っていうのがなかった時代。粗大ゴミの日にたくさん捨てられていたんです。そのときにラジカセを整備して数万円で売った。売れないですよ。ネットで叩かれました。「粗大ゴミを高値で売ってるヤツがいる」って(笑) ゴミじゃないよ! って。でも、関心を持ってくれる人がいるってことはもしかすると……とも考えました。

(撮影・中村英史)

ーー「家電」と言いつつ、ほとんどがオーディオ機器なのはなぜですか?

松崎:家電のなかでは、もっとも趣味的要素が強いんです。白物家電、30年前の冷蔵庫とか掃除機を欲しがる人はいなくて。やっぱり一番身近な家電って、パーソナルなものだったんです。特にラジカセとかラジオ。そういうものって、もう1回売りに出されたら欲しがる人って必ずいるよなとは思ってたんです。子供のときに高くて買えなかったから。でも先駆者がいない。自分でマーケットを作る立場だったんで、賭けでしたね。

ーーお金にならないから、誰もやっていないという可能性もあった

松崎:ほかに誰もいないのは、ニーズがないのか、それともマーケットがないだけなのか。でも、自分みたいな人間がたぶん他にもいるだろうと。自分が食べていくくらいの小さなマーケットなら、作れるんじゃないかなって思ったんです。「自信のない確信」みたいなものがありました。

ーー実際には、どんな風に知られるようになっていったのですか?

松崎:ショップは2、3年でたたみまして。「もう会社員に戻る気もないし、ちょっと『深掘り』してみようかな」と思って、家電蒐集家になりました。ラジカセが好きだったんで、ラジカセに特化して。たまたま知りあった方が、出版関係が得意で「本を出してみませんか?」と話をいただいて、ラジカセの写真集を出して。そこからメディアに取り上げられて、徐々に広まっていきました。

ラジカセを作る事業を展開

ーー42歳で会社を辞めたとき、不安はなかったのですか?

松崎:ありました。ただいろんな不安があって。会社に残って、何もないまま定年を迎えて終わっちゃう不安とか、辞めていったんうまくいってもあとでダメになっちゃうパターンの不安とか。いろいろ考えましたよ。

でも、30代後半ぐらいから「50歳をすぎてからでは遅いんじゃないか」と考えていて。それを後押ししたのが、「管理職に」という話がきたときです。管理職になるんだったら辞めちゃおうかなって。ずっと一線でやりたかったんですね。

松崎さんが高校の合格祝いに初めて買ってもらったラジオ(撮影・中村英史)

ーー結果として、今の道に進んでよかったと考えていますか?

松崎:いま振り返って会社がどうなっているかっていうと、僕がいた部署はもう廃止されたんですよ。だから僕が定年までいても、一線でやり続けるという夢は叶わなかったんです。それがよかったのか、悪かったのか(笑)

ーー家電蒐集家としてのゴールというか、目標はどこにあるのでしょう。

松崎:古いものっていつかはなくなるんで、次の方向性を見つけていかなくてはならないんです。いまは、新しいラジカセを作る事業をやっています。僕がいま「こういうデザインだったら使いたい」っていうものを作っているんです。中国のオーディオメーカーと組んで。

大きなメーカーでは作らない、ニッチなデザインの家電を作って、僕と同じ価値観、世界観を持った人と思いを共有したいんです。そういう人たちに喜んでもらえるものを作れば、何よりもまず、自分がうれしいはずなんで(笑)

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土井大輔 (どい・だいすけ)

ライター。小さな出版社を経て、ゲームメーカーに勤務。海外出張の日に寝坊し、飛行機に乗り遅れる(帰国後、始末書を提出)。丸7年間働いたところで、ようやく自分が会社勤めに向いていないことに気づき、独立した。趣味は、ひとり飲み歩きとノラ猫の写真を撮ること。好きなものは年老いた女将のいる居酒屋。

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